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『私をスキーに連れてって』に続く『彼女が水着にきがえたら』『波の数だけ抱きしめて』製作打ち明け話

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『私をスキーに連れてって』に続く『彼女が水着にきがえたら』『波の数だけ抱きしめて』製作打ち明け話

連載 第4回【私を映画に連れてって!】


~テレビマンの映画武者修行40年


文・写真&画像提供:河井真也

1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。

 プロデューサー、そして映画にとってキャスティングは大事な要素である。

 ただ、何十本も映画のキャスティングをやってきて感じるのが〝絶対ベスト〟は無いということだ。台本の途中でキャストの話になることが多いが、最初のシナリオイメージ通りのメインキャストで撮影を始められたことは殆ど無い。ある時から「そういうものだ」と自分に言い聞かせ、その後は決まったキャストがベスト! と考えるようになった。これも何かの縁での出会いだと。
『私をスキーに連れてって』もそうだったし、今でもあのキャストで映画を誕生させられたことは幸せだった。
 ただ、『彼女が水着にきがえたら』で三上博史さんが、自己都合で参加できないことになった時は、正直ショックもあった。
 何となく、当初より『私をスキーに連れてって』の次は「海」がモチーフ。そして3作目は「車」とか……。企画を考えながら『私をスキーに連れてって』のコンビは3作共通で……と思っていたからだ。
 でも俳優としての彼と付き合っていると、確かにホイチョイムービーのテイストは彼の志向には合わない。と言っても『私スキ』における彼の存在感、貢献度は大きい。『私スキ』の翌年1月ドラマ「君の瞳をタイホする!」(フジテレビ/1988)に抜擢され、大人気となり『私スキ』から「君の瞳をタイホする」をミックスして〝トレンディ〟という言葉が生まれ、月曜9時のドラマは〝トレンディドラマ〟と呼ばれるようになり、ホイチョイ映画も〝トレンディ映画〟となった。

 殆ど取材を受けない馬場康夫監督の代わりに僕が雑誌「an・an」やら「POPEYE」に登場させられ、〝トレンディ〟を誌面で語ることになってしまった。本当はATG映画のようなことをやりたかった……等は、取材では語れなかった。実家(奈良)の父親からは珍しく便りがあり「カッコ悪いからやめた方が良い」のアドバイスもあった。
 ある意味では三上博史さんとは志向の近いところもあり、その後『スワロウテイル』(1996)の主演等をやってもらった。

『私をスキーに連れてって』に続くホイチョイ・プロダクションが第2弾として製作したのが、1989年6月10日に公開された海が舞台のマリン・リゾート・ムービー『彼女が水着にきがえたら』だ。ダイビングをはじめとするマリン・スポーツのディテールをふんだんに織り込み、余暇優先社会に生きる現代の若者たちのライフ・スタイルとピュアな恋愛模様が描かれ、多くの若者たちに支持された〝トレンディ映画〟である。主演コンビは、『私をスキ-に……』に続いて原田知世と、三上博史に代わり織田裕二が務めた。そしてこの映画を彩ったのが、前回のユーミンに代わり、サザンオールスターズのヒットナンバーの数々だった。クルーザー・パーティ、ヨット、原田知世が勤めるのはアパレル・メーカー、とバブル時代公開の映画がそこかしこから匂ってくる。アパレル・メーカーがオンワードと自在する企業名が使われているが、劇中で、俳優の小道具として使われたり、背景として実在の商品名や企業名が使われる、いわゆるプロダクト・プレイスメントという手法で、企業タイアップが多いのも、この映画の特徴だろう。水上バイクはKAWASAKI、主人公たちの車はトヨタ・ハイラックス・サーフや、トヨタ・セリカ コンバーチブル、ビールはバドワイザーという具合だ。劇中の出てくるヨットの名前は、ツバメ号とアマゾン号だが、これはイギリスの児童文学作家のアーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』シリーズへのオマージュに違いない。脚本は前作に続き一色伸幸が手がけている。伊藤かずえ、田中美佐子、竹内力、谷啓、伊武雅刀らも出演。

『私スキ』公開の半年後に入院生活を余儀なくされ、『彼女が水着にきがえたら』のシナリオ打ち合わせやキャスティングは病院で行なったとも言える。湘南の海を舞台の、トレンディ! な映画のキャストを病室のベッド上で考えざるを得なかった。ポスト三上博史はオーディションで選ぶことにした。さすがに一般公募はしなかったが、新人を中心に100人くらいの中から選ぶことになった。
 これも出会いの一つだが、病室のビデオで織田裕二主演のドラマ「十九歳」(NHK/1988)を見た。ベッド上で見ていて、彼の精悍で、ストレートな目線がとても新鮮だった。これこそ青春スターだ! と思ったかは記憶は無いが、イケルとは感じたのだろう。

 彼でキャスティングを決めた後に、オーディションにはその後、大活躍している多くの新人俳優たちが参加してくれていたことを知った。唐沢寿明さんの書いたミリオンセラー『ふたり』(1996)では、『彼女が水着にきがえたら』等のオーディションに落ちたことをバネに、その後スター俳優の道に邁進する決意の旨が書かれていた。
 アメリカなどに比べると日本の映画やドラマはオーディションが極めて少ないが、今後はますます必要になって来るであろう。限られた中ばかりでキャスティングをやっていては、新しい作品が登場する機会も逸することになる可能性がある。
 そんな流れで『彼女が水着にきがえたら』は、原田知世&織田裕二の主演コンビになった。 問題は音楽だった。

 馬場監督はユーミンフリーク。しかも、元々のアイデアにユーミンの「SURF&SNOW」(1980)のアルバムのコンセプトがある。例えれば「逗子マリーナ&苗場プリンス」的な。
 僕自身もそれは十分わかっていたが、サザンオールスターズ好きとしては、一度は桑田佳祐さんに主題歌を作ってほしい希望もあった。事前の感触では事務所(アミューズ:不思議な縁でそこから10数年後自分もお世話になることに)の会長も乗ってくれていた。ユーミンVSサザン、では無いが、どちらかの選択しかない。
 ここで登場するのがホイチョイ・プロダクションのマーケティング戦略だ(彼らはフジテレビで「マーケティング天国」(フジテレビ/1988-1990)という番組まで始めた)。ユーミンとサザンには、申し訳ない限りだが、渋谷辺りの街の若者が「スキー」のあとの「海」の映画の音楽に誰を期待するかアンケート調査……。詳細は書けないが、やはり多くのミュージシャンの中で圧倒的に、この2人に期待が集まった。
 映画はデータ通りにヒットするわけではない。ただ、ホイチョイスピリッツでは、〝求められない映画〟を作りたくは無い。自分たちが創りたいものを作り、それを〝求める人〟がいるということは外せなかったのだと思う。

 映画の新曲(主題歌)を依頼するのは実は悩ましい。『私をスキーに連れてって』にユーミンの書き下ろしの新曲はない。「恋人がサンタクロース」が流れると『私スキ』を思い起こす人が多いので、主題歌と思っている人も少なくないが、正確には「挿入歌」だ。
『彼女が水着にきがえたら』は桑田佳祐さんに新曲を2曲お願いすることなった。結果、出来上がったのは1曲で「さよならベイビー」となっていた。今では名曲だと思えるし、当時もサザンオールスターズとしては初のオリコン1位にもなった。
 それでも映画が完成しているわけではなく、台本をベースにイメージを具現化していく作業は、監督、ミュージシャン、僕も含めて頭の中の映像は一つでは無いだろう。
 映画が〝綜合芸術〟と呼ばれたりするのも、多くの人の違った感性が1本の映画に重なり合わさることの結果、ということだ。
 試写に桑田夫妻がいらして、馬場監督らともクリエイティブな会話がされた翌年、映画『稲村ジェーン』(1990)で桑田さんが初監督をされた。主題歌「真夏の果実」は見事に映画とハマって傑作だと思った。
『彼女が水着にきがえたら』は興行的には『私スキ』よりもヒットした。織田裕二はその後ドラマ「東京ラブストーリー」(フジテレビ/1991)、映画『波の数だけ抱きしめて』(1991)と大スターへの階段を駆け上がっていく。

 実は『波の数だけ抱きしめて』は原田知世&織田裕二の予定でシナリオ打ち合わせをやっていた。馬場監督はホイチョイ3部作は「原田知世」の3部作でもあると。
 ところが、『私スキ』→『彼女が水着』の時と同じようにキャスティングの番狂わせは、また起こるのである。
 今度は映画のスケジュールと原田知世さんのコンサートのブッキングされた日程が合わなかった。原田さんはこの頃から本格的に歌手活動をしていることはわかっていたが、8月公開の映画で撮影を予定していた春にコンサートが既に決まってしまっていた。コンサートは、ずらせない。勿論、本人は出演希望だったが、どうしてもスケジュール調整が出来なかった。
 これは監督ではなくプロデューサーの責任である。他の映画なら撮影をずらす方法も考えたが、夏休み公開の映画、しかも海での撮影は必須だ。しかも東宝の年間の映画パンフレットには公開日も記されている。「邦画系」のブッキングは、前年には公開日も決定し(今の演劇もそうだが)これを変更するのは大変な事だった。原田知世さん本人には了承してもらったが、とても申し訳なかった。

 ホイチョイムービー3部作のラストは夏休み公開で、ヒットすることが各所から求められていた。
 原田知世に代わる映画女優はいないと思った。『彼女が水着』の時のようなオーディションの猶予も無い。内外からは色々言われることは覚悟のうえで、中山美穂にお願いした。
 結果は3部作で最もヒットした。共演の俳優陣にも恵まれた。

▲『私をスキーに……』『彼女が水着に……』に続くホイチョイ・ムービー3部作の完結篇として作られたのが、1991年8月31日に公開された『波の数だけ抱きしめて』。82年の湘南を舞台に、学生生活最後の夏を本格的なFM局設立にかける5人の男女の恋の行方を描いている。映画には、実際に90年に湘南で開催されたイベントの放送局<サーフ90エフエム>と同じ周波数76.3MHzが使用されている。織田裕二は続投で、ヒロインは原田知世に代わり中山美穂が務めた。陽に焼けた健康的なミポリンの姿が、鮮やかに焼き付いている。別所哲也、松下由樹、阪田マサノブ、勝村政信らが共演。本作も一色伸幸が脚本を手がけている。音楽は再びユーミンが担当し「真冬のサーファー」をはじめとするユーミン・サウンドが気分を盛り上げてくれる。主人公の役名は、前作『彼女が水着に……』の原田知世が演じたヒロイン名・田中真理子が引き継がれている。82年が舞台ということで、アイビー、サーファー、ハマトラといった80年代全盛の若者たちのファッションが、公開時に観て懐かしいと目を細めた人たちも多かったに違いない。Tシャツ(写真左)も作られ、都会的なイラストが若者たちに人気だった。今見直してみると「みんな若かったな」というつぶやきと共に、帰らない青春の夏がよみがえり、胸がキュンとしめつけられる。作り手にとっても当時の若者にとっても、青春を語る1本に違いない。

 最も悩んだのは企画決定とタイトルだった。「スキー」「海」と来て3作目は「車」とか色んなアイテムを考えたが長編の映画にはならなかった。「ヤクルトが優勝した日」といったような企画も登場して、なかなか纏まらなかった。トレンディと呼ばれた時代も、企画真っ只中の1990年にはバブルも弾け、時代を切り取ることの難しさを感じていた。

 結局、時流に乗った〝トレンディ〟は諦め、過去話になっていく。原点はJ-WAVEの放送が始まった(1988年10月)ことにあったかもしれない。一度聴いたら忘れられない「81.3~J~wave」を元に、映画では「76.3~Kiwi Fm」となりオリジナルのジングルも作った。

▲『波の数だけ抱きしめて』の舞台となるミニFM局の周波数76.3のロゴが背中にプリントされたTシャツも作られている。この映画の企画が立てられた90年当時は、J-WAVE、BAY-FMなど都市FM局が若者たちの人気を呼んでいたが、映画で描かれる80年代初めには東京にはFMは2局しかなく、もちろんMTVもレンタル・レコード店もなかった。企画書のコンセプト欄には、<1980年代レトロ>、テーマ欄には<無償の創造行為の楽しさ、仲間・友情>とあった。

 とにかく公開日は前年に8月と決定しているので、遅くとも7月には完成していなくてはならない。正直、〝トレンディ映画〟として成功してきたので、過去の〝青春想い出映画〟への不安はあったが、締め切りも重要である。内容がドラマ的であるほど、監督の手腕も問われる。3部作と謳いながら『私スキ』の主演陣も居ない。
 タイトルも難しかった。ちょっと、ややこしいが『彼女が水着にきがえたら』の時も多くの案が出て、数十の中から数個に絞り、街でアンケートを取るのである。「潜らんかな」とか、幾つかのタイトル案のアンケート結果の1位は「波の数だけ抱きしめて」だった。ただ、『私をスキーに連れてって』の次のタイトルとしては相応しくないのではという若手の意見が多かった。「波の数」は「抱きしめられないだろう」とか……感覚的なものだが、3位ぐらいに「彼女が水着にきがえたら」があった。これは具体的に、タイトルから映像も想像出来る。根拠がありそうで無さそうな意見の中で『彼女が水着にきがえたら』に決定した。

▲雑誌「週刊ビッグコミック スピリッツ」の91年9月9日号では、巻頭カラーで‘91夏のホイチョイムービーはこう見ろ!!として、映画『波の数だけ抱きしめて』が、音楽、湘南、ファッションなどをテーマに紹介されている。非売品のDJバージョンのオリジナルCD、映画で使用されたサーフボード、Tシャツ、映画鑑賞券の読者プレゼントも実施されていた。

 当然3作目もタイトル候補を出し、街でアンケートを取った。不思議なことに2作目で1位だった「涙の数だけ抱きしめて」が再びトップになった。議論はあったが、あれから2年間1位ということは、観客の支持が高いことの証明で、このタイトルが、求められたベストである! という結論になった。ホイチョイのマーケティングと、当時視聴率1位だったフジテレビらしいジャッジである。オリジナル企画の場合、タイトルは自由に考えて決めることが出来る。ただ、絶対正解! というタイトルもないと言うことだろうと思う。
 撮影前に、色々ありながら「湘南」を舞台にした映画は、千葉の外房の千倉海岸などをメインにクランクインした。
 音楽(歌)のメインはユーミンに戻ったが、新曲を作ってもらうことはしなかった。そのかわり、ちょっと過去の懐かしさを感じるTOTO の「ロザーナ」やJ.D.サウザー、カラパナなど、3作目ならではのビーチコースト風のテイストを取り入れた。これは成功したのではと思う。 実は洋楽を取り入れるのは、契約も大変でスタッフは苦労した。洋楽だけのサントラ盤もSONY から出てヒットした。
『波の数だけ抱きしめて』は3部作で最もヒットした。意外かも知れないが『私スキ』の2倍だ。興行的に最も危惧した企画が、一番当たった。
 その後、当然ではあるが、会社からは『私をスキーに連れてって2』をやってくれと強いリクエストもあったが、この3部作はこれで終わりにした。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。

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