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六角精児の弾き語りで蘇った、昭和ポップス界のレジェンド、ムッシュかまやつの「どうにかなるさ」

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六角精児の弾き語りで蘇った、昭和ポップス界のレジェンド、ムッシュかまやつの「どうにかなるさ」

シリーズ/わが昭和歌謡はドーナツ盤

 俳優にしてギターの弾き語りも達者なエンターテイナー、六角精児さん。映画やドラマでもユーモアのあるユニークな存在感を発揮して大活躍だが、NHKBSの「呑み鉄本線 日本旅」というレギュラー番組を持っている。ともすれば廃線間近のような地方の鄙びた駅に降り立って、その地の名産、銘酒を独り楽しみ旅情をそそる番組である。独り旅だが彼の独特のキャラクターは、地元の人々や居酒屋の店主らからもすぐに受け入れられていつも和気あいあい。見ようによっては葛飾柴又の車寅次郎が、旅先でふらっと近寄って来た感じなのである。

 その彼がアコースティックギターを抱えて歌う特別編番組をたまたま目にしたが、彼自身大好きな楽曲の一つとして、かまやつひろし(ムッシュかまやつ)が昭和45(1970)年にリリースした「どうにかなるさ」(作詞:山上路夫)を披露してくれた。あの日訪れた風景、あの時の列車の窓からの景色が映像でよみがえり、なぜこの歌を選んだか六角さんの心象風景が伝わってくるようだった。「カントリーウエスタン調で、性に合っているというか、僕は好きなんですよ」と言いながらギターを爪弾き出して、決して美声ではないが、その歌いっぷりは彼の人柄そのままで、聞けとばかりの押しつけもなく奥ゆかしさがあり、胸にしみたのだった。

 そうだった、あてのない旅へ。作詞の山上路夫は、青春の一時期誰もが、遠くへ行きたいという感傷の気持ちをたった一言「どうにかなるさ」で掬い取ってくれている。結果、自分を含めて家出を決行した友だちは一人もいなかったが、それより、社会人となって上司に睨まれながら進めていた仕事が二進も三進も行かなくなって逃げだしたい気分の時、フラッと特急列車に飛び乗っていたなんて経験はあった。そんなとき、口を衝いて出てきたのは、「どうにかなるさ」だった。

さぁ、あり金はたいて切符を買っちゃったよ、もう一銭無しだ、これからどうしよう、

まぁどうにかなるさ 

おんなじ暮らしに疲れてさ 俺だってどこかに行きたいよ どうにかなるさ 

仕事もなれたし街にもなれて 未練がないとは言わないが 

それでも行くんだ バカだぜオイラは どうにかなるさ

 

 よくよく聴いてみると、オイラの人生真っ暗、この先どうなるんだ、と暗澹たる気分になってしまいそうな詞が、かまやつひろしの曲に乗ると、投げやりになっているのでもなくどこか新しい未来に進んで行くんだ、みたいに聴こえてくる。夜汽車の行く着く先は、自分を待っている楽しい出来事があるんだ、と期待に胸が膨らむ感じになるのだった。クヨクヨしたって始まらない、どうにかなるさ、と。その歌唱に悲壮感など微塵もない。

 本曲の生みの親、かまやつひろし/ムッシュかまやつ(本名、釜萢 弘)の存在は、われわれ団塊世代の一世代前のミュージシャンと言っては失礼か。それだけに戦後の輸入洋楽、ポピュラー、ポップス、ジャズ、カントリー&ウエスタン等々を日本の音楽文化に植え付け、後に続いたミュージシャンたちの兄貴分として、数々の業績を残してくれた貢献度は文化勲章モノだと思っている。昭和14年(1939)生まれ、父親は戦後の日本にジャズを普及させたジャズ・ミュージシャンの日系アメリカ人ティーブ・釜萢、という辺りまでは知っていたが、かまやつが「ザ・スパイダース」のメンバーとして脚光を浴びるようになってからその存在を知ることになった。ザ・スパイダースは田邊昭知が1961年頃に結成したが、まず田邊と意気投合したかまやつ自身がメンバーの発掘に東奔西走したという。グループ名の名付け親は、父親のティーブ釜萢で、「蜘蛛の巣の様に世界を席巻する」という想いを込め命名したという。結成以後は数年の雌伏期間もあったが、GS(グループサウンズ)ブームの先駆けとして牽引するようになったのは、1964年頃に7人の布陣となった以降だろうと記憶している。田邊昭知(リーダー、ドラムス)、加藤充(ベース)、かまやつひろし(ギター、ボーカル)、大野克夫(オルガン、スチール・ギター)、井上孝之(ギター、ボーカル)、堺正章(ボーカル、タンバリン、フルート)、井上順(ボーカル、タンバリン、パーカッション)。

 折から、「ザ・ビートルズ」旋風が世界に巻き起こっていたことから、ザ・スパイダースの真っ赤なミリタリー風のコスチュームも向こうを張っていたのだろう。1965年かまやつによる作詞・作曲「フリフリ」はクラウンレコードからシングル・デビュー、初めて耳にした当時は〝フリフリ〟が何だか分からなかったが、この楽曲がグループの勢いに火をつけた。その後、1966年2月「ノー・ノー・ボーイ」(作詞:田邊昭知、作曲:かまやつひろし)、9月「夕陽が泣いている」(作詞作曲:浜口庫之助)、12月「なんとなくなんとなく」(作詞作曲:かまやつひろし)、1967年7月「風が泣いている」(作詞作曲:浜口庫之助)、1968年「あの時君は若かった」(作詞:菅原芙美恵、作曲:かまやつひろし)とヒット曲がつづいた。堺、井上のメーンヴォーカルの歌唱はわれわれの心に響いたが、ザ・スパイダースとしての全盛期は5年にも満たなかった間のヒット曲ではある。ザ・タイガース、ザ・テンプターズ、ザ・カーナビーツ、ザ・ジャガーズなど10代後半から20代前半の若手グループが次々と台頭してきたことで、新たなGSブームが巻き起こり、ザ・スパイダース、ブルーコメッツといった、当時としては年齢層の高いグループが徐々に窮地に立たされていく流れだった。堺正章や井上順はそれぞれ活動しはじめ、かまやつも1970年4月、解散半年前に「どうにかなるさ」をリリースしている。もともとはザ・タイガースの岸部修三・岸部シロー兄弟のユニット「サリー&シロー」の1970年2月発表のアルバムへの提供曲だったというが、どうにかなるさの心境は、グループ退団後を思っての発露だったとは、うがち過ぎだろうか。それよりも、まだザ・スパイダース在籍中のかまやつのソロシングル盤が発売されたことに驚いた記憶がある。ザ・スパイダースのボーカルは堺&井上と決め込んでいたのだ。やはり1970年9月の解散以後、かまやつはフォークシンガーの吉田拓郎とコラボした「シンシア」を歌い、同じ吉田による作詞作曲の「我が良き友よ」をリリースしたのが1975年2月。吉田拓郎が自分ではリリースせず、「ムッシュにプレゼントしたい」と提供した楽曲が、オリコンの週間第1位を獲得する大ヒットとなり、かまやつの代表作になっている。

 かまやつひろしは、もともと母親の妹でジャズシンガーの浅田陽子は叔母にあたり、その夫の森山久はジャズ・トランペッター。その娘の従妹にはフォーク歌手の森山良子、良子の娘で元・歌手の森山奈歩は従姪、シンガーソングライターの森山直太朗は従甥。音楽ファミリーに生まれたかまやつひろしは、子どもの頃から輸入盤レコードを聴きながら育った。青山学院の中学、高校の時からカントリー&ウエスタンをモノにしていたという。日系アメリカ人の父の元での恵まれた音楽環境は、自由で磊落で大らかさを育み、周囲には彼を慕う仲間たちが多く集まった(六本木野獣会)。そのほとんどが年下の若者たちだったはずで、兄貴分的なかまやつがリーダー的存在だったにちがいない。学園紛争がいよいよ激しくなっている時代に、六本木「キャンティ」というイタリアン食堂を根城に富裕な良家の子女たちが夜な夜な集まり歌い文化を語り、人生を語っていた。「キャンティ文化サロン」と言ってもいい趣の根城こそ、かまやつひろしの音楽界にとどまらない広範囲のアーティストとの交流を生み、様々な楽曲を提供することになっていったのだろう。(その業績をここですべて紹介するにはあまりにも紙数が足りない。いずれ本誌で「特集:ムッシュかまやつ」をお届けできる日が来るだろう。)2017年3月1日、享年78。

文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫

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