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NHK紅白に欠かせなかった数々の楽曲— 特集:作詞家・星野哲郎生誕100年、日本人を愛しみ、慰め、励まし続けた流行(はやり)歌の作家として抱き続けた矜持

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NHK紅白に欠かせなかった数々の楽曲— 特集:作詞家・星野哲郎生誕100年、日本人を愛しみ、慰め、励まし続けた流行(はやり)歌の作家として抱き続けた矜持

自身の実体験をベースにした独特の世界観を持つ作風が〝星野節〟とも称された作詞家・星野哲郎。2025年は生誕100年、没後15年に当たる。自身が生み出した歌詞を星野は「演歌」と称さず、遠くにありて歌う〝遠歌〟、海をテーマにした〝塩歌〟、人との出会いを歌う〝縁歌〟、人を励ます〝援歌〟などと称していたという。これらをまとめて〝星野えん歌〟と表現される。人を楽しくさせ、前向きな気持ちにさせるような歌を書いていこうという思いが強く、星野作品に〝怨歌〟はない。歌謡界では、北島三郎をはじめ、水前寺清子、都はるみなど、デビュー前から関わってきた歌手も多い。忌日の11月15日は「紙舟忌」と命名される。これは星野が生前「流行(はやり)歌は水に浮かべるとすぐに沈んでゆく紙の舟に似てはかないもの」と語っていたことに由来する。この言葉からは星野が生涯を流行(はやり)歌の作家として生きた矜持のようなものが伝わってくる。1985年には星野の故郷・周防大島に北島三郎が歌った「なみだ船」の歌碑が建立され、2007年には周防大島町に町営の「星野哲郎記念館」が設立されている。今回の特集では、約20年在籍していたクラウン専属作詞家時代の作品を核に、作詞家・星野哲郎の軌跡をたどってみる。

企画協力&画像提供=日本クラウン株式会社

1925年(大正14年)山口県周防大島に生まれる。幼少時より船乗りとして海に暮らすことを夢に描いていた。長じて高等商船学校を卒業し、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ)に就職し、遠洋漁業の乗組員となる。憧れのマドロス人生だったが、わずか2年の後、病気のため下船を余儀なくされる。病床にあって、詩作という小さな灯りを見い出し、雑誌に作品を投稿し、やがて〝歌謡詞〟という航路を見つけた。以後、半世紀余りを流行歌の作詞家として生きた。53年、日本コロムビアから「チャイナの波止場」(唄:若山彰と初代コロムビア・ローズ)が作詞家デビュー曲としてリリースされた。58年、雑誌「平凡」が募集したコンテストに「思い出さん今日は」が入選、作曲・古賀政男、唄・島倉千代子でレコード化され、初のヒット曲となり、日本コロムビアの専属作詞家になる。コロムビア時代のヒット曲には、スリー・キャッツ「黄色いさくらんぼ」(作曲・浜口庫之助)、畠山みどり「恋は神代の昔から」「出世街道」(共に作曲は市川昭介)、北島三郎「なみだ船」(作曲・船村徹)、都はるみ「アンコ椿は恋の花」(作曲・市川昭介)などがある。63年9月に日本クラウンの創設に関わり移籍、日本クラウンの専属作詞家となる。83年にフリーとなった後も、大月みやこ「女の港」(作曲・船村徹)、都はるみ「夫婦坂」(作曲・市川昭介)、鳥羽一郎「海の祈り」(作曲・船村徹)、小林幸子「雪椿」(作曲・遠藤実)、美空ひばり「みだれ髪」(作曲・船村徹)など数々のヒット作を生み出し、生涯約3000曲もの歌詞を手がけている。撮影:荒牧万佐行

 今どきは壁紙というと、建物の内装に用いられるクロスではなく、スマホやパソコンの背景画像を連想する人が多いかもしれない。では、音楽にも壁紙があると言ったらどうだろう。ピンと来る人はあまりいないと思う。

 音楽的壁紙。ぼくはこの言葉を村上春樹の短篇小説『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』(『一人称単数』収録)を読んで知った。

 音楽的壁紙とはこういうことである。村上春樹自身が投影されていると思われる主人公の思春期は、ラジオをつければビートルズがかかっている時代だった。だからといって、熱心なビートルズのファンだったわけではなく、当時は「意識をすらすらと通過していく流行りの音楽」だったというのである。こんな一節がある。

「そう、ビートルズの音楽は僕らの周囲を隈無く取り囲んでいたのだ。まるで綿密に貼られた壁紙のように。」

 巧い表現だなあと思う。同時に、ぼくにとっての音楽的壁紙は何だろうかと考えた。

 いや、考えるまでもない。ぼくの周りを取り囲んでいた壁紙は歌謡曲だった。歌謡曲を正確に定義するのは難しいが、「演歌からポップスまで含んだ日本語で歌われる大衆音楽」くらいの解釈でいいと思う。ぼくはこうした歌謡曲がテレビやラジオで、あるいは街中で流れる時代に育った。しかし、歌謡曲のレコードを買ったことはほとんどない。

 現在、ぼくが持っている数百枚のLPレコードやCDはほぼ洋楽で占められている。それも8割以上がロックである。唯一の例外は大瀧詠一が構成・選曲した『アキラ1』から『アキラ4』まである企画盤だけだ。アキラとはもちろん小林旭のことである。

 そんなぼくでも無数の歌謡曲のメロディを知っている。それなりに歌詞も知っていて、口ずさむこともできる。カラオケだって歌える。

 古い記憶を掘り起こすと、歌謡曲が壁紙だった忘れがたい場面がいくつもある。

▲左:星野哲郎と水前寺清子。水前寺の「チータ」の愛称は、小柄な水前寺を本名の民子(たみこ)から「ちいさなたみちゃん」と星野が呼んだことに由来する。水前寺は15歳で出場した「コロムビア歌謡コンクール」で2位になり、星野に声をかけられコロムビアで11回もレコーディングしたが、レコードデビューにはいたらなかった。その後クラウンレコードに移籍し「涙を抱いた渡り鳥」で念願のデビューを果たした。紅白歌合戦には1965年に初出場し22回連続出場しており、紅白の紅組司会を4回務めている。初出場で登場する際の、紅組司会の林美智子(NHK連続テレビ小説「うず潮」のヒロインで人気者となった)が紹介してくれた言葉が心にしみ、司会のときにはそのことを胸に歌手の紹介をしていると言っていた。緊張の極致にいる初出場歌手に対して激励となる歌手のいい部分を最大限にすくいあげるべく、司会者面談を念入りにおこなっていたときく。このことにも〝星野イズム〟のようなものが見て取れる。星野の葬儀では、船村徹と共に弔辞を読み上げた。
右:1964年10月15日発売水前寺清子「涙を抱いた渡り鳥」。星野哲郎の作詞だが名義は有田めぐむとなっている。星野が日本コロムビア専属歌詞のときに書いた作品であり、星野哲郎と名乗れない苦肉の策だったようである。作曲の市川昭介もコロムビア専属の作曲家だったため、いづみゆたか名義になっている。

 小学校の何年生だったかは覚えていないが、運動会の選手入場曲として水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」がかかったことがあった。走るのが好きだったぼくは「休まないで歩け~」の歌詞に妙に気分が高揚したものである。後年、初めてのパチンコで大当たりしたときにも、水前寺清子の景気のいい歌声が聴こえていた。つまり、ぼくにはすこぶる縁起のいい曲なのである。
 高校時代に好きになった女の子と初めて2人で喫茶店に入ったとき、店内に流れていたのは、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」でも、デレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」でもなかった。なぜか北島三郎の「函館の女」。彼女と何を話したかは憶えていないのに、北島三郎が威勢のいいイントロのフレーズはしっかり耳に残った。

▲星野哲郎と北島三郎の若き日の2ショット。北島は1962年、日本コロムビアから「ブンガチャ節」でデビュー。63年に星野哲郎と行動を共にしクラウンレコードへ移籍する。同年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たし、2013年には史上初の50回出場を達成した。まさに、演歌界の御大と言える存在である。

▲左:1965年3月10日発売の北島三郎「兄弟仁義」。作曲は北原じゅん。東映映画『兄弟仁義』の主題歌であり、星野哲郎が日本コロムビアからクラウンレコード移籍する際の北島とのエピソードが着想になったという。クラウンレコードへの移籍を決意した星野が公演中の北島の楽屋を訪ね別れを告げると、北島は「俺たちは義兄弟じゃないか」と星野と行動を共にした。
中央:1965年11月10日発売の北島三郎「函館の女」。作曲は島津伸男。13曲続く「女(ひと)」シリーズの記念すべき1曲目で紅白歌合戦でも歌唱。「女」シリーズは13曲すべて作詞を星野が手がけている。
右:1980年9月15日発売北島三郎「風雪ながれ旅」。作曲を船村徹が手がけた、津軽三味線奏者の高橋竹山の生涯を元にした楽曲で、第1回古賀政男記念音楽大賞を受賞した。紅白歌合戦では7回歌唱しており、大量の紙吹雪が舞う演出が定番だった。

 大学時代に九州を旅した際、友人の実家近くのスナックに行ってじっくり耳を傾けることになったのは、小林旭の「昔の名前で出ています」。店のママの名前がこの曲にも出てくる「ひろみ」で、ママはごていねいに詩が生まれたエピソードまで教えてくれた。作詞家のもとに、あるホステスから何年ぶりかで電話があり、「昔の名前で出ていますから、遊びにきてください」と言われ、そこから詩ができたのだと。ぼくは「作詞家ってすごいですね」と、調子よく相槌を打った気がする。しかし「三百六十五歩のマーチ」や「函館の女」と同様に、作詞家の名前までは意識していなかった。

▲左:1964年10月15日発売小林旭「自動車ショー歌」。小林は58年に日本コロムビアから「女を忘れろ」で歌手デビューしたが64年にクラウンレコードに移籍している。歌詞に、ニッサン、クラウン、シボレー、ジャガー、フォード、ルノー、ブルーバード、ダットサン、マツダ、ベンツ、クライスラー、セドリックなど自動車の車種・メーカーが駄洒落的に盛り込まれていてナンセンス・ソングの趣の作品だ。作曲は、水前寺清子「ありがとうの歌」、石橋正次「夜明けの停車場」などの叶弦大が手がけている。
右:1975年1月25日発売小林旭「昔の名前で出ています」。「自動車ショー歌」同様、叶弦大が作曲を手がけている。小林自身の地道なプロモーション活動により、発売から2年後の77年から売り上げを伸ばし大ヒット曲となった。オリコンシングルチャートで6位まで上昇し、77年度の年間チャートでは5位という売れ行きだった。77年のNHK紅白歌合戦にもこの曲で初出場し、現在まで通算7回出場している。星野哲郎が亡くなったとき、小林は「歌謡曲の中に情感を打ち出せる日本語を書けるのは、星野さんしかいなかった」とその死を悼んでいた。

 

 星野哲郎の名前とその才能に気づいたのは、名画座の特集で『男はつらいよ』シリーズを集中的に観るようになってからだ。遅ればせながら、タイトルロールに星野哲郎の名前を見つけた。それまで渥美清がカラッと晴れ上がった声で歌うあの主題歌は、てっきり監督の山田洋次が作詞したものだと思い込んでいたのだ。それくらい歌詞が映画の内容や寅さんのキャラクターと共鳴している。この段階で、ようやく星野哲郎が紡ぐのは詩であると同時に、物語なのだと理解するようになった。「函館の女」や「昔の名前で出ています」もまさにそうである。
「昔の名前で出ています」に至っては作詞家と歌手の人生がダブって見えなくもない。

 星野哲郎は高等商船学校(現・東京海洋大学)を卒業後、一度はトロール漁船の船乗りになるのだが、腎臓結核を患い、下船を余儀なくされる。寝たきりだった闘病中に詩作に励み、雑誌『平凡』の懸賞金付きの歌詞コンクールで入選。この頃から作詞家人生がスタートする。だが、下積みの期間は短くはない。スリー・キャッツの「黄色いさくらんぼ」がヒットしたのは6年後。34歳のときだった。その後、「アンコ椿は恋の花」や「兄弟仁義」など、売れっ子作詞家として年間100作以上を手がけるようになる。

▲左:星野哲郎同様、鳥羽一郎は遠洋漁船の船員だったが、もともと抱いていた歌手への想いを貫くべく27歳で上京し、かねてから憧れだった作曲家・船村徹に弟子入りし1982年、30歳で「兄弟船」で歌手デビューを果たす。作詞・星野哲郎、作曲・船村徹のゴールデン・コンビによる作品だ。デビュー時のキャッチフレーズは「潮の香りが似合う男」で、それまであまり取り上げられなかった「海の男」という路線を開拓し同年の多くの新人賞を受賞した。NHK紅白歌合戦に初出場したのは85年で、初出場が決まったとき、「鳥羽にはジャンパーが似合う」と、星野は鳥羽に写真の革のジャンパーを贈った。紅白には現在まで通算20回出場している。星野は鳥羽に「下北漁港」「海の祈り」「昭和北前船」「北斗船」など、海の男の心意気や絆をテーマにした曲を多数書いている。鳥羽は海難事故に遭った多くの仲間のために何かできないかと、88年から定期的に海難遺児チャリティの「港町コンサート」を開催している。星野と鳥羽の想いが一つに重なってみえる。弟は演歌歌手の山川豊、長男はシンガー・ソングライターの木村竜蔵、次男は演歌歌手の木村徹二という音楽一家である。
右:1982年8月25日発売された鳥羽一郎のデビューシングル「兄弟船」。「海の男」をテーマにした歌で、漁師兄弟の想いが綴られた楽曲で累計売上はミリオンセラーを記録している。鳥羽の人生を変えることになる曲であり、「まさに人生の応援歌」だと、船乗り経験のある鳥羽は言う。通算20回の出場を誇る紅白歌合戦で、鳥羽は7回歌唱している。鳥羽は98年には日本レコード大賞最優秀歌唱賞を「龍神」で受賞した。

 一方、往年の日活のスーパースターだった小林旭も波乱の人生を送っている。1970年代に不動産事業に失敗し、多額の借金を抱え込む。返済の原動力となったのが「昔の名前で出ています」だった。といっても、いきなりヒットしたわけではなく、小林旭は約2年間、地道にキャバレーなどをドサ回りしてミリオンヒットに漕ぎつけている。

 しかし、小林旭の甲高い歌声からあまり湿っぽさが感じられないように、星野哲郎が作る詩もジメジメはしていない。基調となっているのはやさしさや明るさだ。本人もインタビューで働く人の「人生の応援歌」を作ることがライフワークだと語っている。「三百六十五歩のマーチ」はその代表曲だし、「男はつらいよ」も愛すべきダメ男へのエールだ。

▲左:1968年11月10日発売水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」。作曲は、やはりクラウンレコード創設と共に日本コロムビアから移籍し、星野哲郎と組んで水前寺の「いつでも君は」「真実一路のマーチ」、美樹克彦「花はおそかった」などのヒット作を手がけた米山正夫。水前寺は演歌歌手としてヒット曲を出していたが、星野は「息の長い歌手でいるには、違うタイプの歌も歌えなくてはいけない」との思いもこめてこの楽曲を作ったという。結果、ミリオンセラーになり、69年の日本レコード大賞と第2回日本作詞大賞でともに大衆賞に輝いた。星野は水前寺が歌った「いつでも君は」で、68年の第1回日本作詞大賞の大賞を受賞している。
右:1970年2月10日発売渥美清「男はつらいよ」。作曲は山本直純で、もともとは68年から放送されたテレビ版の主題歌として作られた。映画版第1作の公開は69年ということは、映画版がスタートした後にレコード化されたことがわかる。息の長い主題歌で38万枚のセールスを記録している。前口上のセリフは、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。当初は自分がいては妹・さくらが嫁にも行けないことを嘆く歌詞が、さくらの結婚を期に、どうせ自分はやくざな兄貴というような自虐的なものに変わった。世の中のあぶくのように生きる人々の心に寄り添う、星野哲郎のやさしさが伝わる〝援歌〟だ。

 さらに、星野哲郎を語る上で忘れてはならないのが、ダジャレ満載のユーモアソング。小林旭が歌う「自動車ショー歌」、「ゴルフショー歌」、「野球小唄」といった一連の曲を聴くと、今、こんなに陽気で、素っとん狂な詩はないよなあと、あらためて思う。小林旭の乾いた明るさが見事に生かされている。ぼくはこれが聴きたくて大瀧詠一が企画した『アキラ』シリーズのCDを買ったのである。

 人は誰も心の中に長い時間をかけて音楽を貯め込み、自分だけの世界を形成している。記憶や体験のコレクションと言うべきその部屋には、壁紙があり、絵画があり、テーブルや椅子や本棚などの家具もある。レイアウトや色彩設計を含め、それは世界にたった一つしかない自分の部屋だ。そんな部屋に身を置くことの幸せを、齢を重ねるほどに噛みしめている。

▲左:西郷輝彦は1964年2月にクラウンレコードから「君だけを」でデビュー。続く「十七才のこの胸に」もヒットし、その年の日本レコード大賞新人賞を受賞。NHK紅白歌合戦にも初出場を果たし、紅白には連続10回出場している。橋幸夫、舟木一夫と共に〝御三家〟と呼ばれ、絶大な人気を博した。「初恋によろしく」は66年11月1日に発売された西郷の31枚目のシングルで、作曲は米山正夫が手がけている。星野哲郎とのコンビではそのほかにも「青年おはら節」など10枚以上のシングルをリリースしている。舟木同様〝青春歌謡〟の代表歌手である西郷の陽と陰の両方の特性を活かし、初恋の甘酸っぱさ、ほろ苦さを描き、西郷が軽やかに歌っている。
右:美川憲一は青春歌謡路線でクラウンレコードから1965年にデビューするが、66年の「柳ヶ瀬ブルース」の大ヒットによりムード歌謡路線へと方向を変え歌手としての地位を確立させた。「新潟ブルース」「釧路の夜」などをヒットさせ、68年にNHK紅白歌合戦初出場を果たし、その後も「おんなの朝」、美川の代表曲とも言える「さそり座の女」などをヒットさせ、紅白には通算26回出場している。小林幸子との大仕掛けの衣装合戦は紅白の名物だった。「お金をちょうだい」は、71年11月25日に21枚目のシングルとして発売された。星野哲郎がキャバレーのホステスさんに話をきかされているうちに着想を得た作品で、作曲は「さそり座の女」、黒沢明とロス・プリモス「ラブユー東京」、西条史朗「夜の銀狐」などの中川博之が手がけている。ちなみに美川のデビュー曲「だけどだけどだけど」も星野の作詞である。

▲右:1966年に「ラブユー東京」(B面)でレコードデビューした、日本のムード歌謡を代表するコーラスグループ黒沢明とロス・プリモス。「たそがれの銀座」は「雨の銀座」に続く銀座シリーズ第2弾として68年5月に発売され、発売と同時にオリコンにランクインした。68年にはオリコンチャートの100位以内に4曲が同時期にランキングされるほどの売れ行きを誇っていた。作詞は古木花江とあるが、これも星野哲郎のペンネームの一つで、銀座の一丁目から八丁目までが4コーラスで構成され、銀座の風物と共に銀座に生きる女のキャラが軽快に詠われている。作曲は中川博之で、メインボーカルの森聖二の艶のある声質が女心をくすぐり大ヒットし、68年のNHK紅白歌合戦にも初出場を果たした。銀座シリーズ第3弾「恋の銀座」、「さようならは五つのひらがな」も星野の作詞。
左:1970年3月1日発売の「長崎の夜はむらさき」は瀬川瑛子(当時は映子)の7枚目のシングルで、長崎市の代表的なご当地ソングの一つ。この作品も星野哲郎のペンネームである古木花江名義での作詞になっている。作曲は、瀬川のデビューに携わり藤正樹「忍ぶ雨」の作曲でも知られる新井利昌。日本有線大賞・期待賞にも輝き、67年のデビュー以来、瀬川にとって約50万枚を売り上げる初のヒット・シングルとなったが、その後なかなかヒット曲にめぐまれず、歌手として花開くのは86年に発売した「命くれない」が、87年度オリコンシングルチャート年間1位を記録するまで待たねばならなかった。NHK紅白歌合戦にも初出場を果たし、通算4回出場している。「函館の雨はリラ色」「長崎霧情」「相生橋」など、星野は瀬川にも多くの詞を提供している。

米谷紳之介(こめたに しんのすけ)
1957年、愛知県蒲郡市生まれ。立教大学法学部卒業後、新聞社、出版社勤務を経て、1984年、ライター・編集者集団「鉄人ハウス」を主宰。2020年に解散。現在は文筆業を中心に編集業や講師も行なう。守備範囲は映画、スポーツ、人。著書に『小津安二郎 老いの流儀』(4月19日発売・双葉社)、『プロ野球 奇跡の逆転名勝負33』(彩図社)、『銀幕を舞うコトバたち』(本の研究社)他。構成・執筆を務めた書籍は関根潤三『いいかげんがちょうどいい』(ベースボール・マガジン社)、野村克也『短期決戦の勝ち方』(祥伝社)、千葉真一『侍役者道』(双葉社)など30冊に及ぶ。最新刊に『小津安二郎 粋と美学の名言60』(双葉文庫)、『シネマ&シガレッツ』(本の研究社)がある。

INFORMATION

三山ひろし『大好きな星野哲郎先生の作品を唄わせていただきます!~生誕100年・星野哲郎作品集~』

当代の演歌歌手を代表する三山ひろしが、愛唱する星野哲郎作品を結集したアルバムを、2025年5月14日にリリース。全16曲入りで、新録8曲収録。

▲収録曲は、渥美清「男はつらいよ」、美空ひばり「みだれ髪」、小林旭「昔の名前で出ています」「自動車ショー歌」、北島三郎「なみだ船」「仁義」、水前寺清子「いっぽんどっこの唄」「三百六十五歩のマーチ」、都はるみ「アンコ椿は恋の花」「夫婦坂」、大下八郎「おんなの宿」、黒沢明とロス・プリモス「城ケ崎ブルース」、美樹克彦「花はおそかった」、大月みやこ「女の港」、小林幸子「雪椿」、鳥羽一郎「兄弟船」。CRCN-41524

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