悩める人と共に歩む、ユングの心理学とは──河合俊雄さんと読む『河合隼雄』#1【NHK別冊100分de名著】
河合俊雄さんが伝える、河合隼雄の心理学 #1
日本人として初めてユング派分析家の資格を取得し、箱庭療法をはじめとする心理療法を取り入れた臨床心理学者・河合隼雄は、半生をかけて人々の悩みに寄り添い、「こころの問題」と向き合い続けました。
『別冊NHK100分de名著 集中講義 河合隼雄 こころの深層を探る』では、同じ心理学の道を歩む河合俊雄さんが、師であり、父である河合隼雄の著作をやさしく読み解き、その思索の歩みをたどりながら、日本人の心の奥深くに迫っていきます。
全国の書店とNHK出版ECサイトで2025年10月まで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、『ユング心理学入門』を取り上げた本書の第1講を公開します。(第1回/全5回)
入門書を超えた心理学の金字塔
『ユング心理学入門』は河合隼雄が日本語で書いた最初の著作で、一九六六年に京都大学で行った全十三回の講義「分析心理学入門」を骨子としています。刊行は翌六七年で、これは著者がユング派分析家の資格を取得し、スイスから帰国してわずか二年後のことです。
河合隼雄によくあることですが、いくつかの偶然がこの講義と出版の実現を助けてくれたという経緯があります。また精神分析に新たな展開をもたらしたカール・グスタフ・ユングの名は、日本でも多少知られていたものの、その理論や思想が日本ではまだ十分に理解されてはいませんでした。巻頭の「はしがき」からは、自分自身の分析と心理療法の体験を通して知ったユング心理学を、日本で伝えたいという強い思いが感じられます。
ユングの著作は非常に難解で、ユング派の分析を体験したことがない人の理解を許さないところがあるのは確かです。著者自身も、「分析の経験をもたなかったときは、わからぬところばかり」であったと綴っています。
ユング心理学は、宗教や芸術など文化的な問題にも関わるものとして、ヨーロッパでは重要視されていました。河合隼雄は、その理論が東洋的な人間理解の立場とも深いつながりをもっていると考え、これを「できるだけわかりやすく紹介する」ために、臨床や講義の合間を縫って『ユング心理学入門』を書き上げたのでした。
本書は、彼自身が分析体験を通じて理解したことを「できるだけ平明に」「自分の言葉で」書いています。実際の症例をふんだんに用いて読者の理解を助け、内容に厚みと説得力をもたせているところも大きな特徴の一つです。
入門書でありながら、単なる理論や概念の解説に終わらず、「日本人として、西洋で生まれたユングの心理学を学びながら、筆者が感じたり、考えたりしたこと」について言及している点も見逃せません。日本でユング派の心理療法を行うとは、どういうことなのか。日本人の心とは一体どういうものなのか──。彼がその後の半生をかけて取り組むことになる問いが、すでにここで立てられ、それどころかその答えの萌芽が見られます。そのせいか、本書は河合隼雄の第一作であるにもかかわらず、古びずにロングセラーとなっています。
心理学を志す人はもとより、日々の問題として「心」の動きや人間関係、日本的な感性・考え方に関心を寄せている方にもヒントになることがたくさんあると思います。まずは本書の前半部分を読み解いていきましょう。
悩める人と「HOW」でなく「WHY」を探る
『ユング心理学入門』はまず、ユングが創始した分析心理学の基本的なスタンスについて述べています。
分析心理学はわれわれの前に一人の心を病むひとが立った場合、その人に対して助力をするのに必要な心理学について考えようとするのである。つまり、これは理論の精密さや明確さを誇りとするよりは、実際場面に役立つことを第一と考える心理学を探し求めようとの試みである。自動車を修理するひとが自動車について知り、人間の病気をなおす医者が人間の身体について知っているように、われわれ心理療法家──ユングは好んで、こころの医者(Seelenarzt)と呼んだが──は、心について知らなければならない。
ここで指摘されているのは、ユングの心理学が一般の心理学や医学をはじめとする自然科学とは一線を画すものだということです。ユングのいう“こころの医者”は、患者へのアプローチの仕方も、そこで追求される課題も、病気を治す医者とは異なります。著者はそのことを、結婚式を目前にして恋人を交通事故で亡くした人を例に説明しています。
最愛の人を失った人の「あの人はなぜ、死んでしまったのか」という悲痛な問いに対し、医者は「頭部外傷によって」「出血多量により」と説明するでしょう。しかし、それがいかに“科学的に正しい”答えであっても、悲嘆に暮れる人を満足させることはありません。なぜなら、医者は「How=いかに」を語ったにすぎず、この人の「Why=なぜ」には答えていないからです。
自然科学が答える「How」に不満をもった人は、次に自らの問いを「What」に変えて、「私たち二人を引き裂いた死とは何か」と考えはじめます。しかしこれは宗教や哲学の領域の問いです。科学が精密さや明確さを至上とするものならば、宗教や哲学が追求するのは普遍性であり、深い悲しみの淵にある人の“個人的”な心の問題からは離れていきます。
われわれ心理学者としては、死とは何かということを哲学的に追求するのではなく、死とは何かという質問の背後に、どのようにして情動が高まり、どのような過程をたどってそれは平衡状態に達するのかという、心理現象をこそ、与えられた課題として追求すべきではないかと思われる。そして、このような知見をもつことが、われわれの心理療法の実際に役立つと考えられる。
科学的な理論や哲学的な真理に当てはめて考えるのではなく、目の前のクライエント(来談者)の心理現象と向き合い、その人の「素朴にして困難な Why」に答えていくのが心理学であり、ユングの目指した心理療法だということです。
心理療法家は、Why に直接答えるのではないが、視野を拡大することによって、つまり、背後にある情動的なものに目を向けることによって、それを結局、異なった次元での How の問題としてみることができるといえる。人間の心の情動に関する知見を基にしながら、患者のくりだす Why の鎖を共にたどりつつ、一つの高次の平衡状態に至るものである。
クライエントの心を縛りつける「Why」の鎖を共に辿り、その人を揺り動かしている情動がおさまって心のバランスを取り戻していく過程を“共に歩む”のがセラピスト(心理療法家)の本領です。クライエントの問いや悩みに「解答」を与えるのではなく、「解決」へと至る道を一緒に探る。高名なセラピストに相談すれば、原因をたちまち見抜いて、どうすればよいかを“教えてくれる”と思っている人もいるかもしれませんが、そうではないのです。
解決に至る道をクライエントと共に探し、歩んでいくには、相手を客観的に「観察」するのではなく、主体的に関わり、その人の心に起きている現象を共に「経験」する必要があります。そのためには、セラピストが「十分に心を開いた聞き方」をすることが肝要であり、それはクライエントの心の現象の「なかにいる」ということでもあると著者はいいます。
しかしながら、これは容易ならざることです。そのことを、著者は次のように喩えて語っています。
われわれはむしろ、白刃をさげて敵の前に立つ剣士に近い。相手の動きと自分の動きは微妙に相関連し、動き方次第によっては生命を失う危険さえはらんでいるといえる。われわれは、その場のなかに生きているのだ。
病気を治す医者とは異なるものであるのが、この一文からもおわかりいただけるのではないでしょうか。医学のような「客観科学」に対し、ユングの分析心理学は、クライエントの心の動き、心理現象を課題として追求する「心の現象学」だと著者はいいます。
筆者にとって、現象学とは、「自分の視野をできるだけ拡大することに努めつつ、自分の主体をその事象に関与させることにより、その主観と客観を通じて認められる一つの布置を、できるだけ適確に把握しようとするもの」である。
河合隼雄は、客観科学としての心理学の価値も十分に認めつつ、ただし、心理療法の場面では「それのみではいかんともしがたい」と指摘しているのです。
■『別冊NHK100分de名著 集中講義 河合隼雄 こころの深層を探る』(河合俊雄 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
著者
河合俊雄(かわい・としお)
1957年、奈良県生まれ。臨床心理学者、ユング派分析家。京都大学大学院教育学研究科修士課程修了。チューリッヒ大学にて博士号取得。心理療法家としてスイス・ルガーノのクリニックに2年間勤め、帰国後、京都大学大学院教育学研究科教授等を経て2007年より京都大学こころの未来研究センター教授。2018年4月より同センター長を務める。IAAP(国際分析心理学会)会長。おもな著書に『概念の心理療法』(日本評論社)、『ユング派心理療法』『心理療法家がみた日本のこころ』(ともにミネルヴァ書房)、『村上春樹の「物語」』(新潮社)、『心理臨床の理論』(岩波書店)などがある。
※全て刊行時の情報です。