今こそ「何もしない」ことの豊かさを知ろう。韓国で広がる癒やしブームの最前線――【連載】金光英実「ことばで歩く韓国のいま」
人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、韓国のいまを伝えます
流行語、新語、造語、スラング、ネットミーム……人々の間で生き生きと交わされる言葉の数々は、その社会の姿をありのままに映す鏡です。本連載では、人気韓国ドラマ『梨泰院クラス』『涙の女王』などを手掛けた字幕翻訳家が、辞書には載っていない、けれども韓国では当たり前のように使われている言葉を毎回ひとつ取り上げ、その背景にある文化や慣習を紹介します。
第1回から読む方はこちら。
#18 불멍(プルモン)
猛暑に苦しんだ夏が終わり、ようやく過ごしやすい季節がやってきた。ここ数年、韓国では日本と同じように、秋があっという間に過ぎ去り、すぐに冬の足音が近づく。だからこそ、人々は短い秋を存分に楽しもうと必死になる。
秋といえば、日本では「読書の秋」「食欲の秋」と呼ばれるが、古くから「天高く馬肥ゆる秋」ともいわれる。韓国では천고마비(チョンゴマビ)(「天高馬肥」の韓国語読み)といい、秋の実りと豊かさを象徴することばとしてよく耳にする。
そして最近では、秋は「불멍(プルモン)の季節」とも呼ばれるようになった。불(プル)は「火」、멍(モン)は「ぼーっとする」、つまり「火を見てぼーっとする」行為のことを指す。かつてキャンプ好きの若者たちのあいだで誕生したこのことばは、いまや韓国の癒やし文化の新たな象徴となっている。
忙しさを誇るように生きてきた社会が、火の前で静かに「無」を取り戻す。その風景には、努力と競争に全力を尽くしてきた韓国という国が見える。火のゆらぎのなかで、静かに自分自身へ戻ろうとする小さな変化の兆しだ。
今回は「불멍(プルモン)」という言葉を手がかりに、何もしないこと――火を見つめてぼんやりすることがもたらす癒やしの新しいかたちを、韓国文化の変化とともに考えてみたい。
自然のゆらぎに自分をゆだねる
불멍(プルモン)という言葉が初めて登場したのは、2010年代前半のキャンプブームのころだ。都市生活に疲れた若者たちが、週末になるとソウル郊外や江カン原ウォン道ドのキャンプ場へと向かった。自然の中で焚き火を囲み、何をするでもなく炎を見つめる。そんな時間が、彼らの間で「最高の休息」と呼ばれるようになった。
불멍(プルモン)の멍(モン)は、멍하다(モンハダ)から来ている。このことばは、もともと「気が抜けている」など、やや否定的な意味で使われてきた。しかし、불멍(プルモン)ブーム以降、「何も考えずに心を休める」といったリラックス的なニュアンスが加わり、肯定的な意味でも用いられるようになった。つまり불멍(プルモン)は、ただの焚き火ではなく、「新しい心の安らぎのかたち」を提示したのである。
불멍(プルモン)の人気が広がるにつれて、韓国では「멍(モン)文化」が生まれた。火を見つめる불멍(プルモン)、水を眺める물멍(ムルモン)、空を仰ぐ하늘멍(ハヌルモン)、砂を見ながら心を落ち着かせる모래멍(モレモン)、そして花火の一瞬に浸る불꽃멍(プルコンモン)。人々はそれぞれの方法で「멍(モン)する時間」を楽しんでいる。
ソウル市内では「멍때리기(モンテリギ)大会(ぼーっとする大会)」が毎年開かれている。参加者たちは芝生の上に並んで、ただ黙って遠くを見つめる。心拍数を測定する機器を着用し、心拍数が一定に保たれているほど高得点。2014年に韓国で生まれたこの大会は、いまや世界中に広がっている。「考えすぎて疲れた頭を休めたい」と語る人々の姿は、불멍(プルモン)の炎を見つめる人々の静けさとどこか似ている。
불멍(プルモン)が「火を前にした個人の癒やし」だとすれば、멍때리기(モンテリギ)は「都市のまんなかで共有される癒やし」だ。思考をいったん手放す行為が、競争社会の中で必要とされるものになっている。
「멍(モン)文化」に共通するのは、どれも「自然のリズム」に身をゆだねることだ。炎のゆらぎ、波の音、風の流れ、光のきらめき。単調ながらも予測できない動きをただ見つめていると、日常の速度から少しだけ距離を置ける気がする。
「멍(モン)」をしていると、頭の中のノイズが消えていく。불멍(プルモン)も물멍(ムルモン)も、そして모래멍(モレモン)も、人々が見つめているのは、自然そのものではなく、その奥にある「自分の静けさ」なのだろう。
デジタル空間で味わう自然
やがて「멍(モン)する時間」は、自然の場からスクリーンの中へと移っていく。キャンプ場の火がスマートフォンの画面に、波の音がYouTubeのASMRに。불멍(プルモン)はデジタルを通して、また新しい形の「癒やし」へと姿を変えようとしている。
2016年ごろにはInstagramに「#불멍(プルモン)」タグが急増し、YouTubeでは「불멍(プルモン)ASMR」というジャンルが生まれた。火の音を強調しただけの映像が、数百万回も再生されている。視聴者のコメントには「音を聞くだけで心が落ち着く」「本当に불멍(プルモン)している気分」といったことばが並ぶ。
つまり、実際にキャンプ場に行かずとも、スマートフォンさえあれば火の音を聞き、画面の炎に没入できるようになったわけだ。불멍(プルモン)は「自然の中の体験」から、次第に「持ち運べる癒やし」へと姿を変えていった。
2020年、世界がパンデミックに包まれたころ、불멍(プルモン)は一気に「誰もができる心の休息」として拡散した。外出や旅行が難しくなり、人々は自宅のベランダや小さな庭でエタノールランプやキャンドルを灯し、「家でも불멍(プルモン)する」とSNSに投稿した。
韓国ではそのころ、リビング用の「불멍(プルモン)ムードライト」が次々に発売された。炎のゆらめきを再現したLEDランプや、火の音を収録したBluetoothスピーカー。オンラインショップでは「불멍(プルモン)キャンドル」「불멍(プルモン)家電」というカテゴリーまで登場した。火そのものよりも、「불멍(プルモン)する気分」が求められたのである。
YouTubeの再生リストには、「3時間焚き火映像」「眠れない夜のための불멍(プルモン)ASMR」などが並び、Netflixでは暖炉の映像が韓国の若者のあいだで「불멍(プルモン)映像」として人気を集めた。
火を通して心を鎮める――불멍(プルモン)はデジタル時代の瞑想となったのだ。
「何もしない」ための施設が大人気
最近のソウルでは、「불멍(プルモン)カフェ」「물멍(ムルモン)カフェ」という言葉をよく耳にする。白い壁の店内に小さな焚き火台が置かれ、人工の炎がゆらめく店。あるいは、窓一面に川面が広がり、流れに合わせて照明がゆっくり暗くなる店。BGMは控えめで、聞こえるのは火のはぜる音や水の落ちる音だけだ。人々はカップを両手で包み、ただそのリズムを眺めている。
水の人気は、とりわけ目立つ。川沿いのテラス席から流れを見下ろせるカフェ、地下フロアに静かな噴水を設え、薄明かりの中で「물멍(ムルモン)」にひたれる大箱カフェ。雨を演出する空間もある。
最近では、炎や川に続き、滝の前でぼうっとする「폭포멍(ポッポモン)(滝モン)」もはやっている。ソウル・弘済川(ホンジェチョン)沿いには水辺のカフェができ、滝の音を聞きながらコーヒーを飲む人々で週末はにぎわう。一定のリズムで落ち続ける水音は、静かにゆらめく불멍(プルモン)の炎と同様に、頭をやさしくリセットしてくれる。
平日の午後でも、家族連れや中高年のグループ、ひとり客が思い思いに椅子へ腰をおろし、落ち続ける水を前に、会話をやめてしばし沈黙する。滝の轟音は、周囲の雑音をやわらかく覆い隠す。
火と水、静と動。そのどちらもが、いまの韓国に必要な「멍(モン)の風景」なのかもしれない。
郊外にも「멍(モン)のための施設」が増えた。宿泊つきの불멍(プルモン)スペースでは、夜になるとスタッフが焚き火に火を入れ、客は毛布を肩にかけて、火と風だけの時間を持つ。「語らなくていい場所」が、旅の価値になっていく。かつて焚き火は人を集める象徴だった。いまは「自分を整えるための個室のような火」が求められている。
興味深いのは、こうした空間の常連に、若者だけでなくシニアの姿が目立つことだ。「週末は夫婦で滝を見に行く」「歩き疲れたら川のカフェで물멍(ムルモン)をする」。積み重ねてきた生活の速度を、ほんの少しだけ緩めるための習慣として、「멍(モン)のカフェ」が選ばれているのだ。これは、韓国のレジャーが「派手な体験」から「静けさ」へと価値軸を移していることの証明に思える。
火も水も、本物か偽物かはあまり意味を持たない。炎の温かさや水の冷たさがなくても、人はゆらぎの前で呼吸の深さを取り戻す。都市に置かれた小さな自然が、忙しさを誇ってきた社会の中で、誰もにひらかれた休息の入り口になっている。
「自分」を取り戻す瞬間
私は물멍(ムルモン)が好きだ。寝る前に雨音のASMRを聴くこともあるし、雨の日には、翻訳の手を止めて窓の外の雨音に耳を澄ます。そうしているうちに、少しずつ頭の中のノイズが消えていく。
休日には、漢江(ハンガン)の川沿いのカフェでビールを飲みながら、流れを眺めることもある。街の喧騒から離れ、水の動きをぼんやりと追う。それだけで、心がゆっくり整っていく気がする。
そんな時間もない日は、机のそばのオカメインコを眺める。羽づくろいをしたり、首をかしげたり――その小さな動きを見ているだけで、不思議と気持ちが落ち着く。
火でも、水でも、雨でも、そして小さな命でも。멍(モン)の中には、静けさという名の癒やしがある。何かをしなければと思いながら生きてきた日々の中で、「何もしない時間」にこそ、人は自分を取り戻すのかもしれない。
プロフィール
金光英実(かねみつ・ひでみ)
1971年生まれ。清泉女子大学卒業後、広告代理店勤務を経て韓国に渡る。以来、30年近くソウル在住。大手配信サイトで提供される人気話題作をはじめ、数多くのドラマ・映画の字幕翻訳を手掛ける。著書に『ためぐち韓国語』(四方田犬彦との共著、平凡社新書)、『いますぐ使える! 韓国語ネイティブ単語集』(「ヨンシル」名義、扶桑社)、『ドラマで読む韓国』(NHK出版新書)、訳書に『グッドライフ』(小学館)など。
タイトルデザイン:ウラシマ・リー