『本能寺の変』光秀の娘婿だっただけで殺された?信長の甥・織田信澄の悲劇
織田信長に二度も謀反を起こし、返り討ちにされた実の弟・織田信勝(信行)。
本来であれば、信勝の嫡男である織田信澄(のぶずみ)も粛清の対象となってもおかしくありませんでした。
しかし信長は、まだ幼かった信澄を処罰せず、柴田勝家のもとで養育させます。
やがて信澄は若くして頭角を表し、織田家の中で出世階段を駆け上がっていきました。
ところが順風満帆の人生を歩んでいた信澄は「本能寺の変」により、悲劇的な末路を迎えることとなります。
今回は、織田信澄の短い人生と人物像について迫ります。
謀反人・織田信勝の嫡男だった信澄
織田信澄は、信長の弟・織田信勝(信行)の嫡男として生まれました。
生年は諸説あり定かではありませんが、信長の長男・信忠とほぼ同年代ではないかといわれています。
父・信勝は、弘治2年(1556年)、柴田勝家らとともに信長に対して兵を挙げますが敗れ、信長に許されました。
ところがその後、信勝は津々木蔵人を重用し、勝家を侮るようになったことで両者の間には亀裂が生じていきます。
その影響もあったのか、永禄元年(1558年)、勝家は「信勝に再び謀反の疑いあり」と信長に密告し、信長は仮病を使って信勝を清洲城へ誘い出し、家臣に命じて謀殺したのでした。
信勝の死後、まだ幼い信澄は勝家に育てられることになりました。
本来ならば謀反人の嫡男として殺されてもおかしくないのですが、なぜか信長は命を救います。
その理由としては「罪滅ぼし」「勝家派の家臣を配下に治めるため」「身内には情があった」など、さまざまな説がありますが、はっきりとはわかっていません。
おそらく信長は、幼い信澄を処罰せずに育てることで将来的な織田家の一門衆として取り込もうとしたのでしょう。
若くして能力を高く評価された信澄
信澄は、信長の側近としての役割を果たしていきました。
天正2年(1574年)2月には、美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に、御通役という取り継ぎ役を任されています。
さらに3月には、正親町天皇から天下の名香と名高い蘭奢待(らんじゃたい)の一部を切り取る「截香(せっこう)」(※)に、蘭奢待を運ぶ大使として選ばれました。
※截香:蘭奢待の一部を切り取ること。室町将軍の足利義満・義政、織田信長、明治天皇などが行ったことで知られる。
翌年は初陣となる越前一向一揆で、柴田勝家や丹羽長秀など重臣とともに鳥羽城を攻め落とします。
また、京都から公卿・吉田兼見が訪れたときには、信長との取次役も務めました。
相撲好きの信長が行った安土城の大規模相撲大会では、奉行の一人にも加わっています。
数々の重要な役割を果たし、近江に領地も与えられた信澄は、光秀の娘・花渓眞英大姉を正室に迎えます。
これは「重臣同士の結びつきを強固なものにするため」と考える、信長の計らいだったともいわれています。
しかしこの婚姻は、後に信澄の運命を大きく狂わせる要因となったのです。
「大坂の司令官」として認められていた
信澄は、天正8年(1580年)以降、大坂に常駐する立場になったとされます。
イエズス会関係の記録では、信澄は「今大坂の司令官である信長の甥」と記されており、大坂方面を任される立場として認識されていたことがうかがえます。
天正9年2月には、織田家の威光を京都の民衆に示すための軍事パレード『京都御馬揃え』が行われました。
その時は、信長の長男・信忠、次男・信雄、三男・信孝、信長の弟・信包に次いで、信澄は10騎を率い一門衆のなかでは5番手。謀反人の子としては、異例の待遇といえるでしょう。
ここまで高い評価を得ていたのは、何よりも本人の能力の高さです。
信長は出自や家柄などより「実力」で評価する人でした。
外交・行政・戦のすべてにおいて高い能力を発揮していた信澄は、かけがえのない家臣として認められていたのです。
光秀の娘婿として「共犯」を疑われる
そんな信澄の運命を突然狂わせたのが、天正10年(1582年)6月2日早朝に起こった「本能寺の変」でした。
このとき信澄は、四国遠征軍の副将として三男・織田信孝らとともに大坂にいました。
けれども信澄は「光秀の娘婿」というだけで、謀反の片棒を担いだと疑われてしまったのです。
『多聞院日記』には以下のように記されています。(※意訳)
信長が京都で自害し、嫡男の信忠も自害した。
さらに、明智光秀と七兵衛信澄が申し合わせて討ったとの噂もある。今暁の出来事が、同日中に奈良へ伝わってきたが、まさに「盛者必衰」の金言どおりであり、驚くべきことではない。
諸国はことごとく反転するのであろうか。世の無常は日々、目の前に現れている。詳しい様子は確かにはわからない。この先、どうなっていくのだろうか。
※なお「明智光秀と七兵衛信澄が申し合わせた」という箇所には、「コレハウソ」とする注記が見える。
※『多聞院日記』とは奈良、興福寺の塔頭・多聞院において、僧の英俊を始め三代の筆者によって延々と書き継がれた日記。
いずれにせよ「光秀と信澄が事前に申し合わせていた」といった伝聞が、あっという間に広まったようです。
その理由としては、父・信勝が二度も謀反を起こしていること、明智光秀の娘婿であることなどが挙げられるでしょう。
現代のSNSもそうですが、確かな証拠がなくても噂だけが膨らんでいく構図は、昔から変わらないのかもしれません。
伝聞によって信孝らに討たれた信澄
伝聞を信じて信澄討伐に動いたのは、共に四国へ向かうはずだった三男・織田信孝と、丹羽長秀・蜂屋頼隆らでした。
彼らは6月5日、大坂城二の丸の千貫櫓を攻撃します。
信澄は防戦しましたが、最後は丹羽長秀の家臣・上田重安に討ち取られてしまいました。
確たる証拠もないまま、信澄の首は信孝の命令で堺の町外れに晒されました。
亡くなった時の年齢は、24〜25歳説と28歳説があります。
信澄の評価
『多聞院日記』には、信澄を単なる謀反人として見ていたわけではないこともうかがえる記述があります。
信澄が討たれた後、奈良・興福寺の多聞院英俊は、信澄について「一段の逸物也」と記しました。これは「ひとかどの優れた人物」といった意味です。
本能寺の変の直後には「光秀と信澄が申し合わせていた」という伝聞が広まりましたが、信澄が実際に光秀と共謀していたことを示す確かな証拠はありません。
信長存命中の信澄は若くして大溝城主となり、大坂方面も任されるなど、織田一門の中でも重用された人物でした。もし疑われることなく生き延びていれば、信長・信忠を一度に失った織田家を支える有力な一門衆になっていたかもしれません。
早計な判断によって有能な一族を失ったことが、結果的に織田家の衰退を早めたのだとすれば、何とも皮肉な運命といえるでしょう。
参考 : 太田牛一『信長公記』『多聞院日記』谷口克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館 他
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部