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77年余、最大の激痛に耐えながら ─萩原 朔美の日々      

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77年余、最大の激痛に耐えながら ─萩原 朔美の日々      

—老体からは逃げられない。でも笑い飛ばすことは出来る—

萩原 朔美さんは1946年生まれ、11月14日で紛れもなく77歳を迎えた。喜寿、なのである。本誌「スマホ散歩」でお馴染みだが、歴としたアーチストであり、映像作家であり、演出家であり、学校の先生もやり、前橋文学館の館長であり、時として俳優にもなるエッセイストなのである。多能にして多才のサクミさんの喜寿からの日常をご報告いただく、連載エッセイ。同輩たちよ、ぼーッとしちゃいられません!

連載 第11回 キジュからの現場報告 

  帯状疱疹にかかった。

 始まりは、胸の鈍痛。心臓かなあ、と思ったけど2日放置して病院に行った。心臓は正常。医者が聴診器を胸に当てようとしたら、

「あれ、帯状疱疹じやないか、背中も見せて」

 うつ伏せになったら、

「帯状疱疹ですね」

 との事。

 痛みの波状攻撃開始は、その日の夜から。胸、背中、脇の下と痛みが吹き荒れる。ゆっくり寝ていられない。

 痛い時には、痛かった日の体験が蘇る。

 1番痛かったのは、悪質な便秘になった時。何やら器具で無理矢理掻き出された。我慢出来ず泣いた。

 2番目は、50歳近くなってかかったおたふく風邪によって、風船の様に腫れた睾丸。四六時中蹴られた痛さが持続する。たま(玉)ったもんじゃ無かった。

 3番目は、中学生の時お尻におできが生えてきて、我慢していたら巨大に。女医さんに膿みを絞り出してもらった。恥もなく悲鳴を上げた。

 何年か前、男3人で飲んでた時に痛さ自慢が始まり、誰が1番激痛を体験したかという事になった。私なんぞ簡単に負けた。皆んな凄すぎる。体験談を聞いてるだけで、脂汗が出た。その時の世にも恐ろしい1番の激痛を想像すれば、今の私の帯状疱疹なんぞ、躓いて膝を擦りむき赤チン塗ったぐらいだろう。(笑)そう思えば我慢出来る。

 と、書いてから、2週間たった。まったく痛みが消えない。帯状疱疹恐るべし。これは、人生1番目に躍り出るかも知れない。しかし、それでも、こうして文章は書ける。痛かろうが何だろうが、文章が書ける事は唯一の痛み止めだ。

▲こんなところにもいる、もう一人の私

第10回 心はかじかまない
第 9 回 夜中の頻尿脱出
第8回 芝居はボケ防止になるという話
第7回  喜寿の幕開けは耳鳴りだった
第 6 回 認知症になるはずがない
第 5 回 喜寿の新人役者の修行とは
第4回 気がつけば置いてけぼり
第3回 片目の創造力
第2回 私という現象から脱出する
第1回 今日を退屈したら、未来を退屈すること

はぎわら さくみ
エッセイスト、映像作家、演出家、多摩美術大学名誉教授。1946年東京生まれ。祖父は詩人・萩原朔太郎、母は作家・萩原葉子。67年から70年まで、寺山修司主宰の演劇実験室・天井桟敷に在籍。76年「月刊ビックリハウス」創刊、編集長になる。主な著書に『思い出のなかの寺山修司』、『死んだら何を書いてもいいわ 母・萩原葉子との百八十六日』など多数。現在、萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館の館長、金沢美術工芸大学客員教授、前橋市文化活動戦略顧問を務める。 2022年に、版画、写真、アーティストブックなどほぼ全ての作品が世田谷美術館に収蔵された。

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