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世界一有名な黒猫は、なぜ旅に出たのか―スタンラン《シャ・ノワール》の意外な正体

イロハニアート

パリのポスターと聞いて、この黒猫を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。 真っ黒な体に、こちらを見透かすような細い目。頭の後ろには赤い円が輝き、その周囲を黄色や赤の文字が取り囲んでいます。 テオフィル・アレクサンドル・スタンランが1896年に制作した、一般に《シャ・ノワール》として知られるポスターです。 現在ではポストカードやマグカップなどにも使われ、ベル・エポックのパリを象徴するデザインのひとつになっています。

テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《シャ・ノワール》

, Public domain, via Wikimedia Commons.

ところが、このポスターには意外な事実があります。

これは、モンマルトルにあった「シャ・ノワール」という店そのものを宣伝したポスターではありません。

上部には、こう書かれています。

TOURNÉE DU CHAT NOIR
AVEC RODOLPHE SALIS

「ロドルフ・サリスとシャ・ノワールの巡業」

つまり、この黒猫は店で客を待っていたのではありません。

パリを飛び出し、旅に出ようとしていたのです。

シャ・ノワールは、ただの酒場ではなかった


「シャ・ノワール」が誕生したのは1881年。ロドルフ・サリスが、パリのモンマルトルに開いたキャバレーでした。

ル・シャ・ノワールの店舗

, CC0, via Wikimedia Commons.

ただし、当時のキャバレーは、現代の私たちが想像するショーを楽しむだけの場所とは少し違います。

画家や詩人、作家、音楽家たちが集まり、酒を飲み、作品を発表し、歌い、議論し、政治や社会を風刺する。

酒場であり、劇場であり、文学サロンでもある。そんな場所がシャ・ノワールでした。

当時のモンマルトルには、パリ中心部のブルジョワ社会とは少し違う空気が流れていました。比較的安い家賃を求めて芸術家たちが集まり、既成の価値観にとらわれないボヘミアン文化が育っていきます。

シャ・ノワールは、その文化を象徴する場所のひとつになりました。そして、そこで人気を集めた出し物のひとつが影絵劇です。

スクリーンの後ろから光を当て、切り抜いた人物や風景を動かして物語を見せる。そこに音楽や歌、語りが加わりました。

「ル・シャ・ノワール」での影絵芝居の上映、1886年、カルナヴァレ博物館所蔵

, Public domain, via Wikimedia Commons.

映画が一般化する以前、人々はスクリーン上に展開する光と影の物語を楽しんでいたのです。現代風に言えば、シャ・ノワールは「酒場+ライブ+演劇+映像」を組み合わせたような総合エンターテインメント空間だったともいえるでしょう。

実は「巡業公演」のためのポスターだった


やがてシャ・ノワールの人気は、モンマルトルだけには収まらなくなります。サリスは出演者たちを率いて、フランス各地を巡業するようになりました。

その宣伝のためにつくられたのが、スタンランの有名な黒猫です。

テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《ルドルフ・サリスの「ル・シャ・ノワール」の巡業》1896年

, Public domain, via Wikimedia Commons.

だから、大きく「TOURNÉE=巡業」と書かれているのです。

さらに同じ黒猫を使った別ヴァージョンのポスターには、シャ・ノワールの一座とともに「有名な影絵」「詩人」「作曲家」たちがやってくることまで記されています。

地方に暮らす人からすれば、

「パリで話題のシャ・ノワールが、あなたの街にもやってくる」

という告知だったわけです。

現在では、おしゃれなパリの象徴として部屋に飾られることも多い《シャ・ノワール》。

しかし本来は、かなり実用的な巡業公演の広告ポスターでした。そう知ってから猫の表情を見ると、少し印象が変わります。

「遊びに来てください」と愛想よく誘っているわけではありません。

むしろ、

「面白いものを見せてやる。見たいなら来い」

とでも言いたげです。

なぜ黒猫の頭に「後光」が差しているのか


さらに気になるのが、猫の頭の後ろにある赤い円です。これは単なる装飾ではありません。

聖人の頭の後ろに描かれる「光輪」を思わせるデザインになっています。フランス政府系の美術史サイト「Histoire par l'image」でも、この円は「パロディ的な光輪」と説明されています。

つまり、聖人のような格式ある存在の場所に、一匹の黒猫が堂々と鎮座しているのです。しかも円の中には、「MONTJOYE MONTMARTRE」という文字があります。

中世フランスで使われた鬨の声「Montjoie! Saint-Denis!」をもじったものとされ、「モンマルトル万歳」とでも言いたくなるような言葉です。聖人でも王でもなく、モンマルトルの黒猫に後光を差す。

そこには、シャ・ノワールに集まった芸術家たちらしい、少し不遜でユーモラスな精神を見ることができます。

そもそも、なぜ「黒猫」だったのか


では、なぜ店の名前は「シャ・ノワール=黒猫」だったのでしょうか。これについては、1881年にサリスが開店準備をしていた際、店内で一匹の黒猫を見つけ、それを飼うことにしたことから名づけた、という逸話が伝わっています。

ただし、それとは別に、猫という動物は当時のモンマルトルの文化とも不思議なほど相性のよい存在でした。

メトロポリタン美術館は、モンマルトルを自由に歩き回る猫について、ブルジョワ社会に飼いならされないボヘミアン的な生活を象徴する存在でもあったと説明しています。

猫は、人間に完全には従いません。気が向けば寄ってくるけれど、嫌になればどこかへ行ってしまう。誰かに所有されているようで、完全には所有されない。

そんな猫の自由さが、既成の価値観から距離を置こうとしたモンマルトルの芸術家たちの姿とも重なったのでしょう。

しかもスタンランの黒猫は、決して愛嬌を振りまいていません。目を細めて、こちらをじっと見ています。

現代の「かわいい猫キャラクター」とは、かなり違います。

むしろ、

「お前はこっち側の人間なのか?」

と値踏みされているような顔です。

スタンランは、本当に猫だらけの生活をしていた


そして、この黒猫を描いたスタンラン自身も大の猫好きでした。スイスに生まれたスタンランは、1880年代にパリへ移り、モンマルトルに暮らします。

シャ・ノワールに出入りする芸術家たちとも交流し、ポスターや雑誌の挿絵などを数多く手がけました。彼の作品を眺めていくと、とにかく猫がよく登場します。

有名な牛乳の広告《Lait pur Stérilisé》にも猫が登場し、牛乳を飲む少女のモデルはスタンランの娘コレットです。

テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《ヴァンジャンヌの牛乳》1894年

, Public domain, via Wikimedia Commons.

さらにメトロポリタン美術館によれば、スタンランはモンマルトルで何十匹もの猫に餌を与えていたことでも知られていました。

つまり《シャ・ノワール》は、たまたま「猫の店」の仕事を受けた画家が黒猫を描いた作品ではありません。

猫を繰り返し描き続けたスタンランと、黒猫を象徴とするシャ・ノワール。この二つが出会うことで生まれた作品だったのです。

「かわいい猫の画家」だけではない


現在のスタンランは、猫の絵や華やかなポスターによって知られています。

しかし彼には、もうひとつの顔があります。

パリで暮らす労働者や貧しい人々を描いた画家でもあったのです。労働者、洗濯女、母親と子ども、街を歩く人々。華やかなベル・エポックの裏側で暮らす人々に、スタンランは目を向けました。

社会主義系の新聞や雑誌にも作品を発表し、社会的不平等や戦争にも批判的な視線を向けています。

そう考えると、彼が猫に惹かれたことにもどこか納得がいきます。権威に媚びず、人間に完全には飼いならされず、自分の好きな場所を歩いていく。《シャ・ノワール》の黒猫にスタンラン自身の政治思想を直接読み込むことはできません。

しかし、そのふてぶてしいほどの自由さが、彼の描いてきた世界とよく似合っていることは確かでしょう。

そして翌年、シャ・ノワールは幕を閉じる


このポスターには、もうひとつ皮肉な事実があります。制作されたのは1896年。ところが翌1897年、シャ・ノワールを率いたロドルフ・サリスが亡くなります。

そして、サリスの死とともにキャバレーとしてのシャ・ノワールの時代も終わりを迎えました。

つまり、この有名な黒猫は、

「これからシャ・ノワールの時代が始まる」

ことを告げた作品ではありません。

約15年間にわたりモンマルトルを沸かせたシャ・ノワールが、最後の輝きを放っていた時期に生まれたポスターなのです。

現在、当時のシャ・ノワールはありません。そこで交わされた議論も、歌も、笑い声も、影絵劇の熱気も、私たちは直接体験することはできません。それでも、一匹の黒猫だけは残りました。

パリ土産として見れば、「おしゃれな黒猫」。しかし、その頭にはパロディめいた後光が差し、背後には、詩人や画家、音楽家たちが夜ごと集まった19世紀末のモンマルトルがあります。

そして、この黒猫はかつて影絵や歌や詩を引き連れ、パリを飛び出して旅をしていました。そう知ってからこの作品を見ると、《シャ・ノワール》は単なる「有名な猫の絵」ではなくなります。

それは、19世紀末のモンマルトルという街の自由と反骨とユーモアを背負って旅に出た、一匹の黒猫の肖像なのです。

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