【静岡の高校サッカー戦後史Vol.56】あの清水商業(現清水桜が丘)にサッカー部ができた日。“常勝軍団”の始まりは1951年2月だった
【清水商①】1年生2人 創部に奔走
※2011年3月〜11月に「静岡の高校サッカー 戦後の球跡」のタイトルで静岡新聞に掲載した連載を再掲しています。年齢等も掲載当時のままです。静岡サッカー応援アプリ「シズサカ」でまとめてご覧いただけます。
インターハイの通称で呼ばれる全国高校総体は、真夏の高校生アスリートによるスポーツの祭典だ。清水商が初めて踏んだ全国のピッチが、この真夏の祭典だった。1969年(昭和44年)度のことである。
全国への初名乗りは、新興勢力の台頭として、注目を集めた。創部19年目。50校近い、当時の予選参加校の中では古参の部類に入ることから、新興勢力との表現は妥当とは言い難い。しかし、藤枝東に代表される、常連校に割って入り、全国大会出場権を射止めたことが、新鮮に映ったことは間違いない。
校長「これからは蹴球が盛んになる」
選手権3回、総体4回、全日本ユース(U-18)5回の合わせて12回、全日本ユースのプレ大会を含めれば、全国制覇は実に13回を数える。この際立つ歩みは、1951年(昭和26年)2月に始まった。
当時の校長、神戸収介(故人)が、二人の1年生、上斗米熙と岸山忠正(ともに静岡市清水区在住)に呼び掛けた。「これからは蹴球(サッカー)が盛んになる。部をつくらないか」と―。
「サッカーのサの字も知らない」(上斗米)二人だったが、校長の意を受け、部発足に奔走した。同期生に声を掛け、新学期が始まると新入生を勧誘して、「何とか頭数をそろえ、発足にこぎ着けた」と上斗米は60年前を思い起こす。
“キックオフ”はしたものの、狭いグラウンドに後発の部活動が入り込む余地はなく、やむなく近くの小中学校などを渡り歩いた。部長は社会科教師の伊藤恭雄(故人)が務めたが、練習はもっぱら部員主導。岸山によれば「暗中模索。見よう見まねだった」。各校の責任者会議への出席は上斗米の役目だった。
静岡工に1−7大敗
それでも、積極的に大会に参加した。さすがにチーム力は整わず、黒星が重なった。大会名は不明だが、静岡工に1−7で大敗した。この時、上斗米は「1点を取られた―と、静岡工の選手たちが怒られたのをよく覚えている」といい、当時のチーム力を物語る思い出だ。
53年度になると、ベルリン五輪代表の堀江忠男(故人、浜松市出身)と早大同期生の塚本龍平(故人)が監督に就任。日本軽金属をはじめ、地元社会人チームに所属する選手たちの後押しも加わって着実に成長、創部50周年誌「蹴闘[シュート]」を開くと、選手権や国体の県予選へ積極的に挑戦した姿が浮かび上がってくる。(敬称略)