「限界」だった小6の私へ。不登校だった小中時代、発達障害の私が通信制高校で見つけた居場所【読者体験談】
監修:藤井明子
小児科専門医 /小児神経専門医/てんかん専門医/どんぐり発達クリニック院長
小学2年生から始まった行き渋り……『NOが言えない』私
現在30代の私は、20代でASD(自閉スペクトラム症)、LD・SLD(限局性学習症)の診断を受けました。
私は、小学2年生から学校に行くのが嫌になっていました。
おとなしい性格のため、誰かに嫌なことを言われても言い返すことができず、「嫌なことを言われたから行きたくない」とだけ母に伝えていました。
でも当時はまだ不登校への理解は低く、母からは「学校に行きなさい」「ずる休みをするな」と怒られる日々。学校に行きたくない私と、行かせたい母で取っ組み合いの喧嘩をしたことも多くありました。そんな中、休み時間は本を読んで過ごし、友人も多くない私でしたが、なんとか小学4年生までは通い続けていたんです。
しかし、小学5年生の時に、すべてが変わりました。
「あの先生のクラスは厳しすぎる」と噂された担任
小学5年生のクラス替えで、指導が厳しい担任の先生になりました。
真冬でも体育の授業時には上に着込むことを許されず、「書くことは考えることだ!」と日記を毎日書くことがクラス全員のノルマでした。あとから聞いた話では、「あの先生のクラスは厳しすぎる」とほかのクラスで噂になっていたそうです。私は先生からは「真面目で優秀な子」「優等生」とよく言われていて、気に入られているほうだったと思います。でも、それがかえって重荷でした。
そして、私にとって最もつらい出来事が起こりました。複数のクラスメイトから学級委員に推薦され、NOが言えない私は半年間学級委員をつとめることになったのです。学級委員に選ばれることや学級委員の仕事は立派なものだと分かっていても、やりたくない役割を押し付けられ、担任の厳しい言動に日々追い詰められていきました。小5と小6は同じ担任が持ち上がることが暗黙のルールだったので、この状況は2年間続くことになりました。
小学6年生で不登校……「もう限界」だった私
小学6年生になっても状況は変わらず、私はついに学校に行けなくなりました。
厳しい担任、やりたくない学級委員、NOが言えない自分……すべてが重なって、私の心は限界を迎えていたのです。両親は私の葛藤や苦しみを見ていて、無理して登校させるようなことはせず、表向きは淡々と受け入れてくれました。でも私自身は、「なぜ学校に行けないんだろう」と自分を責め続けていました。
中学は「心機一転」のはずが……10日で再び不登校
中学は心機一転と思い、学区外の中学校を選択しました。学校選択制度が導入されていたのを利用したのです。でも、わずか10日ほどで不登校に。
自分でも原因はよく分からなかったのですが、今思い返すと、当時は未診断でしたが発達障害の特性が少しずつ表に出てきていたように思います。小学校での不登校を引きずっていたのかもしれません。両親は今回も私を責めることなく、静かに受け入れてくれました。
中学3年生の3月上旬に見学にいった通信制高校
第一志望の公立高校に不合格になった後、3月上旬という遅い時期に通信制高校とサポート校の見学に行きました。通信制高校で目にしたのは、生徒も教職員も皆が「こんにちは‼」と積極的に挨拶をしてくれる光景でした。校舎の清掃も行き届いており、校則もきちんとしていて制服もある。
「ここなら私にも居場所があるかもしれない」
そう思えたのが、この学校を選んだ決め手でした。入学後、先生方が挨拶と清掃をとても大切にしていることを肌で感じました。それは、これまで経験したことのない、温かい学校環境でした。
「恩師」と呼べる先生たちとの出会い
通信制高校での3年間は、私にとって人生を変える時間でした。
もちろん人間関係のトラブルはありました。友人との距離感に悩んだり、それが原因で教室に入れない時期もありました。でも、行き渋りすることはなく、最後まで通い続けることができました。一番の収穫は、「恩師」と呼べる先生方に出会えたことでした。担任は毎年かわりましたが、今も高校2年生と3年生の時の担任たち、そして一番お世話になった先生は学校に残っていて、文化祭に顔を出すのが毎年の楽しみです。
通信制高校でなければできない経験もたくさんありました。授業で沖縄の三線に触れたり、裁判の傍聴に行ったり、宿泊スクーリングも含め、本当に充実した3年間でした。
今、30代になって思うこと
高校卒業後は大学を中退したり、通信制短大に進学・卒業、さらに就労移行支援や就労継続支援A型を利用して企業で事務の仕事をしたり、たくさんの経験をしました。現在は就労継続支援B型でイラストを描いたり、作曲ソフトで作曲をしています。
20代でさまざまな診断を受けて、ようやく自分の特性を理解できるようになりました。「NOが言えない」「おとなしすぎる」そんな特性も含めて、今は自分らしさだと受け入れられています。小学校での厳しい担任、中学での再度の不登校……当時はなぜ学校に行けないのか分からず、自分を責め続けていました。でも通信制高校で出会った温かい環境と理解ある先生方が、私に「自分らしい学び」があることを教えてくれたのです。
今後は自分らしい作品を生み出しながら、無理することなく一歩一歩前に進んでいけたらと思います。同じように学校に行くことに悩んでいるお子さんや保護者の方に、「学びの道はひとつじゃない」ということを伝えたいです。
イラスト/星あかり
エピソード参考/YOSHIMI
(監修:藤井先生より)
これまで歩まれてきた道のりに込められた思いやご努力がとても伝わってきました。居心地の悪さや不登校の経験は、大きな試練であったと思いますが、それでも通信制高校で居場所を見つけ、通い続けられたことは大きな意味のある経験だったのではないでしょうか。「学びは一つではない」という実体験は、同じように学校や将来について悩んでいる方にとって大きな励みになると思います。不登校を経ても、社会との関わりを模索し続けられた姿勢は本当に素晴らしいものです。これまでの試行錯誤の過程は決して無駄ではなく、今後の人生の確かな糧になっていくと思います。
(コラム内の障害名表記について)
コラム内では、現在一般的に使用される障害名・疾患名で表記をしていますが、2013年に公開された米国精神医学会が作成する、精神疾患・精神障害の分類マニュアルDSM-5などをもとに、日本小児神経学会などでは「障害」という表記ではなく、「~症」と表現されるようになりました。現在は下記の表現になっています。
神経発達症
発達障害の名称で呼ばれていましたが、現在は神経発達症と呼ばれるようになりました。
知的発達症(知的障害)、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、コミュニケーション症群、限局性学習症、チック症群、発達性協調運動症、常同運動症が含まれます。
※発達障害者支援法において、発達障害の定義の中に知的発達症(知的能力障害)は含まれないため、神経発達症のほうが発達障害よりも広い概念になります。
ASD(自閉スペクトラム症)
自閉症、高機能自閉症、広汎性発達障害、アスペルガー(Asperger)症候群などのいろいろな名称で呼ばれていたものがまとめて表現されるようになりました。ASDはAutism Spectrum Disorderの略。
SLD(限局性学習症)
LD、学習障害、などの名称で呼ばれていましたが、現在はSLD、限局性学習症と呼ばれるようになりました。SLDはSpecific Learning Disorderの略。