戦国の引っ越し魔?織田信長はなぜ居城を次々と移したのか?
政治の中心であり、軍事拠点だった戦国時代の城。
それゆえに多くの戦国大名たちは領国経営の本拠地として居城を重要視し、たとえ領土を拡大しても本拠そのものを移すことには慎重でした。
しかし信長は、そのなかでも際立って大胆に居城を移し続けています。
今回は、その理由について紐解いていきましょう。
自国の維持へ専心した戦国大名たち
戦国大名の居城(本城)といえば、どの城を思い浮かべるでしょうか。
豊臣秀吉の天下統一まで家を存続できた主な大名のうち、父祖以来の本拠を長く重視した例を挙げてみましょう。
・島津家:内城(うちじょう)
・毛利家:吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)
・長宗我部家:岡豊城(おこうじょう)
・上杉家:春日山城(かすがやまじょう)
・伊達家:米沢城(よねざわじょう)
また、戦国時代の途中で滅んだ有力大名の居城はどうでしょうか。
・武田家:躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)
・朝倉家:一乗谷城(いちじょうだにじょう)
・斎藤家:稲葉山城(いなばやまじょう)
・浅井家:小谷城(おだにじょう)
・松永家:信貴山城(しぎさんじょう)
ここに挙げた戦国大名たちも、合戦や領国支配の変化に応じて、居城を移すことはありました。
しかしその多くは、父祖以来の本拠地や領国内での移動にとどまりました。
居城は領国経営の中心であり、家臣団や城下町、交通網とも深く結びついた重要な場所だったため、たとえ隣国へ勢力を広げても新領地へ本拠そのものを移す例は多くなかったのです。
戦国大名はみな京都を目指し、天下取りを目的としていたようなイメージもありますが、多くの大名にとって重要だったのはまず自国を維持し、その周辺へ勢力を広げていくことでした。
信長は前線に合わせて本拠を動かした
そのような戦国大名のなかで常識を覆し、たびたび居城の引っ越しを行ったのが織田信長でした。
では、信長の居城の推移をみてみましょう。
・那古野城:尾張国(1552年/天文21年)※これ以前の可能性もある
・清須(清洲)城:尾張国(1554年/天文23年) ※1555年説もある
・小牧山城:尾張国(1563年/永禄6年)
・岐阜城:美濃国(1567年/永禄10年)
・安土城:近江国(1576年/天正4年)
ここで注目したいのは、信長の居城がどの方向へ移っていったかです。
信長の本貫地は尾張国でしたが、その本拠は勢力拡大に伴って美濃国、さらに近江国へと移動していきました。
那古野城は、尾張徳川家の居城・名古屋城の二ノ丸にあったという説が有力です。
信長が初めて父・信秀から任された城郭で、この城を拠点として尾張統一を進めました。
そして次に居城としたのが、尾張守護の居館だった清須城です。
清須城のある場所は、尾張国のほぼ中央で東海道や伊勢湾に近い交通の要衝でした。
信長の清須移転は、尾張の政治的中心を押さえる意味が大きく、東から圧力をかける今川氏に対抗するうえでも重要な拠点となりました。
事実、信長はこの城郭を拠点に桶狭間の戦いに臨み、今川義元を討ち果たします。
さて、ここから信長の居城築城に転換期が訪れます。
それが、清須から小牧山への移転でした。
従来、小牧山城の築城は美濃斎藤氏に対峙するための砦である、という説が有力でした。
しかし、近年の発掘調査で山腹から上の部分は、石垣をめぐらせた権力空間ともいうべき特別な構造であることが判明。
しかも山麓から山腹まで直線的に伸びる大手道は、山腹から本丸までは一転して屈曲するなど、後の安土城へとつながる原型とも目されるようになりました。
また、1キロメートル四方に近い大規模な城下町にも、基幹排水路の建設や効率的な町家の配置など、本格的な町割が行われています。
このようなことから、小牧山城は信長が尾張を抜け出して、天下を見据えたうえで築城した城郭であると考えられるようになったのです。
そして、小牧山城築城からわずか4年、ついに信長の居城は尾張国を離れます。
斎藤龍興を追放し、稲葉山城を手にした信長は、大規模な改修を加えて新たな居城とし岐阜城と改名したのです。
信長はここから、天下布武へと突き進んでいきます。
足利義昭を京都から追放し、室町幕府を事実上の滅亡に追い込むと、宿敵であった武田氏を長篠の戦いで撃破し、その翌年には近江国の琵琶湖東岸に安土城を築城します。
中山道・北国街道などの主要街道を押さえている安土は、琵琶湖という水上交通の要でもありました。
つまり信長は安土城を本拠として、畿内に留まらず全国を支配する天下統一を進めていったのです。
本拠の居城移転に見る信長の天下戦略
戦国時代、強い大名ほど大きな矛盾を抱えていました。
それは戦いに勝ち続け、領地がどんどん拡大していくと、最前線で急変が起きても自国に居城があるため、すぐには対応できないということです。
しかし信長は、常に対峙する敵との距離を詰め、いつでも前線をカバーできる体制をつくったのです。
天下統一を目前にした信長には、石山本願寺の跡地に大坂城を築き、ここを天下の城とする計画があったと言われます。
さらにフロイスの記録には、信長が日本平定後に大陸へ渡る構想を抱いていたとする記述もあります。
もし信長が本能寺の変で倒れず、さらに西国支配を進めていたなら、九州にも居城を構えていたかもしれません。
このように考えると、戦国大名たちが「自領を守るための城」を築いた時代に、信長は「天下を動かすための城」を求め続けていたと言えるでしょう。
※参考文献
和田裕弘著『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中公新書
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部