特集:甦れ! 熱狂のプロレス Part2 ~力道山亡き後のジャイアント馬場&アントニオ猪木の時代
<プロローグ>
1954年、力道山が世界タッグ選手権保持者のシャープ兄弟や、レフェリーの沖識名らを日本に迎え、日本で初の世界タッグ選手権試合を行った。53年に開局した日本テレビは、その模様を3日連続で放送した。ちなみにNHKも初日だけを放送している。当時、アマチュア育成のためにもプロスポーツは放送しないと言っていたNHKも、力道山の英雄的人気は無視できなかった。全国各地に設置された街頭テレビには熱狂する群衆であふれた。その人気は、中継のアナウンサーが、「テレビを観ている方は、前に押さないようにしてください。危険です」「塀を壊さないように」などの注意を呼びかけるほどすさまじかった。その後、57年の日本テレビの「プロレス・ファイトメン・アワー」を皮切りに、「三菱ダイヤモンド・アワー」、TBS「TWWAプロレス中継」、NETテレビ(現・テレビ朝日)「ワールドプロレスリング」など定期的にプロレス中継がスタートし、プロレスは常に視聴率のトップに立ち、力道山はブラウン管の王者としても君臨する。ルー・テーズ、ザ・デストロイヤー、ボボ・ブラジル、カール・ゴッチ、アンドレ・ザ・ジャイアント、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン、フリッツ・フォン・エリック、ドリーとテリーのファンク兄弟、ミル・マスカラス、ハルク・ホーガンなどの外国人レスラーも日本で人気者となった。力道山はジャイアント馬場、アントニオ猪木といった後継者を発掘し、その後も坂口征二、ジャンボ鶴田、長州力、藤波辰爾、タイガーマスクらへと受け継がれていく。現在、地上波のテレビでのプロレス番組は、テレビ朝日系列深夜枠での30分放送「ワールドプロレスリング」だけだ。今回の特集では、テレビから生まれた最初の国民的エンタテインメントとしてのプロレスに焦点を当て、1953年から89年までを4回にわたってテレビが映し出した日本のプロレスの歩みをたどる。
猪木のレスラー人生を後押しした力道山の笑顔
アントニオ猪木は力道山が自分に見せた、たった一度の笑顔を忘れなかった。
亡くなる1週間前、力道山がナイトクラブで暴力団員に刺された日の昼頃だった。リキアパートの1階の合宿所で一人くつろいでいた猪木に力道山から電話が入った。命じられるまま最上階にある力道山の部屋に入ると、そこには相撲の高砂親方(元横綱前田山)が同席していた。猪木は力道山が「ほら飲め!」と放り投げたジョニ黒のボトルを「いただきます!」と挨拶し、一気飲みする。見ていた高砂親方が思わずつぶやいた。
「力さん、この若いの、いい顔してるねえ」
「うん、そうだろう。そうなんだよ」
力道山は嬉しさを隠せない様子で顔を崩した。
「俺はオヤジ(力道山)の付き人を3年やったけど、それまで褒められたことなんて一度もなかったんです。虫の居所が悪ければ、すぐに拳が飛んできたし、ゴルフパターで思い切り頭をぶん殴られ、1週間寝込んだこともありました。だから、このときの言葉は、初めて俺を認めてくれたように感じられ、胸が熱くなってね。もし、俺の人生にあの場面がなかったら、その後、プロレスを続けていたかどうかさえわかりません」
猪木といえば「元気があれば何でもできる」「一寸先はハプニング」など数々の名言でも知られるが、実は他人が発した言葉に対する感度は極めて高い。人の話には真剣に耳を傾ける。そのことはぼく自身、彼を何度も取材してよくわかった。
猪木はこのときの力道山の笑顔を胸に、翌1964年3月に初のアメリカ修行に向けて旅立つ。そして、ジャイアント馬場は猪木と入れ替わるようにアメリカから帰国した。
〝東洋の巨人〟ジャイアント馬場の台頭
当時、力道山というカリスマを失った日本プロレスは豊登、吉の里、吉村道明、遠藤幸吉の4本柱による新路線で再出発を図っていたが、インパクトに欠けた。喪失感が残る空気の中で急激に存在感を高めていったのが、〝東洋の巨人〟ジャイアント馬場である。すでにアメリカではトップレスラーとして活躍していた馬場は1965年12月、力道山ゆかりのインターナショナル・ヘビー級王座を賭けた試合で、〝生傷男〟ディック・ザ・ブルーザーを撃破すると、3日後には同じブルーザーを相手に初防衛。自分が正当な力道山の後継者であることを世間に強烈にアピールした。
その後も馬場は〝鉄の爪〟フリッツ・フォン・エリック、〝荒法師〟ジン・キニスキー、〝人間発電所〟ブルーノ・サンマルチノ、〝黒い魔人〟ボボ・ブラジルといった名前も実力もあるレスラーを相手に防衛を重ねた。中でも馬場のベストバウトの呼び声が高いのが、1966年12月、プロレス興行としては初めて日本武道館で行われたフリッツ・フォン・エリックとの一戦だ。エリックは130㎏という驚異的な握力から生まれるアイアン・クローで馬場を血だるまにして追い詰めるのだが、クロー技の迫力以上に残忍な目と貫禄たっぷりのしぐさで悪役の凄みを漂わせた。小学生のぼくには怖すぎるレスラーだった。
1968年6月のボボ・ブラジルとの防衛戦も忘れ難い。ブラジルの代名詞にもなったのがココバット。ジャンプして上から叩きつけるように放つ頭突きである。馬場がこれ一発でマットに沈み、3カウントを奪われる光景はショッキングだった。馬場はタイトル防衛に失敗し、2日後のリターンマッチで辛くも王座奪還に成功する。
この試合で馬場が決め技として繰り出したのが、32文ロケット砲。ドロップ・キックである。身長2m9㎝、体重145㎏の体が宙を舞う姿はそれだけで壮観だった。全盛時の馬場は日本人離れした巨体でありながら身体能力に恵まれ、野球で鍛えた強靭な足腰の強さが大きな武器だった。晩年のスローな動きからは想像もできないスピードもあった。
観客を熱狂させた馬場&猪木の〝BI砲〟
一方、猪木はアメリカでの武者修行後、すぐには古巣の日本プロレスに戻らなかった。使い込みで日本プロレスを追放された豊登に誘われ、東京プロレスの旗上げに参加するなど曲折を経て日本プロレスに復帰した。日本プロレスとその後ろ盾である日本テレビが出戻りの猪木をすんなり受け入れたのは、猪木の実力と人気が欲しかったからだ。
猪木が馬場に加勢するかたちで日本プロレスに登場したのは1967年4月7日。場外で外国人レスラーに痛めつけられている馬場を、背広姿の猪木が救出するという演出だった。半年後には馬場と組んで第9代インナーナショナル・タッグ王座を獲得し、かくして野球の王、長嶋の「ON砲」に対抗するように、馬場、猪木の「BI砲」誕生となった。
その頃、10歳以上年が離れた従兄が馬場と猪木の関係をヤクザ映画みたいだと語っていたのが思い出される。従兄は、たとえば『昭和残侠伝』シリーズで、義理と人情を貫く主人公(高倉健)と、彼がラストで敵の組に単身殴り込むときに同行する相棒(池部良)の関係を言いたかったのだろう。もちろん、馬場が健さん、猪木が池部良である。
当時、小学生だったぼくにはそんな感性はない。BI砲の試合にはテレビの「ウルトラマン」を見るのに近い感覚があった。馬場と猪木の体格は外国人レスラーに見劣りしないし、それは力道山や豊登の時代にはなかった視覚的な強みだった。そして、対戦相手がディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー、スカル・マーフィー&ブルートバーナードのような狂暴コンビだったりすると、BI砲の闘いはますます怪獣退治に見えた。ウルトラマンにとってのスペシウム光線は馬場の16文キックやココナッツ・クラッシュであり、猪木の卍固めやコブラツイストである。あの頃、友だちとプロレスの技をかけ合った小学生はぼくだけではないだろう。
振り返れば、東映の任侠映画も「ウルトラマン」を始めとする怪獣物も、60年代のサブカルチャーの一翼を担ったジャンルである。プロレスも野球や相撲のようなメインではなく、サブのポジションで妖しい光を放ったジャンルである。そんな異なるジャンルが互いに響き合うのを違和感なく楽しめたのが、60年代だった。
馬場、猪木のライバル物語が火ぶたを切る
残念ながら、馬場と猪木の蜜月はそれほど長続きしなかった。決定的な要因は猪木の反骨心と野心である。実力は自分が一番だという自負がある上、人気も馬場を超える勢いが見えてきた。悠々自適のエース街道を歩む馬場に対し、ずっと二番手扱いだった猪木が反撃に出るのは自然な流れだったのだろう。
1969年、それまで馬場が3年連続優勝していたワールド・リーグ戦決勝で、猪木はクリス・マルコフを卍固めに斬って落とし、初優勝。暮れにはドリー・ファンク・ジュニアの持つNWA世界ヘビー級選手権に3本勝負で挑み、60分ノーフォールのまま時間切れ引き分けの白熱の好勝負を演じた。後年、猪木はプロレスを「格闘芸術」と表現したが、ドリーとの一戦がまさにそうだろう。ちなみに、猪木もベストバウトと認めるこの試合は大晦日に録画放送されている。今から60年近く前、紅白歌合戦の裏番組としてプロレスをぶつけたのだ。この試合に対する評価の高さを証明するものだとぼくは思っている。
猪木の馬場に対する対抗心が噴出したのが、1971年のワールド・リーグ戦だった。馬場、猪木、ザ・デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャーが同点で並んだのだが、馬場VS猪木のカードは組まれなかった。猪木はデストロイヤーと引き分け、ブッチャーに勝利した馬場が優勝。日本人対決を避けたカードに納得できない猪木は、試合後の控室でスポーツ紙の記者を前に馬場への挑戦を表明した。しかし、日本プロレスはこれを「時期尚早」と却下。中学生になっていたぼくは、この事実を知った瞬間、漫画『あしたのジョー』が頭に浮かんだ。馬場との対決に迫る猪木が、力石徹との試合を求め続けた矢吹ジョーに重なったのだ。しかし現実は『あしたのジョー』のようにはいかない。
猪木にはこのあとジェットコースターのような展開が待っていた。11月に女優の倍賞美津子と総額1億円の結婚式を挙げると、1カ月後には会社乗っ取りを企てたとして日本プロレスから追放されてしまう。会社幹部の乱脈経営の改革に立ち上がった猪木に一度は馬場を含めた選手全員が賛同するのだが、気がつけば幹部の策謀によって孤立していた。猪木らしいといえば猪木らしい顛末だった。走り出したら前しか見ない人なのだ。
ブラジルでスカウトされたアントニオ猪木と、野球での挫折を経てプロレス界に飛び込んだジャイアント馬場。2人が1960年の同じ日に日本プロレスに入門し、同じ日にデビューしたのは偶然とは思えない。両者の本当のライバル物語はここからだ。
猪木は馬場に対して凄まじい勢いの巻き返しに出る。
米谷紳之介 こめたに しんのすけ
文筆家、編集者。著書に『小津安二郎 粋と美学の名言60』、『シネマ&シガレッツ』、『銀幕を舞うコトバたち』(ともに本の研究社)、絵本『レオと猫の時間』(ニコモ)、『CHASING OZU』(The Publishing Arts Institute)、『プロ野球 奇跡の逆転名勝負33』(彩図社)他。構成・執筆を務めた書籍はアントニオ猪木『世界闘魂秘録』『生きるために闘う』(ともに双葉社)、関根潤三『いいかげんがちょうどいい』(ベースボール・マガジン社)、野村克也『短期決戦の勝ち方』(祥伝社)など30冊に及ぶ。
加藤英一郎 かとう えいいちろう
1980年専門学校東京YMCAデザイン研究所卒業。複数の個人デザイン事務所でアシスタントを務める。1991年に独立し、雑誌、PR誌、ポスター、CI(ロゴ・マーク)などのアートディレクションからデザイン、イラストレーションまでを多数手がけている。個展・グループ展の開催や、国内外の多数のエキシビションに参加。近著に米谷紳之介氏との共著『シネマ&シガレッツ』(本の研究所)がある。