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「織田信長の大葬礼が行われた寺」大徳寺に残る戦国武将たちの痕跡を歩く

草の実堂

画像:龍源院(撮影:高野晃彰)

船岡山は、平安京造営の際に北方を守る玄武の地とみなされた独立丘陵です。

その北方には、古くから紫野と呼ばれる一帯が広がり、そこに大徳寺が建っています。

大徳寺は、鎌倉時代末期の1315年(正和4年)に創建された臨済宗大徳寺派の大本山です。
応仁の乱で一度は荒廃しましたが、室町時代後期に一休宗純らの尽力によって再興されました。

実はこの大徳寺には20余りの塔頭寺院があり、その多くが戦国武将により建立されたという歴史があります。

大徳寺の塔頭が戦国武将にゆかりが深い理由は本能寺の変の後、豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、寺内に総見院を建立したことが大きく関わっています。

天下人・秀吉に保護された大徳寺には、戦国武将たちによる塔頭建立が相次いだのです。

今回は、戦国武将たちの面影を色濃く残す大徳寺と、その周辺をご案内しましょう。

船岡山公園(ふなおかやまこうえん)

画像:船岡山(撮影:高野晃彰)

標高112mの独立丘陵で、そのかたちが船に似ていることから「船岡山」という名になったとされます。

この場所は平安京のメイン道路である朱雀大路(現・千本通)の延長上にあり、平安京造営の際、その中心軸設定の起点になりました。

平安中期までは清浄の地とされ、ここで疫病退散の御霊会が行われましたが、それ以降は葬送の地や合戦場ともなっています。

建勲神社(たけいさおじんじゃ)

画像:建勲神社(撮影:高野晃彰)

船岡山の南山腹に鎮座する建勲神社は、織田信長を祭神とする神社です。

その歴史は比較的新しく、明治になってから信長の子孫により創建されました。

この地に神社が建てられた背景には、秀吉が信長の冥福を祈るため、この船岡山に天正寺を建立しようとしたことが関係しているとされます。

宝物として、『信長公記』や太刀などが所蔵されています。

なかでも太刀は「義元左文字」と称され、「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀織田尾張守信長」との金象嵌があることから、桶狭間の戦いで討ち取った今川義元の愛刀と伝わります。

黄梅院(おうばいいん)

画像:黄梅院(撮影:高野晃彰)

黄梅院(おうばいいん)は、織田信長が父・信秀の追善菩提のため、1562年(永禄5年)に小庵を建てたのが始まりとされます。
信長の死後、秀吉が本堂と唐門、小早川隆景が庫裏と表門を改築しています。

同院には千利休ゆかりの旧跡が多く、利休作庭とされる枯山水・直中庭の他、書院には利休の師・武野紹鷗好みの茶室・昨夢軒が建ちます。

龍源院(りゅうげんいん)

画像:龍源院(撮影:高野晃彰)

龍源院(りゅうげんいん)は、能登の戦国大名・畠山義元が豊後の大友義長らとともに、1502年(文亀2年)創建し、大徳寺南派の本庵として栄えました。

同院の方丈、玄関、表門(全て重要文化財)はいずれも創建当初のもので、特に方丈は室町時代の禅宗方丈建築として特筆すべき建物とされます。

方丈の南・東・北には、それぞれ趣の異なる3つの庭が配されています。

さらに庫裏の南側には、聚楽第の礎石を用いた阿吽の石庭があります。方丈を囲む庭とあわせて、禅庭の魅力をじっくり味わえる場所です。

瑞峯院(ずいほういん)

画像:瑞峯院(撮影:高野晃彰)

瑞峯院(ずいほういん)は、1535年(天文4年)、後にキリシタン大名として知られる豊後の大友義鎮(宗麟)が菩提寺として建立しました。

客殿、唐門、表門は創建当時の建物で、いずれも重要文化財に指定されています。

方丈を中心に枯山水の庭が広がり、なかでも重森三玲が作庭した独坐庭・閑眠庭は、瑞峯院を代表する名庭として知られています。

大徳寺金毛閣(だいとくじきんもうかく)

画像:大徳寺金毛閣(撮影:高野晃彰)

大徳寺金毛閣(だいとくじきんもうかく)は、大徳寺の山門で豪壮な二層建築です。

1529年(享禄2年)に下層が竣工し、1589年(天正17年)、千利休が上層を完成させて「金毛閣」と名づけました。

この門の上層には利休の木像が置かれており、これが天下人を見下しているとの豊臣秀吉の怒りを買い、利休切腹の原因になったとの逸話が残ります。

三玄院(さんげんいん)

画像:三玄院-(撮影:高野晃彰)

三玄院(さんげんいん)は、1589年(天正17年)、浅野幸長・石田三成・森忠政により、春屋宗園を開祖として創建されました。

境内には織部好みの三畳台目八窓の茶室「篁庵」が建ち、墓地には三成を始め、宗園、織部の墓があります。

三成の墓所は境内奥にあり、明治に入り移転のため発掘が行われた際に、頭蓋骨と全身の骨が出土しました。

後にこの頭蓋骨をもとに復顔作業が行われ、大阪城天守閣(大阪市)と石田会館(長浜市)で、在りし日の三成の顔を見ることができます。

芳春院(ほうしゅんいん)

画像:芳春院(撮影:高野晃彰)

芳春院(ほうしゅんいん)は、前田利家夫人・芳春院が1608年(慶長13年)に建立した前田家の菩提寺です。

芳春院は、利家の妻・まつのことで、12歳で利家に嫁ぎました。
夫をよく助け、その死後には前田家存続のため、江戸幕府との調停に奔走したことでも知られています。

前田家が100万石を保てたのは、この芳春院の働きが大きかったのです。

本堂背後には、二重の楼閣である呑湖閣が建ち、金閣寺・銀閣寺・飛雲閣と並び京の四閣と称されます。

総見院(そうけんいん)

画像:総見院(撮影:高野晃彰)

総見院(そうけんいん)は、本能寺の変の100日後に、豊臣秀吉が信長遺児で養子の秀勝を喪主にたて、信長の大葬礼を執り行いました。
総見院は、その後の信長一周忌に間に合うように古渓宗陳を開祖に建立した寺院です。

大葬礼は盛大に行われ、秀吉が信長の後継者としての立場を世に示す狙いがあったといわれます。

同院には、重要文化財の木造織田信長坐像があり、墓地には信長一族の供養塔が立ちます。

高桐院(こうとういん)

画像:高桐院(撮影:高野晃彰)

高桐院(こうとういん)は、1601年(慶長6)、熊本藩主・細川忠興(三斎)が父・藤孝(幽斎)の菩提を弔うために創建しました。

三斎は織田・豊臣・徳川に仕え、勇猛な武将として名を馳せるとともに、父ゆずりの文化人・茶人としても知られます。
利休七哲の一人として、茶の湯や武具のデザインなどに卓越した美意識を発揮しました。

本堂の南と西に新緑や散り紅葉が美しい庭園があり、その一画には北野大茶湯の時の茶室を移したとされる二畳台目の松向軒が建ちます。

また、三斎とその夫人・ガラシャの墓である利休遺愛の欠灯籠があり、灯籠の裏面の笠の一部が欠損しているのは、秀吉に望まれた際、献上するのを拒むため、わざと傷物にしたという逸話が残ります。

ただし、残念なことに現在は拝観停止中で、再開が待たれます。

今宮神社(いまみやじんじゃ)

画像:今宮神社(撮影:高野晃彰)

今宮神社(いまみやじんじゃ)は、1001年(長保3年)、平安京に疫病が流行した際に、疫神を祀り三基の神殿を造営したのが始まりという古社です。

社殿は応仁の乱などで度々焼失しましたが、豊臣秀吉などの寄進を受け再興しました。
中でも徳川綱吉(江戸幕府5代将軍)の母・桂昌院は、今宮神社を厚く崇敬したことで知られます。

桂昌院は西陣の八百屋の娘から将軍の生母になり、従一位の官位に登り詰めました。
このことから当社は「縁結び」「玉の輿」にご利益があるとされるのです。
ちなみに「玉の輿」という言葉は、桂昌院の立身出世に由来するといわれています。

また境内には、織田信長を祀る織田稲荷社があり、建勲神社とあわせてお参りする信長ファンの姿も見受けられます。

一文字屋和輔(いちもんじわすけ)

画像:一文字屋和輔(撮影:高野晃彰)

一文字屋和輔(いちもんじわすけ)は、今宮神社東参道に向かいあう茶店の一軒で、左側が「一文字屋和輔」、右側が「かざりや」です。
ともに先端を細く割った竹串に親指大の小餅を刺し、炭火で焼いて焦げ目をつけた「あぶり餅」を商います。

「一文字屋和輔」は994年(正暦5年)の御霊会に際しあぶり餅を供えたのが始まりで、当時から今宮神社へ参詣の帰りに食べると厄除けのご利益があるといわれてきました。

そうなると同店の創業は、ゆうに千年を超えるという驚くべき歴史を有します。
これは老舗が多い京都の中でも群を抜く古さです。(かざりやも創業600年を越えます)

画像:一文字屋和輔のあぶり餅(撮影:高野晃彰)

また同店は、代々女性が店を守ってきたことでも知られます。

その背景には、餅を売ることを単なる商売ではなく、参詣者をもてなす行為として受け継いできた考えがあるといわれています。

戦国武将たちが競うように塔頭を建立した大徳寺。
その周辺には、平安京以来の歴史を秘めた寺社や古い歴史をもつ老舗も点在しています。

京都の中心部からほんの少しだけ離れた紫野ですが、この地を歩けば、より深く古都の歴史を実感できるでしょう。

※参考文献
京あゆみ研究会(高野晃彰)著 『京都ぶらり歴史探訪ガイド 今昔ウォーキング』メイツユニバーサルコンテンツ
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部

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