ヨーコさんの評伝を実現させるまでは死ねない|ビートルズのことを考えない日は一日もなかった 特別対談 Vol.18 藤澤志穂子
大河ドラマのようなビートルズ物語に大きく関与したオノ・ヨーコは、日本人の我々にとってひとつの誇りであるが、さらにそれが学校の先輩だったとしたら、親近感は相当なものではないだろうか。今回の対談相手、ジャーナリストとして多くの著作をもつ藤澤志穂子さんは、ヨーコの学習院の後輩。であるがゆえ、人一倍ヨーコに関心をもつのだという。過去何度か遭遇したことのあるヨーコへの興味を中心に、45年以上の長きにわたるビートルズファン歴の話を聞きました。
学習院というヨーコさんのルーツから辿った書籍を
竹部:この対談はぼくのまわりのビートルズ好きの人とビートルズ話するっていう単純なコンセプトで始めたものなんですね。それで以前、けっこう前になりますが、藤澤さんが昭和40年男編集部にプロモーションの相談でいらしたときにビートルズの話をしたことを思い出しまして。
藤澤:そうでしたね。
竹部:『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』っていう書籍を出されたときだったでしょうか。そのあとに本誌で『釣りキチ三平』についての原稿を書いてもらいました。それ以降も書籍を出されるたびに連絡をいただいて。ご無沙汰な感じは全然しないんですが、お会いするのはかなり久しぶりのような気がします。
藤澤:お声がけいただきおありがとうございます。でも今までこのコーナーに出ていらした方々に比べると全然詳しくないと思うんですが。
竹部:好きであれば問題ないですので。
藤澤:強いて言えば、わたしはヨーコさんの学習院女子中・高等科、学習院大学の後輩で、同じ演劇部だったということでしょうか。
竹部:それは貴重ですね。そういう話は代々、校内や部内に伝わっているものなのでしょうか。昔、オノ・ヨーコが在籍していたよ、みたいな感じで。
藤澤:もちろん、みんな知っていますよ。
竹部:いろいろなエピソードも残っていると。
藤澤:はい。だからそれでわたしはヨーコさんの評伝を書きたいと思っているんです。学習院ルートで集めた証言を中心に構成した書籍の企画として、実は前から少しずつ進めていまして。たとえばヨーコさんの同級生で、同じ演劇部だった方が手記を寄せてくださったり、当時のヨーコさんの写真とか資料を送ってくださったり。あとは、共同通信社出身のジャーナリストで松尾文夫さんという、米国政治の研究で有名な方でもう亡くなられましたが、やはり学習院の演劇部OBでヨーコさんと米国でも親しくされていた方に、お話を聞いたりしていたっていうのがあって。演出と主演、舞台監督を一人でやっちゃうようなパワフルな女性だったそうです。
竹部:それは読んでみたいです。
藤澤:そのときにヨーコさんの日本の代理人をやられている方にもコンタクトが取れて、出版社にもアプローチはしていたんですけど、その後が進みませんでした。でも、やっぱり諦めきれなくて……。
竹部:ヨーコさんの評伝ってこれまでも何冊か出ているじゃないですか。自伝的なものも含めて。
藤澤:なので学習院というヨーコさんのルーツから辿って、ああいう環境で育ったから、オノ・ヨーコという人物が出来上がっていったっていうことをまとめたいんです。竹部さんは、去年暮れに代官山で行われた青木冨貴子さんの出版パーティーはいらっしゃっていましたか。
竹部:行けなかったんですよ。藤本さんから誘われていたんですが。
藤澤:あの日は「ジョン・レノン 運命をたどる ヒーローはなぜ撃たれたのか」っている青木さんの本の出版にあわせ、ジョンの写真展が12月8日の命日に1日限りで開かれていたんですよね。私はたまたま写真展を終了時間ギリギリに見に行ったら、学習院の先輩で講談社のPR担当の方が受付をやっていたので、その後のパーティーに飛び入りで入れてもらえたんです。そこで、ヨーコさんの代理人の方に再会できたんです。この方も学習院、それも私とヨーコさんと同じ女子中・高等科の先輩です。「まだ評伝の企画はあきらめていません」ということをお話ししたんですね。「どうしても書きたいんです」って。そうしたら「企画書をいただければ、アメリカの弁護士に繋ぐことはできます」と言ってもらい、再度材料を集めて、日本語と英語で企画書を作ったんです。
竹部:本気度が伝わってきますね。
藤澤:出版社が見つからなくて、企画書を作るまで時間がかかってしまったんです。出版社未定のまま、2月に送ったらすぐにニューヨークに転送してくれて、そうしたら「これはショーンのサポートが必要ですか」という質問があって「ぜひお願いします」と返したら、「そういう本は書いてもらってもいいけど、多忙につきショーンのサポートは難しい」と。
竹部:そういえば最近、ショーンってあまり表に出てこないですよね。ポールの『マン・オン・ザ・ラン』にはコメント出演していましたけど。
藤澤:そうですよね。「母のレガシーを伝えたい」って言っていたはずなので、頼めばなんとかなると思ったんですが……。学習院つながりの縁でここまで来たので何とかならないかと。
竹部:そうでしたか。ぼく、以前ショーンに何度か取材したことありまして、そのときも「母のカタログを整理して再評価につなげたい」という話はしていました。
藤澤:それはいつ頃ですか?
竹部:2000年くらいだったと思います。ショーンがキメラというレーベルを始めたタイミングでした。詳しい内容は忘れてしまったんですが、その頃プラスティック・オノ・バンドを始めた頃でもあったので、当然ヨーコさんの話になりまして。どこかにテキストが残っていると思います。
藤澤:ショーンに話を聞きたかった。でも、周辺取材でまとめられますから。今またいろいろ出版社を当たっていて、どんなかたちでもいいから、なんとか本にしたい。
竹部:相当な決意ですね。あとはいろいろなところに残るヨーコさんのインタビューを引用して、ということですかね。
あんな強い人があの時代に生まれたのか
藤澤:以前一度、産経新聞の記者時代にヨーコさんにインタビューしたことがあるんです。2012年の12月だったかな、東日本大震災の後で、当時は毎年、ジョンの命日前後に開催していた「ジョン・レノン・スーパーライブ」のプロモーションも兼ねてで。ああ本物だ。意外に小さい。でも胸は大きい(笑)というのが第一印象。黒のパツパツの革のパンツスーツを着てやたらと胸を強調していました。実際に話をしてみたら、お金持ちの天然なお嬢様。もう少し深みのある人なのかなと思ったけど、アートだけをやってきてここまで来ましたという感じ。撮影込みで20分くらいしかなかったので、簡単に言うとですが。そのときヨーコさんが話してくれたなかで、印象的だったのは、ジョンがヨーコさんの誕生日にガーデニア(くちなし)の花を部屋いっぱい敷き詰めてくれたっていう話。朝起きたら床にガーデニアの花がひとつ置いてあったと。これ、どこから落ちてきたのかな。と思って部屋を出たらまた置いてある。階段を下りるとその花が増えてきて、下りたところは花で埋まっていた。どうしたのかと思ったらジョンが出てきて「ハッピーバースデー」って言ってくれたと言う。「ガーデニア、って日本語でなんて言うのかしら。私の一番好きな花をジョンが覚えていてくれたのよ。足りなくてテキサスからも買ってきたって。花は一瞬で消えてしまうから。コンセプトアートみたいなもの」っておっしゃっていたのが印象的でした。この話は出回っているんですかね。初めて聞いた話だったので、特別なのかなと思いました。
竹部:素敵な話。聞いたことがないかも。
藤澤:それで最後に「実は学習院の後輩なんです」って言ったら喜んでくれて、「じゃあ一緒に写真撮りましょうよ」って言ってくれたんです。
竹部:機嫌がよかったんですね。実はぼくもヨーコと一緒に写真撮ったことあります。藤本さんと3人で。すごく機嫌がよくて「3人で撮りましょうよ!」って言われて。ぼくはヨーコさんに3回会っていいまして。媒体は全部違うんですが。最初はオリコンのとき、2000年くらいだったでしょうか。やはり「ジョン・レノン・スーパーライブ」のタイミング。時間は少なかったんですが、やはり感動しましたよね。「踏み絵」という個展のプログラムを持参したら、「それにサインしましょうか?」と言われて、その場でサインをもらうことができた。そのあと2010年くらいに続けざまに2度取材しました。ショーンが設立したレーベルから『ビトウィーン・マイ・ヘッド・アンド・ザ・スカイ』っていうアルバムをリリースして、プラスティック・オノ・バンドで音楽活動を再開したタイミングでした。最初はCDジャーナル用に藤本さんと一緒に、次は『クッキーシーン』の編集長だった伊藤英嗣さんと一緒に。このときはそれぞれ1時間くらいもらえて、いろいろな話を聴くことが出来たんです。藤本さんとのときはさっき言ったようにすごく機嫌がよくて饒舌だったんですが、伊藤さんのときは体調が悪かったのかちょっと暗い感じで。でも話はすごく面白かった。今度そのページ送りますよ。
藤澤:ぜひ参考にさせていただきます。
竹部:あと、86年にTBSで放送された『肩書きはオノ・ヨーコ』って特番知ってます? ヨーコがコンサートで来日する予定だったんだけど、急にキャンセルになった。本来それに合わせて放送するために作られたんだろうけど、なんの関係もない深夜にひっそりと放送された番組があったんです。如月小春って人がインタビューしているんですが、これがおもしろかった。VHSがあるんでいつかデータ化したいと思っているんですが。評伝書くときにぜひ参考にしていただきたいです。
藤澤:そうだ。数年前まで、学習院の演劇部のOB、OG会が月1回、渋谷で開催されていてそこにヨーコさんが来たことがあったんです。時期は忘れましたけど。そこに私もいて、「ヨーコさんのことを書きたがっている人がいるから」みたいに紹介されて、そこで会わせてもらったんですが、あまり話せませんでした。かなり体が弱られていたようでしたね。
竹部:でも、藤澤さんが先輩という以外にヨーコさんに惹かれるのはなぜなのでしょうか。
藤澤:強烈なウーマンリブですね。なんであんな強い人があの時代に生まれたのか。すごく興味があります。それに私の母校の学習院女子中・高等科における環境が、ヨーコさんを作った部分もあるんじゃないかなと。その点も関心あります。
竹部:『ただの私』という本、あれは70年代のインタビューをメインにしていますが、ウーマンリブのことしか喋っていないですよね。そのウーマンリブの思想っていうのは、やっぱり海外で女1人前衛芸術家とやっていたから、強く生きなきゃいけないっていう意識が人一倍強かったんじゃないですかね。
藤澤:学習院出身だからというのもあると思っていて。学習院女子中・高等科は明治時代に創設された華族女学校にルーツがあって、当時は皇族・華族の花嫁学校みたいなところもあったでしょうが、家事を学ぶのではなく、気高さを学んでいたような。男子がいない分、女子が自由に責任持って活躍できる空気があったんです。卒業後は、社会に出て第一線で活躍している人もたくさんいます。あと、戦後にリベラルな学校になったっていうのもあって、その中でヨーコさんの精神が培われたんじゃないかなと思うんです。それがのちの平和運動をサポートしていた気がするんですけど。そこを知りたい。
中1でビートルズにハマりビートルズ・シネクラブ入会
竹部:なるほど。それがジョンに影響を与えたのではないかと。藤澤さんが最初に惹かれたのっていつぐらいからなんですか。
藤澤:ビートルズを知ったのは1979年、80年あたり。あれ、竹部さんは何年生まれ?
竹部:67年です。
藤澤:同じですね。
竹部:でもぼくは早生まれだから、藤澤さんより1学年上だと思います。だから79年の藤澤さんは小6ということですね。
藤澤:わたしは新聞を読むのが大好きな子どもだったんです。会計事務所を経営していた祖父が全ての全国紙を購読していたので、よく読んでいたんです。70年代後半の新聞にはビートルズ再結成か、みたいな話がよく載っていて、そこでビートルズってなんだろう? って思ったんです。1980年に入って、1月にポールが逮捕されたことはすごく覚えていますよ。新聞にも大きく載っていたし、テレビでも毎日のように取り上げられていましたよね。
竹部:はい。ぼくはそれでポールの存在を認識して、ビートルズを聴いてみようと思ったわけですから。藤澤さんもそれでビートルズの音楽を聴いてみようとは。
藤澤:すぐにそうは思わなくて……。80年1月はちょうど中学受験の直前だった。それで4月に学習院女子中等科に入るわけですが、その年の夏か秋くらいに「レット・イット・ビー」が使われた民放のドラマがあったんです。内容はよく覚えていないんですが、悲しい物語で。そのテレビドラマを見るまでは「レット・イット・ビー」も知らなかった。
竹部:そんなドラマがあったんですか?
藤澤:それでビートルズっていいなと思った矢先、ジョンが死んじゃった。テレビのニュースで見たのを覚えていますね。ダコタハウスの前にファンが遅くまで集まっているという映像で。
竹部:『ニュースセンター9時』ですかね。その翌日から新聞、テレビのニュースは大騒ぎでした。
藤澤:あの後、朝日新聞の一面広告がありましたよね。ヨーコさんが出した。
竹部:ありましたね。今思えばあれもヨーコのすごいところで。
藤澤:それから母親もビートルズが好きだったと言うのを知って、「ヘイ・ジュード」「イエスタデイ」もいいわよ、なんて教えてもらって。ドーナツ盤を買ったり。あと、バラードばかり集めたベストがあったじゃないですか。あのレコードを最初に買ったんですよ。
竹部:『ビートルズ・バラード20』。あれは80年の末に出たアルバムです。
藤澤:いいなと思って。確か「ペニー・レイン」の最後にホルンがちょっと入っているバージョンのやつも入っていましたよね。あれのほうがいいなと思ったりして。
竹部:それは『バラード20』ではないです。『レアリティーズVOL.2』ですね。でもそれも80年リリースですから、時系列としては合っています。
藤澤:そうなんですね。それから『ラバー・ソウル』『リボルバー』を買ったのかな。
竹部:中1で周りにビートルズが好きな人っていました?
藤澤:いなかったです。でもビートルズ好きな英語の先生がいて、その先生と情報交換をしたりしていました。
竹部:そこでヨーコさんが先輩であることを知るんですか。
藤澤:そうですね。学内でヨーコさんの話が出ていました。ヨーコさんを知る先生が校内の会報誌に思い出話を書いていたり。「意志の強い目が印象的だった」みたいな。あれから46年も経っているわけですから、さすがにもう当時の先生や同級生の人も亡くなっているか、施設に入られているかで。今のうち私が残しておかないと、そういう証言も埋もれちゃうっていう心配がありますね。そういえばこの間、軽井沢の離山房に行ったんです。70年代にジョンとヨーコがショーンを連れてサイクリングの途中によく行っていた喫茶店ですね。評伝のネタにならないかなと思って。店主の方と話をしたら、前のオーナーの手記など見せていただいたのですが、冬場は閉めるので商売が難しく、「もう店を閉めたい」って言っていたんですよ。軽井沢にジョン一家が来ていたって、海外で知られているのかどうか。そういう話を聞くと、焦ってしまって……。
竹部:早くしないと。話を戻しますと、藤澤さんは、中1でビートルズにハマってレコード買い、さらにビートルズ・シネクラブに入るんですよね。
藤澤:そうです。81年。
竹部:その頃ファンクラブに入った人かなり多いと思います。
藤澤:ジョンが亡くなって、ビートルズが話題になることが多かったからですかね。毎月会報が送られてきて、それを読んでいました。あと映画が見られたじゃないですか。『ハード・デイズ・ナイト』とか。
竹部:復活祭ですね。
藤澤:あれに行っていました。動くビートルズに感動したし、それと同時にスクリーンの中で叫ぶビートルマニアの女子たちを見てまた感動して。わたしと同じ気持ちだと思って。
竹部:わかりますよ。僕も本気でハマったのは『ハード・デイズ・ナイト』を観てからですから。
藤澤:いい映画ですよね。『ハード・デイズ・ナイト』を観て、リアルタイムでビートルマニアを体験したかったなって思って。でも思えば64年って、当時からみればほんの十数年前のことですよね。でも当時14歳の女子にとって生まれる前の、大昔に思えた。
竹部:ほんとうに。
藤澤:ビートルズの来日コンサートの映像も復活祭で観ました。ビートルズの映像は全部そこで見ました。グッズも買っていましたよ。生写真とか買ったかな。ひとつ強烈に覚えていることがあるんです。復活祭って毎回くじ引きがあるんですよね。来場者サービスで。それでわたし1等が当たって、ビートルズの小さなトランクみたいなものをもらったことがあるんです。
竹部:そんなくじ引きなんてありましたっけ?
藤澤:あったんですよ。もらったトランクはどこかに行っちゃいましたけど、すごく覚えています。あとブートレグのカセットテープとか売っていませんでしたっけ。通販で買った記憶があるんですが……。
竹部:売っていました。覚えている音源はあります?
ポールはビートルズの曲を歌うけどビートルズじゃない
藤澤:雑音ばかりで聞いても楽しくなかった(笑)。音も悪かったじゃないですか。あと、ポール・マッカートニー&ウイングスのライブ映画を観に行きました。
竹部:『ロック・ショウ』。当然行きましたよ。銀座に。
藤澤:テアトル東京ですよね。あれはいつでしたっけ?
竹部:81年の夏休み。
藤澤:ポールの映画を観に行きたいって母親に言ったら、映画館にひとりだと危ないからってついてきてもらった。劇場で入場記念の缶バッヂもらって、それを学校のカバンにつけていました。ポールの落書きみたいな絵が描かれた、黄色と青の色をあしらったバッジで、壊れるまでつけていました。お気に入りでした。
竹部:完全なビートルマニアじゃないですか。
藤澤:恥ずかしいですけどね。それからはビートルズ以外の音楽に興味を持ちだすんです。『ベストヒットUSA』が始まって、アメリカのチャートを聞くようになるんです。
竹部:『ベストヒットUSA』のスタートは81年4月です。
藤澤:初回放送の1位がジョンの「ウーマン」でした。
竹部:そうでした。あの番組はたまにビートルズ関連の映像流してくれたんですよ。「カミング・アップ」を見たとき感動しました。
藤澤:世代的に『ベストヒットUSA』は大きかったですよね。ジョージの「オール・ゾーズ・イヤーズ・アゴー」も流れていましたね。
竹部:81年夏のヒット曲。あのビデオも最初に見たときは感動しました。あとはなんといってもポールの『タッグ・オブ・ウォー』。ビートルズファンとしていちばん熱が上がっているときに出たアルバムで、『ベストヒットUSA』でも「エボニー・アンド・アイボリー」や「テイク・イット・ウェイ」とか毎週のようにかかっていました。今はもう『タッグ・オブ・ウォー』ってあまり聞かないアルバムではなんだけど、当時は大傑作だと思って毎日聴いていました。
藤澤:ほんとうに。だって『タッグ・オブ・ウォー』って初登場3位か4位じゃなかったですか。当時、ビルボードチャートをチェックしていたので。
竹部:それでチャートにも詳しくなっていくんですか。
藤澤:ビルボードチャートは81年ぐらいから意識して、ランクインした曲は全部聞いていました。ラジオ日本の『全米トップ40』ですよね。
竹部:『ベストヒットUSA』が終わった土曜の深夜。
藤澤:86年に大学に進学したんですけど、そのときに早稲田大学の全米トップ40研究会に入ったんです。ただここはDJ志望の人が多くて、よりチャート研究に力を入れていた、東大のビルボード研究会に移って。サークルに入ると、当時は米国から郵送されてきたビルボード誌を毎週読めたんです。そういう感じで、80年代はビルボードチャートを通じて音楽を聞いていたんです。
竹部:でもこの頃からビートルズ関連のヒットがなくなっていくんですよ。ポールもジョージもリンゴも。暗黒時代です。
藤澤:たしかにそのあたりから追えなくなっていきました。「セイ・セイ・セイ」も悪くはないけど、マイケルの人気に便乗している感じがありましたし、映画『ブロード・ストリート』は一応見ましたが……という程度で。
竹部:ポールの迷走が始まるんですよね。『プレス・トゥ・プレイ』についてはあえて聞きません(笑)。ちょっと飛びますが、90年の来日公演は行かれました?
藤澤:もちろん行きましたよ。ビルボード研究会の誰かが取ってくれたチケットで、席はアリーナだったと思います。ビートルズの曲を歌っていましたよね。リンダもいて。最後に2人でステージから去ってく姿は今でもよく覚えています。
竹部:いかがでしたか?
藤澤:でもわたし、その前に見たストーンズのほうが感動したんです。
竹部;なんと。それはまたどうして。ぼくもストーンズは観ましたが。
藤澤:ポールはビートルズの曲を歌うけど、ビートルズじゃないわけですよね。でもストーンズはストーンズじゃないですか。
竹部:おっしゃる通り。正論ですが。
藤澤:あれがビートルズだったらストーンズどころの騒ぎじゃないですけど、やっぱりビートルズじゃないというのが大きかったかもしれないです。
竹部:そうなんですね。僕はこのときのポールの来日に人生のすべてをかけて挑みまして全日追っかけをしていたので。藤澤さんの意見は貴重な見解として受け止めておきます(笑)。
藤澤:とはいえファンなのでそのあとポールの公演は全て、来日するたびに東京ドームで最低1回は見ています。、日本武道館でも見ました。南西2階の最上段の席で。5万円ぐらい払ったと思うけど、それでもいちばん安い席だったんじゃないですかね。
竹部:今度はどうでしたか。
藤澤:それも感動しなかったんです。
竹部:そうなんですね。でも実は僕もそうなんです。感動する気満々で武道館に行ったのに、乗り切れなかった。
藤澤:なんなんですかね。
竹部:なんなんですかね。だからその次の武道館は行かなかったんです。でも、ひとつ自慢があって。武道館の席は1階南西のいちばん前だったんですね。そこで持参したユニオンジャックの大きめのタオルを持って時折振っていたんですよ。そしたら、オフィシャルのカメラマンがステージから客席を撮った写真にそのユニオンジャックが映っていたんですよ。それが雑誌の表紙にもなった。
藤澤:そうなんですね。
竹部:余談ですいません。それで、ちょっと藤澤さんのキャリアの話に戻りたく。大学卒業後は産経新聞に入社されて、記者の仕事をされてということですが、そもそも、ジャーナリスト志望だったんですか。
藤澤:さきほども話したように小さい頃から新聞を読むのが好きだったので、将来は新聞記者になりたかったんです。だから高校生の頃から大学生ぐらいまで読売新聞と毎日新聞の学生新聞でアルバイトをしていたんですよ。で、就職は各新聞社を試験を受けたんですが、受かったのは産経新聞と北海道新聞。それで、全国紙の産経に行って、途中で朝日新聞に移ったこともあるんですよ。2年くらいいてまた産経に戻ってきた。産経新聞では東京経済部に長く在籍しました。
竹部:そうだったんですね。一時期ニューヨークに行かれていた。
藤澤:2006年から2007年にかけてのことです。当時の産経新聞社に40歳までの人に最長1年2か月留学させてもらえる制度があったんです。社内選抜の試験に苦節5年でやっとパスしまして、英語圏、ロシア語圏とか、いろいろある語学の中から英語圏を選んだんです。じゃあどこに行こうかって話になったとき、コロンビア大学の研究所に行けるルートがあったので、それを選んで、ニューヨークに行ったんです。やっぱり行くならニューヨークと。ライブにたくさんいけそうだなと。なのでまるっきりの「音楽留学」みたいなもので、夜な夜なライブに出かけていました。クラシック、ジャズ、ロックと手あたり次第行きましたね。大学は国際関係の研究所とビジネススクールの研究員もやりまして。それで、私が借りたアパートが、マンハッタンの真ん中、ルーズベルト病院の隣だったんです。
竹部:ジョンが撃たれたあとに担ぎ込まれた病院ですね。
藤澤:そうそう。そうだったっていうのは後になって知るんですけどね。ダコタハウスからいちばん近い病院ということですよね。
竹部:ダコタの印象はいかがでしたか。
藤澤:建物の中に入ってみたいと思ったんですけどガードが固くて入れない。でも住んでみると、ダコタはニューヨーカーにとってはひとつの風景ですよね。あの頃はまだヨーコさんも健在で、どこそこの蕎麦屋でよく見かけるとか、そういう話を聞きました。わたしがよく行っていたホールフーズっていうスーパーマーケットにオノ・ヨーコ・マムという花が売られていたんです。小さな菊みたいな花だったんですが、地元に馴染んでいるんだなと思いましたね。あと、ちょうどヨーコさんが『イエス・アイム・ア・ウィッチ』ってアルバムを出されたときにバーンズ・アンド・ノーブルでサイン会が行われたんです。そのときもCDを買って並んでヨーコさんにサインしてもらったんです。
竹部:なにか話したんですか。
藤澤:「わたし、学習院の後輩なんです」って日本語で言ったら「そう」って。それだけ。
竹部:ヨーコらしい(笑)。結構ヨーコさんに会っているんですね。
藤澤:あとは、ポールの『リバプール・オラトリオ』をカーネギーホールに見にいったら、ポールが来ていたんです。『リバプール・オラトリオ』って覚えています?
竹部:90年にポールが作ったクラシックですよね。あの初演がリバプールであったんですが、結構知り合いが見に行っていました。
藤澤:よかったですか?
竹部:ぼくは行っていないんですが。
藤澤:わたしの席の上にバルコニーがあって、そこにポールがいて、スタンディングオベーションのときにポールが見えたんです。でも音楽自体は全然感動しなかった(笑)。
竹部:『リバプール・オラトリオ』って、一度もまともに聴いていないかも(笑)。
藤澤:この人、無理してクラシックやらなくてもいいのにと思いましたよ。ビートルズが最早クラシックなんだしと。
竹部:90年の来日のとき、NHKのインタビューを受けていて、そこでポールは「僕はもう年だから今後はロックはやらなくなるかもしれない。クラシックに挑戦しようと思うんだ」みたいな発言をしていたんです。今思えばまだ47歳ですよ。その第一弾が『リバプール・オラトリオ』でした。
藤澤:そのあともクラシックやったんでしたっけ?
竹部:たまにやっていますよね。「ア・リーフ」っていうピアノのクラシック曲は好きなんですけどね。
藤澤:あとはリンゴのオールスターバンドをラジオシティミュージックホールで観ました。
産経新聞で始めた連載「経済人が語る私とビートルズ」
竹部:ニューヨークで細かくビートルズ活動していたんですね。それで帰国後に産経新聞でビートルズの連載を始められると。「経済人が語る私とビートルズ」。これはビートルズでしか成立しない企画ですよね。
藤澤:2012年がちょうどデビュー50周年だったので、ビートルズの記事を作りたいと思ったんです。全くの趣味ですが(笑)。最初のきっかけは、たまたま当時のキリンビールの社長にインタビューすることになって、どんな人なのか調べてみたら、ビートルズが好きらしいっていうことがわかって、実際に話を聞いたら、ビートルズの話でものすごく盛り上がったんです。これって企画になるんじゃないかと思いまして、ビートルズ好きな社長に限って調べてみたら、結構名前が出てきまして。社内で企画を出したら反応もよくて、正式に始めることになったんです。取材を依頼するとみなさん大喜びで受けてくれて、取材も盛り上がりました。
竹部:石坂敬一さんもいましたよね。
藤澤:覚えています。すごく楽しい取材でした。ポールとリンダと一緒に映った写真も貸してくれて。お会いしたときは元気だったので亡くなったのが信じられなかったです。
竹部:ぼく石坂さんの自伝を作ったんですよ。亡くなる1年半前くらいから定期的に話を聞いて。本が出る前に亡くなってしまったのが残念で。でも話を聞いておいてよかったと今になって思います。
藤澤:読みました。あの本、竹部さんの名前出ていましたっけ?
竹部:石坂敬一著にしていますから。でも奥付に僕の名前はクレジットされていますよ。
藤澤:そうなんですね。私なんか、関わった本は無理やり表紙に自分の名前をクレジットしてもらうのに(笑)。
竹部:あれは藤本さんと一緒に作った本でしたしね。
藤澤:ついでに言うと、当時の帝国ホテルの社長にも話を聞いているんですが、なぜビートルズは来日したときに帝国ホテルに泊まらなかったのかっていう話がおもしろかったです。あの頃、外国人のVIPはほぼ例外なく帝国ホテル泊だったんです。マリリン・モンローとか。なのに、ビートルズはヒルトンに泊った。それは老朽化で立て直しが決まっていたからだというんです。もし立て直しの時期ではなかったらビートルズは帝国ホテルに泊まっていたと。
竹部:そうか。建て替えはあのタイミングだったんですね。もし、帝国ホテルだったらビートルズ史も変わっていましたよね。
藤澤:連載はいったん10人で終了したんですが、読者の方々から「もっとやってほしい」という反応を多くいただきまして。また経済界からも「自分が出たい」という声が結構とどきまして、2回目の連載をやりました。結局合計20人ぐらいの社長に話を聞いたのかな。で、傾向としてはポール好きが多いっていうこと。取材の中で必ず好きなメンバーの名前を聞いたんですが、7割以上がポールでしたね。なぜですかね。海外だとジョンのほうが多いような気がするんですが。社内では、日本人は英語力の問題で、歌詞ではなくメロディから入るからポールになるのではないかという話になりましたけど。海外だと歌詞から入るのでジョンのファンが多いと。
竹部:お行儀がいいからですかね。傾向としては曲もポールが多いんですか。
藤澤:ポールでしたね。みなさん聞き込んでいる人ばかりだったんですが、ポールの曲で、時代は初期が好きという人が多かった。『ミート・ザ・ビートルズ』や『プリーズ・プリーズ・ミー』を挙げる人も多くて、それはビートルズが出てきた初期の衝撃があるのかも。
竹部:そうですね。出てきたときをリアルタイムで知っている人はそうなりますよね。ぼくも一周回って初期が好きですよ。若くて、4人ともかわいくて、仲が良くて、バンドとしてのまとまりがある64年がいいんですよ。それにしてもなぜビジネスマンやエグゼクティブはビートルズを好むのか。この点についてはいかがですか。
藤澤:団塊の世代の人が多かったんですが、やっぱりビートルズに受けた衝撃によって人生観が変わり、彼らのパイオニア精神を経営に生かしたいと言っている人はいましたね。
竹部:なるほど。この取材は楽しかったんじゃないですか。ビートルズを題材に仕事が出来て幸せでしたでしょ?
藤澤:その通りです。だからこれを本にしたいなと思って。産経新聞出版から出さないかっていう話もあったんですけど、わたしが忙しくてほったらかしにしていたらそのままになっちゃった。
竹部:これもいつかまとめてほしいです。ところで、藤澤さんは今でもビートルズは聞いていますか。
藤澤:もちろん。初めて聞いから45年以上経っても、聞くたびに新鮮で、古くならない。必ず戻る場所っていうか、音楽の原点です。最初は歌謡曲を聴いていて、そこからゴダイゴが好きになったんです。ゴダイゴって歌詞が英語でしたよね。小学生のとき、ゴダイゴを聞いていると英語の勉強になると思って聞いていたら好きになって。
竹部:ぼくもゴダイゴ好きでしたよ。
藤澤:たぶんゴダイゴが好きだったからビートルズに入れたんだと思う。ゴダイゴってビートルズの影響を受けていますよね。
竹部:タケカワユキヒデって、中学生の頃、同級生の女の子から「タケカワくんの声ってポールに似ているね」って言われたらしい。そんなエピソードを読んだことがあります。甘い声が似ていますよね。
藤澤:わたし、タケカワさんにインタビューしたことがあるんですよ。『駅メロものがたり』っていう本を書いたときに。西武鉄道の大泉学園駅の発車メロディが「銀河鉄道999」で、タケカワさんが音源を作ったんですよ。
竹部:そうだ。藤澤さん駅メロの本を出していましたよね。最近のビートルズ音源や映像は追いかけていますか。
藤澤:この間の『アンソロジー』とか買いましたけど、やっぱりオリジナルに戻る。AppleMusicで十分かなと思ったんですが、武蔵小山のペットサウンズで買いました。知ってます? ペットサウンズ。
竹部:前に森さんにビートルズ来日話を聞いたことがあります。ペットサウンズでやったサエキけんぞうさんのイベントにも出たことがありました。音楽ファンにとっての最後の砦。ずっと残ってほしいです。最近のビートルズ関連の映像は観ています?
藤澤:『ゲット・バック』のルーフトップ・コンサートは映画館で観たんですが、ディズニープラスのやつは途中まででして。長すぎて……。編集したやつはないんですかね。
竹部:あれは長いからいいんですよ(笑)。相当な情報量があるからいいんですよ。3、4周して、理解に深みが増すんです。今回の『アンソロジー』は昔のやつよりも短くされていて、残念で。
藤澤:やっぱりそうなんだ。でも根気がいりますよね。何が良かったですか。
竹部:バンドが崩れていく様子。でも意外に仲いいとか。演奏がかっこいいとか、4人のファッションや髪型とか、おいてあるお酒とか食べ物とか。でも、『ゲット・バック』は鑑賞ガイドがあったほうがいいかも。『ゲット・バック・ネイキッド』という藤本さんの本は傑作なんだけど、あれは配信前に作られたものだから、配信後のガイド本があったらいいなって思う。
藤澤:そうですね。もう一回、『ゲット・バック』見ます。最近のポールの『マン・オン・ザ・ラン』は見ました。前に見たことある映像ばかりだなと思ったんですが……。
竹部:確かに。「カンボジア難民救済コンサート」の「アロウ・スルー・ミー」とか、初めて観る映像もあったんですが、だいたい『ウイングスパン』で見たことのある映像でした。
藤澤:『ウイングスパン』は結構衝撃だったんですけどね。日本公演逮捕のときのニュースとか。
竹部:今回その映像は『ウイングスパン』と同じでしたよね。ということは『ウイングスパン』はなんだったんだってことになっちゃう気もしますね。言っていることもそんなに変わっていなかったし。でも今回の『マン・オン・ザ・ラン』でポールが大麻事件について触れているところで唯一思ったのは、「子どものために俺が行く」みたいな発言。本当はリンダにも罪が及びそうだったのをポールがひとりで被ったみたいな感じで捉えたんですけど、あれは今までなかった発言ですよね。でもあれってそもそもポールは入国していないって話もあって。不思議なんですよ。
藤澤:それに今だったら、ああいうVIPが雑居房に入れられるんですかね。
竹部:お互い、80年のポール来日逮捕からビートルズ歴が始まっているんであそこのくだりは注目しちゃいますよね。今日はお忙しいところビートルズ話に付き合っていただきありがとうございました。
藤澤:こんな話でよかったんですかね。
竹部:楽しかったです。ぜひヨーコさん本実現させてください。ぼくも協力しますので。
藤澤:それを書ける日本人は私しかいない。それを実現するまでは死ねない、というと大げさですが本気でそう思っているんです。ぜひお願いします。