学校で教えない「小倉百人一首」のポジティブな楽しみ方【東京都練馬区】
日本人に愛され続けているカルタ「小倉百人一首」。時代や身分を超えた100首にもおよぶその歌は、日本人の琴線に触れる歌ばかりですが、よく読むと暗い悲恋や寂しさを歌った(ネガティブ)な歌ばかりであることに気が付きます。そこで明るい前向きな歌(ポジティブ百人一首)はないのかと探してみると、途端にこの古典文学の新たな魅力を発見することができたのでご紹介します。
ここ最近の年越しというと、若い人の中には盛り場や交差点などでカウントダウンして盛り上がるなんて人もいるかもしれませんが、自宅に集まってTVの歌番組を観たり、友達や家族とゲームの類に興じるという人も少なくないでしょう。そんなゲームの中にあって昔から日本人の間で親しまれてきたカードゲームに「小倉百人一首」のカルタがあります。
帰省した実家の畳敷きの居間で、このカルタをはじき取り合うのが恒例イベントだという人もいらっしゃるのではないでしょうか。
しかしながら、そんなカルタに収められている歌そのものに関しては、判読しづらい草書体ということもあってか、歌をじっくり味わうことなく、ただただ上の句の音に反応して、札を目で追うだけというのが一般的かと思われます。
一方で、この歌をこれまでにない視点で見てみると、カルタ遊びにまた違った面白さが加わることに気がつきます。
そんな「小倉百人一首」の新たな面白さを発見できる歌の味わい方をご紹介します。
恋に恋する定家さんの世界観
この「小倉百人一首」の撰者は、鎌倉の歌人である藤原定家(1162~1241)。ここでは親しみを込めて定家(さだいえ)さんとお呼びします。
昔から数ある歌集が発刊されていて、世界的にみても珍しいポエム大国である日本ですが、そんな数ある歌集の中でもこの歌集だけが、なぜ約800年にもわたって日本人の中でダントツの人気を保っているのかといえば、ひとえにこの定家さんのセレクトの妙があるからなのです。
時代と身分を超え集められた歌は、必ずしもその人の代表作ではないものの、その人が詠んだ歌の中でも特に、日本人好みの心情が吐露され妖艶で悩ましい抒情的な歌ばかりを集めているのです。いわゆる現代でいうところの演歌やフォークの世界が描かれているからです。
実際に定家さん自身の97番目に収められている歌がまたしっかりと悲恋風なのです。
「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」
暮色に染まる松の蒲(淡路島の北端)に塩を焼く煙が立ち上っているだけで、その寂しい光景の中で私は1人で、こがれるような思いを抱き、いつまでも来ない人を待ち続ける。
この寂しすぎる歌は、ひと昔前の都はるみの「北の宿から」か、山下達郎の「クリスマスイブ」の世界観とも重なるものです。日本の歴史上一番お気楽な歌であると筆者が信じる、植木等の「スーダラ節」の世界観とはけっして相いれない、どちらかといえば暗い女々しい恋情をせつせつと歌いあげています。
しかもこれが定家さんが55歳の時の歌で、恋に恋するオヤジの妄想世界というから驚かされるではないですか。
生来の虚弱体質でいつも病気に苦しんだという未病人生で、性格も内向的でどうしても、家にこもり気味のいわばオタク系といわれています。実際の恋愛体験を歌に詠んだわけではないというから、その作家性はかなり高いものがあったわけです。
そんな定家さんが選りすぐって編集しただけに「小倉百人一首」もやはり悲恋の歌が半数近く占めていて、次に多いのが寂しい秋を歌った歌なのです。
「ポジティブ百人一首」その一
それでも歌を丹念に見ていくと、少ないながらも妙に明るく面白い前向きな歌である「ポジティブ百人一首」もあることがわかります。
そんな少数派である「ポジティブ百人一首」だと思われる歌を2首ご紹介したいと思います。
まずは、菅家(かんけ)さんいわゆる学問の神様として有名な菅原道真さん(845〜903)の24番目の収められている歌です。
「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉のにしき神のまにまに」
この歌は、自分を右大臣にまで取り立てた宇多上皇の、宮瀧(現在の奈良県吉野郡吉野町)への御幸にお供したときに詠まれた歌だとされています。
右大臣はいまでいう内閣総理大臣にあたる左大臣の補佐役ですから、さしずめ副総理か内閣官房長官といったところでしょうか。
歌の意味としては、今度の旅は急なことで、峠の道祖神に捧げる幣(ぬさ)も用意することができなかったのですが、その代わり手向けの山の紅葉を捧げるので、神の御心(みこころ)のままにお受け取りくださいという内容です。
ここでいう幣とは、色とりどりの木綿や錦、紙を細かく切ったもので、神社などでよく見かけるしめ縄に取り付けられているひらひらと白い稲妻型のものが一般的です
この歌のどこがポディティブなのかといえば、本来なら神様を前にして恐縮するところを、正式の幣を用意できなかったことを悪びれず、紅葉の枝で勘弁してくださいという、植木等が映画で演じた無責任男みたいな調子の良いところです。
ある意味柔軟性にとんでいるわけですが、権力の絶頂にあった道真さんだからこんな大胆不敵なことができたのかもしれません。しかし、みなさんもご存知の通り、その後まもなく、政敵の陰謀により陥れられ九州・太宰府に流されてしまい、還暦を前にして59歳で没し、次にたたり神になると、雷をピンポイントで落として、自分を陥れた関係者各位の貴族たちを感電死や火災により根絶やしにするという、日本史上1~2位を争う「たたり神」というネガティブなアイコンになるのでした。そのギャップも凄いといえば凄いのです。
「ポジティブ百人一首」その二
次にこれはとんちがきいていて、どちらかと言えば吉本新喜劇風乗りツッコミ型で、周囲を明るくするポディティプな歌だなと思わせる61番目の歌です。
「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」
これは伊勢大輔(いせのたいふ)という女流歌人が詠んだ歌です。彼女は、同じ百人一首の49番目に収められている伊勢の神官の長である祭主でありながら、歌人でもあった大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の孫にあたります。 奈良から八重桜が宮中に届いたとき、本来なら紫式部が受け取るところを、まだ新参者の大輔さんにそのお役目をゆずったところ、そこに偶然居合わせた関白藤原道長さんが、ただ受け取るだけじゃ芸がないから、歌をよんでみてよと言われて即興で詠んだ歌がこの歌といわれています。
この歌のどこがポディティブなのかといえば、まず八重桜の特徴である花弁が幾重にも重なっている状態を訓読みの九重(ここのえ)と表現していますが、これが実は音読みの(きゅうちゅう=宮中)にもかけたダジャレが、巧みに大胆に入っているというところなのです。
歌を聞いた道長さんから「うまい! さすがだ!」なんてツッコミが入ったかどうかは知りませんが、歌からは、突然のお役目を受けたプレッシャーを跳ねのけ、面目躍如となった達成感とその喜びが伝わってくるというものです。きっと現在なら新喜劇だけでなく大喜利の得意な落語家としても成功しそうです。
さてここまで「ポジティブ百人一首」を強引に選んできましたが、実は「小倉百人一首」の歌の解釈は現在でも定まっていないらしく、様々な解釈が出ているとのこと。でもこの歌がポジティブなのかネガティブかで見てみると、今まで遠くにあった古典文学が急に身近に感じてきませんか?
そんな古典との新たな出会いをあなたの見方で仕掛けてみてはいかがでしょうか?
参考文献
「私の百人一首 白洲正子」新潮文庫
「日本の書物 紀田順一郎」ちくま文庫
「知ってるようで意外と知らない日本史人物事典 児玉幸多」講談社+α文庫