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#4 二つの「明治の精神」を読み解く――姜尚中さんが読む、夏目漱石『こころ』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#4 二つの「明治の精神」を読み解く――姜尚中さんが読む、夏目漱石『こころ』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

姜尚中さんによる、夏目漱石『こころ』読み解き

あなたは“真面目”ですか――。

自由と孤独に生きる“現代人の自意識”を描いた、不朽の名作『こころ』が誕生してから今年で110年。

『NHK「100分de名著」ブックス 夏目漱石 こころ』では、姜尚中さんが、他者との関係性に悩む登場人物たちの葛藤を読み解きながら、モデルなき時代をより良く生きるためのヒントを探ります。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします (第4回/全4回)

明治の精神

 では、『こころ』というデス・ノベルの二つ目のキーワードについて申しましょう。それは、「殉死(じゅんし)」です。

 若き日、お嬢さんをめぐってKに先立たれた「先生」は、以後“生ける屍(しかばね)”のようになって、その後長い年月──( )推測するところ十余年ほど──( )を永らえるのですが、その果ての明治四十五年に明治天皇が世を去ります。それは、先ほども言ったように明治という時代を生きてきた者にとってはたいへん節目となるできごとでした。そして、それにも増して彼らに感慨を催させたのは、忠義の軍人、乃木希典の後追い自殺でした。

『こころ』では、いわゆる「明治の人間」である「先生」と「私」の父親が、これらに鋭敏に反応します。しかし、時代の終焉に対する二人の感じ方は、微妙に異なっています。「私」の父親は鋳い型(いがた)にはめたような田舎の人ですから、輝かしい時代との別れをストレートに惜しみますが、「先生」のほうはそれほど単純ではなく、もっともつれた思いがあるように見受けられます。

 その部分を引いてみましょう。

 まず、「私」の父親のほうです。彼は病床で新聞を読み、訃報(ふほう)を知ります。

崩御の報知が伝(つた)へられた時(とき)、父(ちゝ)は其新聞を手にして、「あゝ、あゝ」と云つた。
「あゝ、あゝ天子様(さま)もとう/\御かくれになる。己(おれ)も……( )」
父(ちゝ)は其後(あと)を云はなかつた。

 こちらが「先生」です。「私」への手紙の中に書かれてある言葉です。

夏(なつ)の暑(あつ)い盛(さか)りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始(はじ)まつて天皇に終(おは)つたやうな気(き)がしました。最も強く明治の影響を受(う)けた私どもが、其後(そのあと)に生(い)き残(のこ)つてゐるのは必竟[ひっきょう]時勢遅(おく)れだといふ感じが烈(はげ)しく私の胸を打ちました。

 激し方の度合いは違いますが、気持ちの中味としては、ここまではさほど変わらないかもしれません。しかし、ここから先は二人分かれて、とくに「先生」のほうには独特の屈折したニュアンスがこもってくる気がします。

 まず父親からあげましょう。病状が悪化する中で言う言葉です。

 父(ちゝ)は時々(ときどき)譫語(うはこと)を云ふ様(やう)になつた。
「乃木大将に済(す)まない。実に面目次第がない。いへ私もすぐ御後(おあと)から」
 斯(こ)んな言葉をひよい/\出(だ)した。母は気味を悪(わる)がつた。成(な)るべくみんなを枕元へ集(あつ)めて置きたがつた。

 そして、こちらが「先生」です。

私は明白(あから)さまに妻(さい)にさう〈明治生まれのものが生き残ることは時代遅れであるということ=引用者注〉云ひました。妻(さい)は笑つて取(と)り合(あ)ひませんでしたが、何(なに)を思(おも)つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可(よ)からうと調戯(からか)ひました。(……( ))
 
 私は殉死といふ言葉(ことば)を殆んど忘(わす)れてゐました。平生[へいぜい]使(つか)ふ必要のない字(じ)だから、記憶の底(そこ)に沈(しづ)んだ儘(まゝ)、腐(くさ)れかけてゐたものと見えます。妻(さい)の笑談[じゃうだん]を聞(き)いて始(はじ)めてそれを思ひ出した時、私は妻(さい)に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積(つもり)だと答へました。私の答も無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其(その)時(とき)何(なん)だか古(ふる)い不要な言葉(ことば)に新(あた)らしい意義を盛(も)り得たやうな心持(こゝろもち)がしたのです。

 父親も、「先生」も、「明治の精神」というものについて思いを寄せます。では、明治の精神とは何なのでしょう。

 父親が考えているのは、いうまでもなく、この日本を封建社会のくびきから解き放ち、「一等国」への仲間入りを実現した輝かしいフロンティア精神のことです。しかし、「先生」にとってはそうではない気がします。なぜならば、「先生」のセリフにはたぶん間違いなく漱石自身の思いが仮託されているからです。漱石は明治の精神の礼賛者ではありません。国中が「欧化」に血眼(ちまなこ)になっているとき、「英国人のどこが偉いのかわからない」と言い放ち、それを模倣して驀進(ばくしん)する祖国を皮相上滑りと言い、国民はこのままいくと全員神経衰弱になると憂い、国中が日露戦争の戦勝に沸いているときに、『三四郎』の広田先生に「亡びるね」と言わせた人なのです。ですから、「先生」を明治の精神に殉じさせようとするならば、それは「輝かしいフロンティア精神」とは反対のものに対してではないかと思います。

 たぶん、「先生」が言った「明治の精神に殉死する積(つもり)だ」とは、なんらの社会的な貢献もなく、誰ともつながりを持てぬ自分のような高等遊民を生み出した明治という時代の精神に対して殉死しようという意味でしょう。

 それが、「古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得た」という発言のココロなのではないでしょうか。

パブリックな「殉死」

 加えて、わたしはそこにもう一つのことを思うのです。それは、言い方がやや難しいのですが、「殉死」というものが持っているパブリックな性格とでも言うべきものです。

 これはおそらくわたしが還暦を過ぎたことと大きく関係していると思うのですが、この年になると、自分の人生を人に理解してもらいたい、そして人に記憶してもらいたいといった思いが無性にわき起こってくるのです。つまり、自分の生きてきた人生を自分の胸一つに収めてひっそりと世を去るのではなく、なんらかの方法によって公的な性格のものに転換したいという欲求、というのでしょうか。これは自分のDNAを残したいという生物的な本能に近いものかもしれません。

 ですから、それと同じように、「先生」においても「殉死」とはそのような思いを実現する、いわば「価値転轍(てんてつ)装置」であったのではないかと思ったりするのです。

 若干抽象的な言い方になりましたが、そのような価値の転轍によって、「先生」は自分の死を親友への罪悪感ゆえの単なる私的(プライベート)な後追い自殺ではなく、自分のような不幸な魂を生みだした時代とともに散るという公的(パブリック)な散華(さんげ)に、それこそ昇華させようとしたのではないかと想像します。それがまた「古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得た」の意味ではないかと思ったりするのです。

『こころ』を読んだ読者の感想を見ると、「先生」が親友の死によって耐えがたい慙愧(ざんき)の念にさいなまれたのなら、なぜすぐ死なず長々と永らえたのかわからないという意見に出会うことがあります。しかし、わたし自身はその気持ちはよくわかる気がするのです。それは、「死ぬべき時を待つ」「死に場所を探しながら生きる」といったものではなかったでしょうか。そして、明治の終焉というエポックに立ち会ったとき、「先生」は「いまだ」と思った。自分のような人間を生ましめた時代とともに、みずからをも葬り去ろうと思ったのではないでしょうか。あるいは乃木希典という人を見て、「あ、自分もいま死んでもよいのだ」という合図のようなものをもらったのかもしれません。

 しかし、自分がいくらパブリックなものを望んでも、それは自分だけでなしうることではなく、必ずもう一人以上の協力者がいるのです。それは、そうした死を選ぶ自分の真意を知って、外の世界に語り伝えてくれる人の存在です。

 考えてみてください。あの乃木大将だって、もし深い山中に一人分け入ってひっそりと行方不明的に命を断ったとしたら、たとえ真相は殉死であっても殉死にはならないのです。ですから、必ずその真意をアナウンスしてくれる者が必要なのです。

 そこで言いますと──( )、「先生」にとっては「私」こそが、その協力者だったのです。

 これは見落とされがちなのですが、『こころ』という小説は、「私」が最終的に語り部となって「先生」の死を語り継いでいる物語なのです。と言うと、みなさんは、えっ? と思われるでしょう。それは、その種明かしが通常の小説のように「結末」ではなく、物語の「冒頭」のところにごくさりげなく示され、以後は置き捨てられたままだからです。だから、多くの読者は読んでいるうちに忘れてしまうのです。

 しかし、『こころ』は間違いなく、「私」が「先生」から聞いた長い長い物語を、誰かに対して語っている小説です。冒頭部分を引いてみます。

 私は其人(そのひと)を常(つね)に先生と呼んでゐた。だから此所(こゝ)でもたゞ先生と書(か)く丈[だけ]で本名(みょう)は打(う)ち明(あ)けない。是[これ]は世間(けん)を憚(はゞ)かる遠慮といふよりも、其方(はう)が私に取つて自然だからである。私は其[その]人の記憶を呼び起(おこ)すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆(ふで)を執つても心持(こゝろもち)は同(おな)じ事(こと)である。余所々々(よそ/\) しい頭文字抔(かしらもじなど)はとても使ふ気にならない。

 いかがでしょう。

 この口ぶりからすると、「先生」の死後、「私」は作家になったのかもしれません。

 しかし、これだけではまだ、漱石はなぜ『こころ』というデス・ノベルを著したのか、またこの物語にいかなる思いを込めたのかという真意を説明したことにはなっていません。この続きは第4章でじっくりすることにいたします。

 この章では問題提起のみ行ったということで、いったん筆を置きましょう。

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著者

姜尚中(カン・サンジュン)
政治学者、東京大学名誉教授。国境を超越し、「東北アジア」に生きる人間として、独自の視点から提言を行っている。著書に『マックス・ウェーバーと近代』『オリエンタリズムの彼方へ』『ナショナリズム』『姜尚中の政治学入門』『日朝関係の克服』『悩む力』『続・悩む力』『心』『心の力』など多数。
※全て刊行時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス 夏目漱石 こころ』(姜尚中著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。

*本文中の漱石の作品からの引用は、すべて岩波書店刊『漱石全集』(一九九三~九九年)によっています。原稿のルビのほかに、読みやすさを考慮して編集部によるルビを[ ]でくくって付けました。その読みは現代仮名遣いにしています。

*本書は、「NHK100分de名著」において、2013年4月に放送された「夏目漱石 こころ」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たにブックス特別章「「心」を太くする力」などを収載したものです。

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