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三宿『せたパン』。大正時代から街の人達に愛されてきた気取りのないおいしさ

さんたつ

国道246号線、玉川通りを渋谷から三軒茶屋方面へ車で走っていると、三宿のあたりで「Seta.Pan」という目立つ看板を見かける。世田谷のパンで『せたパン』。なんだか老舗っぽいけど、親しみやすいネーミング。ところが聞いてみると、これが堂々たる歴史を持つベーカリーだったのだ。 『せたパン』の正式名称は『世田谷製パン株式会社』という。地名のついた店はだいたい古いものなのだけれど、『せたパン』が創業したのは、なんと大正12年。当時は「宮川製パン」といい、現社長の宮川正太郎さんの祖父が、この地で始めた。

パン屋の連合で難局をしのぐ

周囲に店は少ないため、よく目立つ。

初代宮川さんはもともと小田原の出身で、東京に出て和菓子職人などをやっていた。その後、70歳でパン職人となり、「宮川製パン」を開業。大正当時の周囲はまだのどかで、すぐ近くに陸軍の野砲連隊の兵営があり小売の他にパンを卸していたらしい。

連隊が近かったため戦中は空襲にもあったようだが、戦後も「宮川製パン」は継続した。しかし小麦粉などの材料が統制を受けて大量に入手するのが難しかった。そこで三軒茶屋にあった『大英堂』と『木村屋』と一緒になり、『世田谷製パン』を設立。事業規模が大きいほうが、材料を入手しやすかったのだ。

店内には、昔、使われていた秤が。

昭和30年代になると材料も入手しやすくなり、『大英堂』も『木村屋』も『世田谷製パン』から独立。学校給食の卸など販路を広げていたが、2代目が急逝してしまい、急遽、3代目を探すことになった。そこで白羽の矢が立ったのが、宮川家と血のつながっていない親戚で、会社員をしていた正太郎さんだった。

3代目の宮川正太郎さん。趣味はなんと甲冑の制作!

パンのラインナップを変えたが

お互いの家のことをよく知っていたこともあってトントン拍子に話がまとまり、正太郎さんは現在の妻の佳子さんの夫として、『世田谷製パン』の3代目として店に入ったのだ。これが昭和47年のこと。しかし会社員だった正太郎さんは、パン作りの知識は皆無。店に入った当初は右も左も分からず、かなり苦労したそうだ。

現在の玉川通り。商店がたくさんあった面影はない。

今でこそ店周辺はマンションやビルが多く建ち並んでいるが、正太郎さんが来た頃は商店も多く、玉川通りにつながる道には商店街が形成されていたそうだ。

そんな中、正太郎さんは20年ほど前に店をリニューアルし、現在の姿にする。パンのラインナップにハード系のパンも加えた。新たなお客さんを獲得しようとしたのだが……。

「これがぜんぜん売れなかったんです。青山の店とか行って調査して作ったのに、売れるのは結局、あんパンとかクリームパンとか、昔ながらのものなんですよね」(宮川正太郎さん)

パンの多くは甘い系や総菜系。

ハード系のパンが売れない。個人的に三宿、三軒茶屋といえば、落ち着いていてちょっとおしゃれなイメージを持っていたから、この言葉は意外だった。しかし、よく考えてみれば三軒茶屋の駅近く、飲み屋が集まる三角地帯などは、庶民的な雰囲気が濃厚だ。山の手と言うよりも、生活感のある下町なのだ。

安全、安心、添加物は使わずに

それに三軒茶屋は渋谷まで電車で、たったの2駅という立地。おしゃれして気取るならそちらに行くだろう。地元の三軒茶屋では肩肘張らずに食べられる、昔ながらの味が好まれるのだ。

店内を見回すと、ハード系のパンもあるにはあるが、メインはあんパンや総菜系の懐かし系がメイン。ただ、少しずつ工夫がされていて、とにかく種類が多い。正太郎さんによると、日々、勉強して新商品をいろいろと開発しているのだとか。

三宿あんぱん200円は、生地とあんにごまが加えられている。

「パンは都心の店より郊外の店のほうが勉強になります。このへんなら、電車で多摩川を和渡って川崎のほう。都心の店のパンはおしゃれすぎて、このへんのニーズと合わないんですよ」

こういうパンのほうが、落ち着けるのだ。

『せたパン』は、あくまで毎日食べられる、日常食としてのパンにこだわっているのだ。種類が多いのも、いつも来てくれるお客さんが飽きないようにとの、気持ちからだ。

三宿に来てから50年、パンを作り続けてきた正太郎さんの信条は「安全、安心、添加物をいっさい使わないパン作り」だという。毎日、食べるものだからこそ、とても大事なことだと思う。『せたパン』が日常の味として、長く愛されてきたのは、その思いがお客さんたちに伝わっているからなのだろう。

珈琲あんぱん200円は、ほろ苦さと生クリームのまろやかさが絶妙な組み合わせ。

店に来るお客さんを見ていると、ラフな格好で「ちょっと買いに来ました」という感じの人が多い。これまでもこれからも、『せたパン』のパンは世田谷に暮らす人達にとって、気を許して食べられる、そんな相棒のようなパンなのだ。

せたパン
住所:東京都世田谷区太子堂1-4-32/営業時間:7:30~20:30/定休日:日・祝/アクセス:東急田園都市線三軒茶屋駅から徒歩15分

取材・文・撮影=本橋隆司(東京ソバット団)

本橋隆司
大衆食ライター
1971年東京生まれ。大学卒業後、出版社勤務を経て2008年にフリーへ。ニュースサイトの編集をしながら、主に立ち食いそば、町パンなど、戦後大衆食の研究、執筆を続けている。

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