「原っぱの下に眠る大寺院」南河内最古級、幻の新堂廃寺はなぜ作られた?【富田林市】
近鉄長野線の富田林駅から北へ10分ほど歩くと、緑ケ丘町に広い空き地のような場所が現れます。
一見すると何もない原っぱに見えますが、実はここは国の史跡に指定された「新堂廃寺跡(しんどうはいじあと)」です。
大正時代から古い瓦が出る地域だった
国史跡の新堂廃寺跡です。
後述しますが、新堂廃寺とオガンジ池瓦窯跡、お亀石古墳の3つがセットとなって指定されました。
新堂廃寺は便宜上つけられた名前であり、正式な寺名は不明です。「新堂」とは富田林の古い地名で、旧新堂村から来ています。
富田林市史によると、1936年に仏教考古学者の石田茂作が「飛鳥時代寺院址の研究」の中で初めて用いられた言葉が「新堂廃寺」です。
「小字(こあざ)堂ノ前」と呼ばれたこの地は、大正時代から古い瓦が地中から出てくることで知られていた場所でした。
石田の研究により注目を浴びることとなった「新堂廃寺」ですが、出土した瓦から南河内最古級の寺院として位置づけられるようになります。
大阪府営住宅の建設計画を機に始まった発掘調査
画面遠くに見える建物は大阪府営住宅です。
画面一帯の地域は府営住宅の建設地として確保されていて、1959年、大阪府営住宅の建設計画に伴い、大阪大学と大阪府教育委員会による調査が行われました。
その結果、建設予定地の西側に瓦積基壇をもつ建物のあることと、広範囲に飛鳥時代から奈良時代に年代づけられる瓦が厚く堆積していることが判明したため、府営住宅建設予定地の一部を広場として整備することになりました。
四天王寺級の大寺院があることが判明
1960年代以降も新堂廃寺跡は定期的に調査が行われています。
1997年度から2000年度、4年にわたって富田林市教育委員会が実施した大掛かりな調査では、新堂廃寺跡がとても大きな伽藍を持つ寺院であることが判明しました。
その大きさや威容は大阪市内にある四天王寺をほうふつとさせるものだったのです。
発掘調査では、飛鳥時代に創建された寺が、白鳳期から奈良時代にかけて建て替えや整備を重ね、より大きな伽藍へと変化していったことが分かっています。
こうして西暦2000年ごろまでに新堂廃寺の大きさが明らかとなり、2002年にオガンジ池瓦窯跡、お亀石古墳とともに国の史跡に指定されました。
新堂廃寺を語る上で重要なオガンジ池瓦窯跡
新堂廃寺跡から歩いて数分のところ、北西の位置に池があります。
池の名前は御観寺(おがんじ)池というのですが、かつてここにはオガンジ池瓦窯跡がありました。
説明板に記載があります。
飛鳥時代から奈良時代の瓦を焼いた窯跡で、1969(昭和44)年に池の堤防の裾(すそ)で、多くの瓦の破片が見つかったことから調査が行われました。
飛鳥から白鳳時代にかけて稼働した1号窯と、奈良・天平時代に使われた2号窯があったことが判明しています。
新堂廃寺から近い所に窯跡があること、さらに新堂廃寺跡から出土した瓦と同じ特徴の瓦が発見されたことから、オガンジ池瓦窯跡で焼かれた瓦を新堂廃寺に供給していたと考えられているそうです。
ここで「オガンジ」という言葉に、百済にあった寺院「烏含寺(ヲガンジ/オアムサ)」を連想する研究者もいます。
烏含寺は『三国史記』に「北岳烏含寺」として名が見え、のちに「聖住寺」と改められた寺です。
沿革資料からは615年ごろの創建とみる説があり、もし新堂廃寺の本来の寺名に「烏含寺」の字をあてられるなら、百済との関係を考える上で興味深い手がかりになります。
寺名の一致だけで語れる話ではありませんが、新堂廃寺が建てられたとされるのは7世紀前半であり、当時の倭国には百済系の技術や文化がすでに流入していました。
創建者は明確ではありませんが、蘇我氏勢力や百済系技術者との関係が論じられており、渡来系文化を受け入れた有力者が創建に関わった可能性も指摘されています。
百済は7世紀後半の西暦660年に滅亡し、難民が多く倭国に流れてきたとされますが、滅亡する前から技術者や僧侶、文化や教育に関係する人たちが渡来してきていました。
その中には新堂廃寺創建に関わった人物がいたことも十分考えられますが、推測の域から出ていないのが実情です。
新堂廃寺とオガンジ池瓦窯跡とセットで史跡に指定されたお亀石古墳
新堂廃寺とオガンジ池瓦窯跡とセットで史跡に指定されたのが、お亀石古墳です。
この古墳に使われた瓦は、南東に位置する新堂廃寺の創建期の瓦と共通する特徴を持っています。
そのため富田林市教育委員会は、お亀石古墳の被葬者を、新堂廃寺の創建に深く関わった人物とみています。
説明板によれば、お亀石古墳は1辺20メートル程度の方墳と考えられており、石棺の前に花崗岩などを丁寧に配置した前室と通路が付いています。
大きな特徴として、石棺の3方向に平瓦を積み上げて壁を囲むという構造があり、それがオガンジ池瓦窯跡や新堂廃寺跡で見つかっているものと同じ特徴です。
そのため百済系文化とのつながりも注目される古墳として、新堂廃寺、オガンジ池瓦窯跡とともに国の史跡となったのです。
名もなき廃寺の謎
(公益財団法人大阪府文化財センター内で復元展示している新堂廃寺の鴟尾(しび))
富田林市史によると、これだけの大寺院の形跡が発掘調査で残されているのにもかかわらず、新堂廃寺の正式な寺名が残っていないことに疑問があるといいます。
それによると現在の富田林市内に飛鳥時代に建てられた寺は非常に少ないと考えられるため、『日本書紀』などに寺の名前が記されていても不思議ではないものの、該当する寺名は確認できないとのこと。
また、地元にも寺名を伝えるような伝承は残っておらず、新堂廃寺はいつしか人々の記憶からも消えてしまったようです。
その理由として、寺が比較的早い時期に衰え、中世にはほとんど姿を消していた可能性が考えられています。
新堂廃寺は飛鳥時代に造られた後、奈良時代に伽藍の一部が失われ、その後に再建されたものの十分な修理が行われないまま衰退していったとみられています。
一方で、鎌倉時代には寺の東側に小さなお堂が新しく建てられた形跡も確認されています。
室町時代以降に寺が残っていたかははっきりしませんが、仮に存続していたとしても、かつての大寺院とはまったく異なる小さな仏堂がひとつある程度の姿だったと考えられています。
同時に村人が住んでいた集落も、この頃には寺の位置から東のほうに移動、東高野街道に沿って新しい村が形成されていたとされます。
そしてあるタイミングで新堂廃寺の流れを汲んでいた寺そのものが消え、人々の記憶からも消えてしまったのではないでしょうか。
とはいえ、大正時代以降に瓦が多数発見されたことをきっかけに、発掘調査によって大寺院があったことだけは確認され、国の史跡となりました。
今は原っぱが広がっているだけにしか見えませんが、下には当時の遺跡が保存されており、古代のロマンに思いを馳せることができます。
新堂廃寺跡
住所 : 大阪府富田林市緑ケ丘町・中野
アクセス : 近鉄富田林駅から徒歩10分
参考文献 :
・富田林市教育委員会 2003『富田林市埋蔵文化財調査報告35:新堂廃寺跡・オガンジ池瓦窯跡・お亀石古墳』富田林市教育委員会編
・富田林市史 第一巻 考古編
・富田林市
・地元の説明板
文 / 奥河内から情報発信 校正 / 草の実堂編集部