なぜスペインの国歌には歌詞がないのか?世界でも異色な「メロディだけの国歌」
世界には約200の国が存在するが、その多くは愛国心や歴史、民族の誇りを綴った歌詞を伴う国歌を持っている。
しかし、スペイン、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、サンマリノなど、公式な歌詞を持たない国歌もごく少数ながら存在する。
中でもスペインの国歌『王室行進曲(Marcha Real)』は、なぜこれほど長い間、歌詞なしで演奏され続けているのか。
そこには国民の「分断」を回避しようとした苦渋の決断と、歴史の複雑な層が深く関わっている。
繰り返される「国歌統一」への挑戦と挫折
スペインで公式な歌詞が定着しない理由は、一言でいえば「国民全体が納得できる歌詞を作ることがきわめて難しい」からである。
スペインはカスティーリャ語、いわゆるスペイン語を共通語としながらも、カタルーニャ地方やバスク地方、ガリシア地方など、独自の言語や文化、強い自治意識を持つ地域を抱える国家である。
近現代においても歌詞を作り、国民の統合を図ろうとする試みは何度か行われてきた。
しかし、そのたびに「この歌詞は特定の地方を蔑ろにしている」「右派あるいは左派の政治色が強すぎる」といった猛反発が巻き起こる。
歌詞を付けようとすればするほど、かえって国内の対立を煽り、分断を深めてしまう結果となったのだ。
独裁時代の「負の記憶」と葛藤
歌詞制定を困難にさせている大きな要因の一つは、フランコ独裁政権下の記憶にある。
『王室行進曲』は過去にいくつかの歌詞が作られ、フランコ体制下でもホセ・マリア・ペマンによる歌詞が広く用いられた。
しかし、その歌詞は独裁体制や国家主義的な記憶と強く結びつき、民主化以降のスペインでは受け入れがたいものとなっていった。
このため、現在においても「国歌に歌詞を付けることは、過去の政治的対立を掘り返す行為である」という強い抵抗感が国民の間に根強く残っている。
スペインにとって歌詞のない国歌は、特定の政治的主張を排除し、多様な人々が共生するための「中立的な空間」を維持するための選択といえる。
「沈黙」が紡ぐ共生と寛容の精神
現在のスペイン国歌は、1997年の王令によって正式に整理された。
この王令では、古くから「擲弾兵行進曲(Marcha Granadera)」または「スペイン王室行進曲(Marcha Real Española)」として知られてきた曲をスペイン国歌と定めた。
完全版は52秒、短縮版は27秒とされ、公式行事やスポーツの場での演奏方法も定められている。
つまりスペインは国歌そのものを曖昧にしているわけではなく、楽譜や演奏形式を厳密に整えながら、公式な歌詞だけは定めてこなかったのである。
2008年にはスペイン・オリンピック委員会が北京五輪を前に、新たな歌詞案を進めた。これには国際大会で選手たちがただ口ずさむのではなく、国歌を言葉として歌えるようにする狙いがあった。
しかし、採用予定だった歌詞が事前に報じられると、批判が一気に噴き出した。
冒頭の「Viva España!(スペイン万歳)」という言葉がフランコ時代を思わせるとして左派から反発を受け、バスクやカタルーニャの分離主義的な立場からも、国家主義的すぎるとの批判が出たのである。
結局、スペイン・オリンピック委員会は「歌詞には国民を団結させ、広い合意を得る必要がある」として、この案を撤回した。
スペイン国歌が持つこの沈黙は、複雑な歴史を持つ国家が分断を避けるために選んできた、一つの知恵ともいえる。
メロディだけが響くその国歌は、言葉によって一つの国家像を押し付けるのではなく、異なる歴史やアイデンティティを持つ人々が同じ場に立つための余白を残しているのである。
参考 : BOE「Real Decreto 1560/1997」、Reuters「Divisive national anthem lyrics ditched」、Wikipedia「Marcha Real」他
文 / エックスレバン 校正 / 草の実堂編集部