ストーリーが支えた広告の黄金期、天野幾雄さん。
天野幾雄さん(Part 2)
1940年大阪府生まれのグラフィックデザイナー。1965年に東京藝術大学美術学部を卒業後、資生堂宣伝部に入社して、「ベネフィーク」「インウイ」「エリクシール」など主力ブランドのアートディレクション・デザインを手掛けました。2004年より独立し、これまでにADC(東京アートディレクターズクラブ)賞を3回、カンヌ広告映画祭金賞、ニューヨークADC銀賞など数々の賞を受賞しています。
出水:今日は幼少期のお話を伺おうと思いますが、大阪のご出身なんですね?
天野:大阪です。父が住友銀行の銀行員で、仕事も好きだったけど文化がものすごい好きだった人でね。私が生まれたのが1940年で、次の年から太陽戦争が始まっちゃうんですけど、5歳で静岡県の祖父母のいるところへ引っ越したので、5歳までが大阪です。その頃は大阪弁をしゃべっていたと思うんですけど、まったく東京育ちに変わっちゃった(笑)
JK:新宿の高野フルーツパーラーにお父様いらしましたよね。私、その時に会ってるんです。あの中の3階にブティックがあって、偶然お会いして。だからものすごいご縁なの。
天野:その後1951年に、椎名町に池袋モンパルナスという大きな美術家集団の村があって、小学校5年生の時にそこに引っ越してきた。だからそこで芸術の道が出てくる。その当時はまだ「美工」って言ったんですけど、彫刻とか油絵を描いてる人ばっかりで、必ずどこかの家が「遊びにおいでよ」って呼んでくれる。いろんな絵描きさんや彫刻家さんの家に行けたんです。
JK:その環境に住んでたっていうのがすごいですよね! 藝大の学長をやられた宮田亮平先生は、天野さんからデッサンを習ったって聞きましたよ。
天野:そのご縁は、モンパルナスの僕の先生が、長男の宮田宏平先生と美大時代の同期生だった。それで宏平先生を紹介して下さって、受験の頃にデッサンを見ていただて、おかげさまで2年浪人したけれども美大に入れたんです。その時先生が「美」っていう美大のバッヂをつけてくださって、それで大学4年間つけて過ごすんですけれども、末っ子の亮平さんの受験が始まった。彼も苦労して浪人が重なっていて、その頃僕はまだ池袋モンパルナスにいたので、「見てください」って僕のところに来て(笑)
JK:そんなつながりだったのね! 将来学長ですよ!! それから文化庁長官にもなって!! 教え子ですよ!
天野:いつも会うとそう言って下さるんですけどね(^^;) 藝大では3年までみんな同じ勉強をするんですけど、4年からグラフィックデザインやりたいとかインダストリデザインをやりたいとか、陶芸とか彫金とか選択できる。僕は宮田先生にも教わったので、金工科に入った。でも1年だけでは学べなかったので、大学院まで進んだんです。その時廊下に企業の就職募集の張り紙が張ってあって・・・
JK:それで資生堂に入ったんですね。
天野:あの頃僕は金属の作家を目指していたんだけれど、まだ若かったので、東京オリンピックのポスターにすごく影響も受けてたから、田中一功さんの名前も当然知ったし、資生堂を受けてみようと思ったんです。それで学生部に行ったら、「もしダメでも藝大には戻れませんよ」と言われた(笑)これは賭けだなと思ったけど、受けてみたら、おかげさまで(^^) でも資生堂を受けたことでジュンコ先生ともつながったのでね。
出水:どういう試験だったんですか?
天野:結構大変で、まず課題が3つ出されるんですよ。1つは「資生堂の包装紙をデザインしなさい」、もう1つは「資生堂の機関誌のようなものの表紙をデザインしなさい」、もう1つはパッケージのようなものだったかな? グラフィックもそれなりに勉強していたので、対応することができた。面接もおかげさまで通って。
JK:でも天野さんって後輩を育てるのがすっごく上手なの。後輩がみんなついて行く。それで資生堂宣伝部がみんな仲良くなって、みんな優秀で。
天野:それは何といってもジュンコ先生ですよ。ジュンコ先生が大変なネットワークを持っている。それと資生堂の社長の福原さんがすごいネットワークで、蜘蛛の巣が全部つながっていく。
JK:あの当時石鹸作ったでしょ。名前なんていうんだったっけ? 石ころのような石鹸ね。それも石を包むパッケージがまるで和菓子みたいで、もらった人は冷蔵庫に入れちゃったの(笑)福原さんも、その石がどこか湘南の海で拾ったもので、親子が人生話しながら拾ってきたっていうストーリーがすごく好きだったみたい。
天野:あの時代はそういうストーリーがあったんですよね。今、広告が面白くなくなった・・・って言うと今の時代の人に失礼だけど、デジタルに大きく変わったことによってデザインの環境もスピードも価値観も変わってきた。それによって広告の力も「広く告げる」という役割ではなくなってきた。CMも昔は30~60秒と長くてストーリーが描けたのが、今は15秒スポットになって、ストーリーが描けなくなってしまった。そうすると効果・効能・機能というスペックになるわけ。だからどのビールのCMも「旨いな~」「美味しいな~」と言って、顔の表情やアクションが大きくなる。化粧品のCMも同じ。とてもストーリーが描けるものではない。そこが大きく変わった。
天野:それからもうひとつ変わってきてるのは、「みる」という言葉ひとつ取っても「見る」「視る」「観る」「看る」と領域が広がってきた。照明もすごく明るくなって、スマホの中に全部情報が入って、普通「見る」という世界がうんと広くなった。でも人間の本質的な「観る」という力が弱って来た。広告の世界で「AIDMA」っていう言葉があるんですけど、聞いたことあります?
JK:聴いたことないです。
天野:Attention=関心、Interes=興味を持たせる、Desire=欲しいと思わせる、Memory=記憶させる、Action=行動に移させる。これが広告の大きな役割だと教えられてきたんですが、今は通じなくなってきた。2000年代に入って電通さんが作った言葉が「AISAS」。AttentionとInterestは同じで、その後Search=調べる。欲しいと思ったらAction=行動。その後はShare=シェアする。だから時代もこういう風に広く変わってきた。
JK:時代とともに変わるんですね。天野さん、もう聞いちゃったけどマサカはありますか?
天野:日本宣伝賞で吉田賞をもらったことは本当に考えられない出来事でしたね。今年7回目の辰年を迎え、84歳になるんですけど。私の父は新宿でフルーツ博士と呼ばれて、新宿の紀伊国屋書店の店長さんと西口の開発を全部やった。その父親が84歳の時に「現役サラリーマン」っていう本を出して、去年の10月に、自分も同じ年齢なるから1ページ1ページ丁寧に読んだわけ。「ああそうか、俺もまだまだ84歳、アートディレクターで頑張るぞ!」と思ってたら、年明けに吉田賞をいただいて。
JK:お父様に背中を押されたんですね! 天野さん、いっつもお元気ですもん! なんでも飛びつくでしょ。そこが若さだと思う。
天野:こないだ4月22~28日に、藝大の時に同期だった家内と初めて2人展をやろうということになって。彼女はバラとパリが好きなので、「バラパリ」というテーマで家内は油絵を描いて、僕は孫が小学校に入る時にプレゼントした色鉛筆で、時間はうんとかかるんですけど5作品出しました。色鉛筆だってことで、みんな関心持ってくださって(笑) そのうちの1点が・・・
出水:えっ、これが色鉛筆ですか?! まるでCGのようですね! お見事です!
JK:写真でもないし、絵でもないし、独特の立体感があって・・・素晴らしい!
天野:コシノさんのお母さんじゃないけど、「向こう岸見てるだけじゃ渡れない」っていうのは本当だと思う。私も60年ずっとやってきて、おかげさまで今も元気でやっていられるので、いろんなことにチャレンジしたいと思いますね。