#4 「萌え」文学の源泉?──鴻巣友季子さんと読む、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
鴻巣友季子さんによるマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』読み解き #4
20世紀のロマンス小説として知られる大長編『風と共に去りぬ』。しかし、翻訳家の鴻巣友季子さんによると、原文を精緻に読むと、その本質が「恋愛」ではないことがわかるといいます。
『NHK「100分de名著」ブックス マーガレット・ミッチェル 風と共に去りぬ』では、「ヒロインは二人いる」「実はシスターフッド小説である」「養護と扶養という視点で読むと面白い」といった、翻訳を手がけた鴻巣さんだからこそたどり着いた、実に多様な読み方で、当作品を味わっていきます。
2026年7月~9月に開催の「100分de名著」シリーズ・図書カード全員還元キャンペーン対象書籍でもある本書より、「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第4回/全5回)。
第1章──一筋縄ではいかない物語 より
「似た者同士」というキーフレーズ
前述したように、スカーレットは、愛するアシュリと「冴えないちんちくりん」のメラニーとの結婚を阻止すべく、アシュリに告白をします。これまでスカーレットに惹かれているそぶりを見せており、問い詰められて「好きだ」とも言っていたアシュリですが、「きみとぼくほどかけ離れた人間同士だと、やはり愛だけでは結婚生活はうまく行かないんだよ」と退けます。では、どうしてメラニーとならうまくいくのか。アシュリはこう言います。
「彼女はぼくと似た人間だ。血のつながりもあるし、たがいに理解しあっている。スカーレット、いいから、聴いてくれ! 結婚というのは、ふたりが似た者同士でないと丸くおさまらないものなんだよ。解ってもらえないか?」
アシュリが口にする「似た者同士」という言葉は、『風と共に去りぬ』全編を通じて何度も出てくるキーフレーズです。原文では「like」「alike」という言葉が使われています。たとえば、アシュリが戦場からメラニーに送ってくる手紙です。
あなたにプロポーズしたとき、ぼくの頭にあったふたりの暮らしはこんなものではなかった。これまでと同じく、穏やかに恙なくなに変わらず営まれる〈トウェルヴ・オークス〉での生活を思い描いていた。ぼくたちは同じ静かなものを愛する似た者同士だろう、メラニー。目の前には、日々本を読み、音楽を聞き、夢を見てすごす長閑な暮らしがどこまでもつづいていた。
実は、スカーレット、アシュリ、メラニー、そしてレットという主役の四人は、それぞれが似た者同士であり、互いの分身であるような関係になっています。スカーレットとレットも似た者同士ですし、スカーレットとメラニー、メラニーとレットも似た者同士です。一番似ていないように見えるアシュリとレットも実は似た者同士で、互いの半身のようなところがある。
アシュリがスカーレットに、「レットとぼくが根本的に似た者同士だと思ってみたことはないのかい?」と問いかけるシーンがあります。スカーレットが否定すると、アシュリは「けど、じつは似ているんだよ。同種の人たちから生まれ、同じ型にはめられて育ち、同じことを考えるようになった。道程(みちのり)のどこかで、別々の方向へ歩きだしたがね」と答えています。
この「似た者同士」の頻出は、当時のアメリカ南部が同質社会で、同質傾向を強く好む社会であったことを表しているでしょう。同質であるがゆえの結束の強さと調和。アシュリも繰り返し「調和の美」ということを言っていますが、その一方で、多様性を欠いて排他的であるがゆえのもろさもあったのが南部でした。ミッチェルはこの南部の特質についての批判をスカーレットを通して表明しています。しかし、これはいまの南部にも連綿と続く特質であり、さらには近年はアメリカ全体にもこの傾向が強まっていると言えるかもしれません。
つながる二人、つながらない二人
いま、分身的な存在としてスカーレットとメラニーを挙げましたが、アシュリは二人をそういうふうには見ていません。当然、スカーレットも自分がメラニーと似ているなどとは毛頭考えていない。二人はどう違うのでしょうか。アシュリにふられたあとのスカーレットの様子を引用します。
メラニーのことを思うと、あの遠くを見るようなおだやかな鳶色の瞳や、黒いレースのミトンをつけた楚々とした小さな手や、口もきかずおとなしくしている姿などが不意に浮かんできた。すると、だしぬけに怒りが爆発した。かつてジェラルドを殺生に駆り立て、アイルランドの祖先たちをして縛り首になるような悪事に手を染めさせたあの激情である。
父親を殺しに駆り立てたのと同様の激情というのですから、怒りの大きさも相当ですね。スカーレットの激情家ぶりがわかります。対するメラニーはというと──。
素朴さとやさしさ、正直さと愛情しか知らない顔、むごいこと邪(よこしま)なことなど目にしたことがなく、もし目にしてもそれと認識できない人の顔である。自分がずっと幸せだったから、まわりの人々にも幸せになってほしい、少なくとも満ち足りていてほしい、と思っているのだ。そのため、どんな人間が相手でも、つねに一番良いところを見て褒めた。彼女にかかれば、どんなに不出来な奴隷でも、それを補う忠誠心や優しさが見つかり、どんなにブスで愛想のない娘でも、どこかしら容姿の美点や、性格に気品が見いだされた。(中略)
慈愛あふれる心から嘘偽りなく自然と出てくるこうした性質にひかれ、いつもメラニーのまわりには人の輪ができていた。
スカーレットとは非常に対照的です。メラニーはつねに他愛精神にあふれ、どんなにだめな人間にも美質を見出す。
しかし、これは物語が進むと次第にわかってくるのですが、メラニーはその人が一番触れてほしくない部分を的確に見抜く人でもあります。ただの聖女ではない。メラニーは一流の策士という面もあり、非常に侮れない複雑なキャラクターだとわたしは思っています。
さて、四人の似た者同士の中で、一つだけつながらないラインがあります。それが、スカーレットとアシュリのラインです。ここだけが、水と油のごとく、どうしても融け合わない。この亀裂と、(亀裂などないと信じている)スカーレットの勘違いが、四人の物語の駆動力になっています。
「萌え」文学の源泉
ここで、中心人物の一人であるレット・バトラーが本格的に登場する場面を見てみましょう。先に紹介したように、ウィルクス家の書斎でアシュリに告白するも玉砕し、残されたスカーレットは耐えきれなくなり、テーブルにあった陶器を思いきり暖炉めがけて投げつけます。すると、ソファの奥から「そこまでしなくたって」と人の声が。驚愕するスカーレット。
膝が抜けて倒れそうになり、椅子の背をしっかりとつかんだとき、ソファに寝ていたらしいレット・バトラーが立ちあがり、わざとらしいほど丁重なおじぎをして見せた。
「あんなやりとりを聞かされて昼寝を邪魔されただけでも迷惑なのに、命の危険にまでさらされるとはあんまりな」
結婚に関わる内緒話を、知らないうちにソファに寝ていた一番聞かれたくない相手に聞かれてしまうという展開は、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』にも出てきます。恋愛小説においては一種典型的な、“あるある”だと言えましょう。『嵐が丘』ではこのあとシリアスな事態を迎えますが、『風と共に去りぬ』の方は、レットとの絡みで非常にコミカルな、「萌え」どころ満載の場面が展開していきます。「萌え」とは日本の漫画やアニメを語るときによく使われる言葉ですが、わたしは『風と共に去りぬ』こそ、漫画など日本の二次元のサブカルチャーに相通ずる世界観を呈する、「萌え」文学の源泉ではないかと考えています。
まず、「萌え」とは何かを改めて解説しましょう。これは、胸がキュンとする、ときめく、急に愛しさがこみ上げてくるといった感情を表す概念ですね。しみじみと長く抱いている愛情のようなものではなく、突発的にキュンとくるような感情。日本の古い文化にたとえて言えば、『枕草子』の中で清少納言が日常の何気ないものに目をとめて「いとをかし」「うつくし」などと言う、あれが「萌え」だと思います。稚児の衣の袖が長すぎて指先だけ出ているのがかわいいなどというのは、袖が長めのパジャマを着ている女の子がかわいいという現代の萌えポイントとまったく一緒です。そして、作り手と受け手が共にそれを「萌えポイント」として認識し、さまざまな作品において作り手がそれを再現し、受け手が確認する、というのが、現代の漫画やアニメの一つの鑑賞作法であり、この“快さ”のやりとりが根強い人気の理由の一つとなっています。
同じように、『風と共に去りぬ』を原文で読んでいると、作者のミッチェルがどうしてもこの場面はこう書きたかった、この人はこういうキャラクターとして描きたかった、といった「再現欲求」がひしひしと伝わってくるのです。
たとえば、さきほどのレット初登場の場面の続き。スカーレットが「そこにいらしたのなら、お知らせいただくべきでした」と必死に体面を保とうとすると、レットは「けど、わたしが休んでいるところに入ってきたのはそっちだものなあ」と白い歯を光らせてにやりと笑います。これは、現代のアニメキャラクターで言えば「ドS男子」(S=サディスティック。ヒロインをからかったり、意地悪をしたりして愛情表現をする男性のタイプ)そのものではないでしょうか。
レットはここで、激情家スカーレットの心意気に惚れ込み、彼女を愛し、支えるようになるのですが、この「庇護者としてのドS男」というのも、日本の少女文学に伝統的に欠かせないものです。たとえば、連載四十年を超えるベストセラー漫画『ガラスの仮面』の速水真澄。芸能事務所の若社長として、情熱的な天才演劇少女・北島マヤを、いたぶりつつも陰日向(かげひなた)に支える役どころですが、レット・バトラーはその原型とも言えるようなキャラクターです。
「萌え」で言えば、方向性は違いますがアシュリも負けてはいません。アシュリの初登場場面を見てみましょう。
グレイの上質な羅紗の乗馬服に身を包み、フリル付きのシャツをすばらしく引き立てる黒い幅広のクラヴァット[註:ネクタイのフォーマルな呼称]を締めたアシュリが、敷地内の長い並木道を馬でやってきた。(中略)あの長靴(ちょうか)がどんなにまぶしかったことか。タイピンのカメオにはメドゥーサの頭が象られ、こちらに目を留めるや、鍔広(つばひろ)のパナマ帽をさっと取ったっけ。馬から降り立った彼は手綱を黒人の子(ピカニニー)に放ると、ポーチに立つスカーレットを見あげたのだった。もの憂いグレイの目は笑みをたたえて瞠(みは)られ、ブロンドの髪に明るい陽が射して、銀の帽子(キャップ)のように輝いていた。(中略)「きみもすっかり大人になったんだね、スカーレット」それだけ言うと、軽やかに石段をあがってきて、手に口づけをした。
まさに白馬の王子ですね。容姿や出立ちといい、仕草といい、動作のつなぎ、そのテンポといい、決めゼリフといい、完璧です。まさに萌え要素が満載と言えましょう。
日焼けした浅黒い肌がグラマラスな紳士レット。白馬の騎士アシュリ。どちらも萌えキャラですが、皮肉屋で嫌味な分、レットの方が業の深さを感じます。もう少し、レットのドSぶりを追ってみましょう。
著者
鴻巣友季子(こうのす・ゆきこ)
1963年東京都生まれ。翻訳家、文芸評論家。英米圏の同時代作家の紹介と並んで古典名作の新訳にも力を注ぐ。主な訳書にエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(新潮文庫)、マーガレット・アトウッド『昏き眼の暗殺者』『誓願』『老いぼれを燃やせ』、J・M・クッツェー『恥辱』『イエスの幼子時代』(早川書房)、アマンダ・ゴーマン『わたしたちの登る丘』『わたしたちの担うもの』(文藝春秋)他多数、主な著書に『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』『文学は予言する』(新潮選書)、『翻訳ってなんだろう?』(ちくまプリマ―新書)、『翻訳問答』シリーズ(左右社)、日本ペンクラブ女性作家委員、獄中作家・人権委員。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス マーガレット・ミッチェル 風と共に去りぬ 世紀の大ベストセラーの誤解をとく』より抜粋
■本書におけるマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』引用の日本語訳は著者訳(新潮文庫)によります。
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書は、「NHK100分de名著」において、2019年1月に放送された「マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章、読書案内などを収載したものです。