【静岡の高校サッカー戦後史Vol.47】静岡工業(現・科学技術高)が1951年度、藤枝東を倒して初の県頂点に!
【静岡工業①】創部6年目 初の県制覇
※2011年3月〜11月に「静岡の高校サッカー 戦後の球跡」のタイトルで静岡新聞に掲載した連載を再掲しています。年齢等も掲載当時のままです。静岡サッカー応援アプリ「シズサカ」でまとめてご覧いただけます。
国体のサッカー少年の部は、1969年(昭和44年)度まで単独校同士が争った。県勢は48年度第3回大会の浜松一(現・浜松北)を皮切りに、浜松西、藤枝東、清水東と続き、65年度に5校目の代表校が誕生した。
五つ目の代表校は「静岡工」だった。2008年(平成20年)4月、清水工との再編整備で「科学技術高校」が誕生した。これにより、静岡工サッカー部の歴史に幕が下りたが、刻んできた足跡が消えることはない。
1946年度、加藤久二の声掛けで創部
創部は終戦の翌年の46年度、旧制静岡工業学校時代のことだった。48年度卒の加藤久二(焼津市在住)の声掛けが、サッカー部創設へ導いた。OB会がまとめた記念誌「静岡工高サッカー部60年の足跡」に、球技班としてバレーボール部と併せ発足した―とある。
翌47年度から活動が本格化、新制「静岡工業高校」として新たなスタートを切った48年度には、対外試合でも互角に渡り合うようになる。指導に当たったのは小野田正一、柳瀬晴海、渥美文平、寺井安正の各教諭(いずれも故人)。体育担当ではなかったが、そろってボールを蹴った経験を持っていた。
県スポーツ祭決勝で藤枝東に1−0
新生サッカー部は創部6年目、51年度の県スポーツ祭で初めて県を制した。決勝の相手は強豪としての地位を固めつつあった藤枝東。初の県制覇が懸かり、FBを務めた下野博司(静岡市葵区在住)は「張り詰めた気持ちで臨んだ」ことを覚えている。試合も緊迫、1−0で競り勝った。
次いで臨んだ近県大会。東海4県と山梨、長野の25校が参加した戦いを勝ち抜き、決勝で前年度全国選手権代表の静岡城内(現・静岡)を2−0と圧倒した。
下野によると、右サイドでボールを持つと、迷わず前方の西沢重義(静岡市葵区在住)にパス。受けた西沢が確実に中央に入れ、エースで主将の福井昭(東京都国立市在住)が決めるというサイド攻撃が確立されていた―という。
全国切符逃すも存在感
国体県予選、さらに全国選手権県予選も決勝に進出した。相手はともに藤枝東で、国体予選は0−1で敗れ、選手権予選は同スコアで借りを返した。ただ、選手権は県を制したが、中部ブロック大会決勝で韮崎(山梨)に1−4で屈した。
国体、選手権ともに全国まであと一歩と迫りながら、最後に涙をのんだ。だが、県内の主要大会全てで決勝に進出し、存在感を存分に示した。それが51年度であった。(敬称略)