「悪人」とされた敗者たちは本当に悪かったのか? 勝者がつくった歴史の裏側
「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉があるように、歴史はしばしば勝者によって語られてきました。
敗者は「悪人」「愚者」とされ、その功績や言い分が忘れ去られることも少なくありません。
しかし敗者側から歴史を見つめ直すと、これまでとは違った人物像や事件の真相が浮かび上がってくるのです。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」に込められた意味
「勝てば官軍、負ければ賊軍」の諺が使われ始めたのは、明治初年の戊辰戦争からと言われています。
官軍とは、もちろん天皇・朝廷側のことで、賊軍とされたのは旧幕臣や奥羽越列藩同盟に属した諸藩の人々でした。
彼らが新政府と刃を交えた理由は、それぞれ異なります。
なかでも奥羽諸藩が結束する大きな契機となったのが、激動の京都にあって藩命をかけて朝廷を守護したにもかかわらず、朝敵とされた会津藩などを救済しようとする動きでした。
戊辰戦争は周知のとおり、新政府軍が勝利をおさめ、会津藩をはじめとする奥羽越の諸藩は辛苦をなめることになります。
ですからこの言葉には、たとえ正義があったとしても、負ければ賊軍とされてしまうという意味が込められているのです。
明治維新は、国家統合の象徴的な立場として天皇が再認識された時代でもあります。
鎌倉時代前期に起きた承久の乱以降、天皇・朝廷の政治的な力は大きく後退し、武家政権が優位に立つ時代が続きました。
しかし幕末に至って尊王攘夷運動が高まると、政局はやがて倒幕へと傾き、薩長を中心とする勢力によって明治新政府が樹立されました。
もっとも「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉が生まれる以前から、勝者が敗者を悪く描くという構図は日本史の中に繰り返し見られました。
戦いや権力闘争に敗れた者は、勝者側から暴虐・愚劣などのレッテルを貼られ、逆に勝者は自分たちの勝利が必然であったかのようなストーリーをつくりあげていきます。
とりわけ古代の正史や政権が編纂した記録には、勝者や権力者側の視点が強く反映されることがあります。
そのため、公的に語られてきた歴史の中には、勝者側から見た一方的な人物像が定着した例も少なくありません。
ところが日本には「判官びいき」という言葉があります。
これは強い者や優勢な側よりも、不利な立場や敗者、あるいは虐げられている側を応援したくなる心情を指す言葉です。
こうした「判官びいき」の感情もまた、敗者の人物像を見直す一つの契機となってきました。
さらに戦後、皇国史観を中心とした歴史観が見直されると、歴史研究においても、それまでとは異なる視点から人物や事件を捉え直す動きが進みました。
こうして敗者への再評価が進み、勝者側の記録だけでは見えにくかった「敗者から見た歴史」も、次第に明らかにされていったのです。
貶められ、悪人にされた敗者たちの真の素顔
古代では、乙巳の変で滅ぼされた蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家が、その代表ともいえます。
蝦夷・入鹿は臣下でありながら朝廷をないがしろにするような専横を行い、蝦夷の父・馬子についても、崇峻天皇の暗殺に関与したことなど、その悪行が強調されてきました。
中世においては、平氏が「驕れる者久しからず」と揶揄され、権力者の没落を象徴する存在として引き合いに出されました。
また、鎌倉幕府滅亡の元凶ともされた北条高時は、闘犬や田楽に狂う暗愚な執権として描かれてきました。
近世に入ると、織田信長を滅ぼした明智光秀が主君殺しとして悪しざまに語られ、関ケ原の戦いの敗者・石田三成も、後世の物語などによって数々の悪評を背負わされることになります。
徳川家康についても、明治になると豊臣秀吉との約束を反故にして豊臣家を滅ぼした「狸おやじ」といった人物像が広く定着していきました。
ところが近年では、蘇我氏は渡来系の人々との強い結びつきを背景に、仏教の受容や東アジアとの交流を進め、古代国家の形成に大きな役割を果たした政治勢力としても評価されています。
平清盛は武家政権の礎を築き、北条高時も禅の文化に精通した、高い教養を持つ文化人としての一面がありました。
明智光秀や石田三成についても、行政や領国経営などの実務面で優れた手腕を発揮したことが明らかになっています。
勝者だけでなく敗者の声にも耳を傾けることで、私たちがこれまで「当たり前」だと思っていた歴史の裏側が見えてくるのかもしれません。
※参考文献
遠山美都男『大化改新と蘇我氏』(敗者の日本史1)吉川弘文館 他
文/高野晃彰 校正/草の実堂編集部