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世界的ディスコブーム「サタデー・ナイト・フィーバー」は新しいミュージカル!

Re:minder

2022年04月08日 映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が4Kデジタルリマスターで劇場公開された日

世界的ディスコブームをリードした「サタデー・ナイト・フィーバー」


映画『サタデー・ナイト・フィーバー』がディレクターズカット4Kデジタルリマスター版で蘇った。

『サタデー・ナイト・フィーバー』といえば、ジョン・トラボルタを一躍 “時の人” にした作品であり、世界的なディスコブームをリードした作品として知られている。映画のメインビジュアルとなった白いスーツ姿のトラボルタがポーズを決めたカットはその後もディスコカルチャーのアイコンとして親しまれていったし、フィーバーという言葉も多用されるようになっていった。

余談だけれど、奥田民生のアルバム『30』(1995年)のジャケットでも、この “トラボルタ・ポーズ” が引用されていた。

確かに、この映画がきっかけになってディスコのイメージが大きく変わったという印象がある。それまでのディスコは、かかる音楽も熱気のあるR&B、ソウルがメインで、こっちもちょっと構えて行くという印象があった。

けれど70年代になると、ディスコで流れるサウンドが次第にカジュアルなニュアンスになっていったという気がする。同じソウルサウンドでもポップス色の強いモータウン・サウンドや、洗練されたフィラデルフィア・ソウル、マイアミ・ソウルなどがクローズアップされていき、ヨーロッパでもジョルジォ・モロダーがプロデュースしたドナ・サマーの「アイ・フィール・ラブ」(1977年)に代表されるミュンヘン・サウンドなど、ユーロビートの先駆けとなるようなサウンドが登場していった。

そんなディスコが、よりポピュラリティのあるスポットになろうとするタイミングで公開されたのが『サタデー・ナイト・フィーバー』だった。日本でもこの頃から、六本木を中心に「キサナドゥ」など時代をリードするディスコが次々とオープンしていく。

様々なアーティストとのコラボレーション効果でビジネス的に成功


そんな現象を観ても、『サタデー・ナイト・フィーバー』が退屈していた若者にディスコ遊びの楽しさを教えた映画だったということは言えるだろう。けれど、この映画にはそれだけではない興味深いポイントがいくつもあった。

たとえば、『サタデー・ナイト・フィーバー』では、さまざまなアーティストの楽曲を映画音楽として使いコラボレーション効果を上げている。そのサウンドトラックアルバムの売上枚数もトータル4000万枚以上を記録し、マイケル・ジャクソンの『スリラー』以前のアルバム売上記録を持っていた。

しかし、既成のヒット曲とのタイアップは『サタデー・ナイト・フィーバー』の発明ではない。すでにジョージ・ルーカス監督の『アメリカン・グラフィティ』(1973年)が物語の舞台となった年代のヒット曲をサウンドトラックに使って絶大な効果を上げていたし、サーフィン映画の『ビッグ・ウェンズデー』(1978)も同じ手法で成功していた。さらに80年代の『トップ・ガン』(1986年)など多くの映画がこの手法を採用している。しかし、その中でもビジネス的にもっとも成功したのが『サタデー・ナイト・フィーバー』だった。

ダンスを観せることでミュージカルの可能性にトライ


ダンスを主体とした映画という視点から見ると、『サタデー・ナイト・フィーバー』は “新しいミュージカルの可能性にトライした映画” とも言えると思う。

ダンスを観せる映画としてはミュージカル映画の系譜がある。というか、そもそも世界最初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(1927年)が音楽映画だったのだから、ミュージカル、音楽映画というのはある意味、映画の本流なのだ。

しかし『サタデー・ナイト・フィーバー』は伝統的ミュージカルの様式とは違う形で “ダンスを観せる” 作品だった。こうしたダンスの取り上げ方は、その後『グリース』(1979年)、『フラッシュダンス』(1983年)、『フットルース』(1984年)などに受け継がれていく。この流れに、タップダンサーのグレゴリー・ハインズとバレエダンサーのミハイル・バリシニコフが共演した『ホワイトナイツ』(1985年)も加えてもいいかもしれない。

ディスコミュージックを通じてビー・ジーズが取り組んだ新しい表現スタイル


このように『サタデー・ナイト・フィーバー』はさまざまな角度から観ることができるポイントがあった。その中でも、僕が個人的にこの映画になにより強く感じたのがビー・ジーズの変身ぶりだった。

ビー・ジーズがデビューしたのは1967年のこと。デビュー曲はフォークロックテイストの「ニューヨーク炭鉱の悲劇」。初めて聴いた時には曲としては気に入ったけれど、不思議なタイトルだなと思っていた。当時は何の情報もなくて知らなかったけれど、この曲は1961年にイギリスのウェールズで起きた実際の炭鉱事故をテーマにしていたと後で知った。

ビー・ジーズはオーストラリアに住むバリー、ロビン、モーリスのギブ三兄弟を中心に、ギターのヴィンス・メロニー、ドラムスのコリン・ピーターセンが加わった5人組だった。彼らは「ニューヨーク炭鉱の悲劇」以降も、「ホリディ」「マサチューセッツ」「ワーズ」など次々と曲をヒットさせていく。ソフトでマイルドだけれどセンスが感じられる楽曲、そしてギブ兄弟の個性的なハイトーンヴォーカルは僕もかなり好きで、彼らの曲集を買って見よう見まねでカバーしたりもしていた。

けれど1970年頃にメンバー間のいざこざのためグループは解体状態になる。その後、3人の兄弟で再出発するが、しばらく低迷状態が続いていた。

そんなビー・ジーズが『サタデー・ナイト・フィーバー』で、それまでのソフトロック的イメージとはまったく違うディスコサウンドに乗せてファルセットで歌いまくっていたのは、ちょっと衝撃だった。

それというのも、僕にとってのビー・ジーズのイメージは、1971年に発表された映画『小さな恋のメロディ』の挿入曲「メロディ・フェア」で止まっていたから。

ビー・ジーズがディスコ・サウンドに取り組んだのは1970年代中期のことだ。1975年に出した「ブロードウェイの夜」などがディスコを中心にアメリカでヒットしていったことが、『サタデー・ナイト・フィーバー』につながっていったのだが、そうした動きは、当時の日本ではあまり見えていなかったという気がする。だから当時、ビー・ジーズは “過去のグループ” と見なされていたという印象だ。

『サタデー・ナイト・フィーバー』には「スティン・アライヴ」などの新曲とともに「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」などの既発曲も使われていた。それは、ビー・ジーズがこの映画のためにあえてディスコミュージックに取り組んだのではなく、ディスコミュージックの中に自分たちの新たな表現スタイルを生み出そうとする取り組みの一環なのだということを示していたのだ。今にしてそう思う。

当時は、その変化に気を取られていたけれど、この時期に過去のスタイルに引きずられずにディスコミュージックにトライしたからこそ、ビー・ジーズはグループとしての寿命を延ばし、新たな表現スタイルにチャレンジし続けることができたのだ。そしてロビン、モーリスが鬼籍に入り、メンバーががバリー・ギブとなる2012年までその活動は続いた。それもまた稀有なことだと思う。

ロバート・スティグウッドの存在


ビー・ジーズが『サタデー・ナイト・フィーバー』の音楽を担当する道筋をつくったロバート・スティグウッド(2016年没)もとても興味深い存在だ。

すでにかなり長くなってしまったので、ごく簡単に触れておくと、ロバート・スティグウッドはもともとビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインの事務所NEMSエンタープライズのスタッフだった。そしてエプスタインの指示でビー・ジーズをスカウトし、マネージメントを担当することとなる。同時に彼はエリック・クラプトンも手掛けていく。

1973年、ロバート・スティグウッドはRSOレコードを設立し、ビー・ジーズもRSOに移籍する。それだけでなく、彼はプロデューサーとしてミュージカルや映画も手掛けていく。1971年はブロードウェイで大ヒットしたロックミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパー・スター』も彼が制作した作品だった。

映画『サタデー・ナイト・フィーバー』もロバート・スティグウッドが製作した作品だった。彼は、その後もプロデューサーとして『グリース』『エピータ』などを手掛けていくが、彼がミュージックシーンの中でなしとげてきた仕事を振り返ってみるのもまた興味深いと思う。

ともあれ、ロバート・スティグウッドがいなければ『サタデー・ナイト・フィーバー』は生まれなかったし、ビー・ジーズのキャリアも違うものになっていた。そう思うとなかなか感慨深いものがある。

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