クルマ業界ふたりの革命児
ジョン・デロリアンとジョージ・バリスはともに1925年に生まれた。ふたりはクルマ業界における革命児だったが、彼らの名が語り継がれる理由は、まるで正反対である。
textsimon de burton
THE RAKEインターナショナル版100号を記念して、ちょうど100年前に生まれた自動車業界の大物たちを紹介しようと考えた。そして選んだふたりは、まさに対照的な存在だった……。
バック・トゥ・ザ・フューチャーの男
背が高く、ハンサムで、着こなしはいつも完璧……。ジョン・Z(ザカリー)・デロリアンはまさに「THE RAKE(伊達男)」な人物だった。だが同時に、「とんだならず者」と呼ばれた存在でもあった。
デロリアンは1925年アメリカの工業都市デトロイトに生まれた。父はルーマニアからの移民で鋳物工、母はオーストリア出身だった。ハンサムな容姿に加えて高い知性も備えており、クライスラー工科大学院で工学の修士号を取得。その後、1950年代初頭には落ちぶれていたパッカードという自動車ブランドの再興に尽力した。
続いてゼネラルモーターズに移り、大ヒット作「ポンティアック・テンペスト」を生み出し、伝説のマッスルカー「GTO」を世に送り出した。そして40歳の若さでGM史上最年少の副社長に昇進。だが、天才的な頭脳と過剰な自意識を持つ者にありがちなことに、デロリアンはすぐに会社生活に飽きてしまった。
自分はチームプレイヤーではないと言い出し、デロリアンは自らの自動車ブランドを立ち上げるという野心的なミッションに乗り出した。資金は他人の金でまかなうつもりだったが、その額は膨大であった。
彼は、サミー・デイヴィスJr. やジョニー・カーソンといった著名人を説得して出資させ(カーソンは150万ドルを拠出)、イタリアの名デザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロを巻き込み、さらには「ウブな」英国政府から9700万ドルもの資金を引き出すことに成功した。こうして1978年、彼の夢が現実のものとなった。
デロリアンは、テロの脅威に悩まされていた北アイルランドに雇用と繁栄をもたらすと謳い、ベルファスト郊外のダンマリーに、成功した独身男性のための「倫理的なスポーツカー」を作るための工場を建造すると約束したのだ。
当時この地域は失業率が非常に高く、新工場での高待遇な職に応募者が殺到した。しかし、雇われた人々の多くは、自動車製造の経験がほとんどなかった。
彼らが製造を任された「DMC-12」は、2万5,000ドルの高級スポーツカーで、ジウジアーロによるガルウィング式ドアを備えたステンレス製ボディが採用されていた。足回りはロータス創業者コーリン・チャップマンが手掛けていたが、リアに搭載されていたエンジンは華やかさとは程遠いプジョー/ルノー製だった。
インテリアはハイテクムード満載だった。チルト&テレスコピック式ステアリングコラム、複雑な換気システム、そして多機能のエアコンディショニング・システムが奢られていた。
しかし、その象徴であったガルウィングドアには難点が多かった。ドアは雨漏りしやすく、開いた状態を保つためのガス式ダンパーが、突然へたって閉じてしまうというトラブルが頻発した(実際、ジョニー・カーソンは一度DMC-12の中に閉じ込められたことがある)。
クルマとしては欠点だらけだったにもかかわらず、DMC-12は合計9,200台がなんとか生産ラインから送り出された。しかし同社は始終赤字続きで、1982年に閉鎖されることになった。
ちょうどその頃、デロリアンはFBIによるおとり捜査に引っかかり、2,400万ドル相当のコカイン取引の話に乗ったとして逮捕された。
しかし彼は2年後、捜査が違法だったことを理由に無罪となった。そしてその後も、英国、スイス、アメリカ各国政府に対する詐欺、横領、脱税の疑いをかけられながら、一度も有罪判決を受けることはなかった。
自らの名を冠した自動車ブランドが崩壊した後もなお、彼はマンハッタンに900万ドルのマンション、ニュージャージー州に400万ドルの邸宅を持ち、その間を行き来していた。
彼が個人破産を宣言したのは1999年のことだったが、皮肉なことにその頃には、DMC-12は映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)に登場したことで、世界で最も有名なクルマのひとつとなっていた。もしデロリアン自身がタイムマシンを持っており、その未来を知っていたら、いったいどれだけうまく立ち回ったことだろうか……。
デロリアンは2005年3月19日、ニュージャージー州サミットのオーバールック病院で脳卒中のため亡くなった。享年80歳だった。その墓石には、彼の代名詞ともいえるガルウィングドアを開いたスポーツカーの姿が刻まれている。
カスタム・キングと呼ばれた男
ジョージ・ハリスの名前を聞いてもピンとこないかもしれないが、彼の創造的な仕事はきっとどこかで目にしているはずだ。たとえそれが、元祖テレビシリーズ版『バットマン』(1966〜68年)に登場するバットモービルだったとしても……。
それは、ジョージ・バリスの天才的なカスタムカー職人としての一例にすぎない。彼はかつてカリフォルニアで最もクールなカスタムカーを作る男として知られていた。
バリスはシカゴで、ギリシャ系移民の両親のもとに生まれた。幼い頃に母を亡くし、その後兄のサムとともにカリフォルニア州ローズヴィルの叔父のもとに預けられた。ちょうど西海岸でカーカルチャーが芽吹き始めた時代だった。バリスは幼い頃からクルマに魅了され、7歳の時にはすでにバルサ材で奇抜なクルマの模型を作っていた。
13歳になる頃には、兄と一緒に1925年製のビュイックを修復し、独自のカスタム要素を加えていた。彼にとってカスタムカー製作は「天職」だったのだ。
放課後には自動車工場の掃除係として働きながら腕を磨いていたが、その才能はすぐに認められ、顧客のクルマの修理を任されるようになった。そして18歳のとき、バリスは単身ロサンゼルスへ向かった。そこでは、クルマがティーンエイジャーたちのライフスタイルの一部となりつつあった。
早熟の才能を持つバリスの名を一躍有名にしたのは、1936年製フォード・ロードスターのカスタムだった。そのクルマはサイドステップやドアハンドルが取り除かれ、流線型にシェイプされ、ドアの開閉は電動式となっていた。
やがてその高い技術力が評判を呼び、兄のサムとともにカリフォルニア州コンプトンに「バリス・カスタム(Barris Kustom)」という自動車工房を開業した。スペルに“C”ではなく“K”を使ったのは、自分たちがギリシャ系であることを意識したからだという。この“Kustom”という表現は定着し、彼らが手がけたようなクルマは「カスタム・カルチャー(Kustom Kulture)」と呼ばれるようになり、全米で一種のムーブメントとなった。
バリスが生み出したクルマには、ローダウンされたサスペンション、半球状のルーフ、車体に埋め込まれたライト、そして派手で奇抜なカラーリングといった特徴がみられた。塗装にイワシの鱗を混ぜて、メタリック塗装を作り出したという逸話まで残っている。
バリスにとって大きな転機が訪れたのは1948年のことだった。自動車業界のプロモーター、ロバート・ピーターセンに招かれ、ロサンゼルスで開催されたカスタムカーショーにビュイックを出展したのだ。
ハリウッドの関係者が会場に現れ、バリスの才能に目を留めた。歌手ボビー・ダーリン、フランク・シナトラ、ド派手な衣装で知られたピアニストのリベラーチェなど、名だたるスターたちが愛車のカスタムを依頼するようになった。リベラーチェのキャデラックの内装はピアノの鍵盤を模しており、彼のトレードマークでもある燭台が設置されていた。
その後、バリスはテレビや映画の世界へと活躍の場を広げる。TVドラマ『アダムズのお化け一家』(1964〜66年)や『じゃじゃ馬億万長者』(1962〜71年)などの番組で使われる奇抜な車両の製作を依頼され、その名声を確かなものにしていった。
そして1965年、大人気のスーパーヒーロー、バットマンのためのクルマをデザインしてほしいという依頼が舞い込んだ。彼は1955年製のリンカーン・フューチュラをベースに、バットモービルをデザインし、撮影用、スタント用、プロモーション用など計5台を製作した。オリジナルの1台はバリスの手元に長年残されていたが、2013年にバレットジャクソンのオークションに出品され、420万ドルで落札された。
晩年のバリスの愛車は意外にもトヨタ・プリウスだった——が、もちろんそのままではなかった。ガルウィングドアを装着し、メタリックゴールドにグリーンのアクセントを効かせた、誰にも真似できない仕様に仕上げられていた。「カスタム・キング」の面目躍如である。
バリスは2015年11月5日、ロサンゼルスのエンシノにある自宅で眠るように亡くなった。彼の90歳の誕生日を15日後に控えてのことだった。