「俳優が本業で歌手は素人」と言って憚らなかった渡哲也の大ヒット曲「くちなしの花」は、特攻隊の遺書をヒントに男の強さとやさしさが沁みるロングセラー歌謡曲となった
男っぽい硬派の俳優・渡哲也が、気取らず衒(てら)いもなく、淡々と歌う「くちなしの花」(作詞・水木かおる、作曲・遠藤実)は、1973年(昭和48)8月21日に発売されて翌年にかけて火がつき、のちのちまで売れるロングセラーとなった。高音域を必要とせず、誰が歌ってもそれなりに様になる楽曲のせいか、カラオケが普及し始めたからヒットした、と言えなくもない。夜な夜なオジサンたちは100円硬貨を目の前に積んで、一曲歌ってはカラオケ機にコインを投入した時代だった。8トラックテープの伴奏で歌本(当時は映像なし歌詞のテロップなどもない)を目で追いながら、マイク片手に渡哲也になり切って歌っていた。オジサンたちにとっては覚えやすく馴染みやすかったのだろう。ともすれば涙を滲ませながらしみじみと歌唱する姿を、夜のスナックやバーで見かけたものだった。別れた薄幸の女を想う男のちょっと未練がましいやさしさを歌いながら、あわよくばスナックの女性をホロっとさせて気を引こうという下心が透けて見える男もいた。今でもカラオケの定番であり、一説には150万枚の大ヒットといわれるロングセラー歌謡曲である。
……今では指輪が回るほど痩せてやつれたおまえの噂は本当なのだろうか、あの日のおまえは子どもみたいにわがままいって困らせたっけ、白いくちなしの花を見るたびにおまえの淋しい笑顔が浮かんでくる…
と、かつて愛しながら別れた女性への追慕の詩が、発売当時若かったボクにはちゃんちゃらおかしく、オッサンの歌にしか聞こえなかった。それでも、昭和49年第25回NHK紅白歌合戦に初出場(48年にも選出されたが病気療養で辞退、また同年NHK大河ドラマ『勝海舟』の主演も途中降板して松方弘樹が演じた)した渡哲也のステージに立つ生真面目な印象は忘れられない。それだけに『勝海舟』の愛人お久役を演じた大原麗子が、〝復活〟渡哲也を紹介するというNHKの演出には泣かされた。ドーナツ盤のジャケットのように、往時、日活映画の着流し姿のイメージが強かったが、この晴れの日は蝶ネクタイに黒いタキシードで決めていた。思えば、初めて聴いた渡哲也の実直なナマ歌唱だった。以来、恥ずかしながらわがカラオケのレパートリーとなったのである。
渡が一年後れで初出場したこの年の紅白には、トップで対抗した共に初出場の山口百恵「ひと夏の経験」と西城秀樹「傷だらけのローラ」、さらに中条きよし「うそ」、桜田淳子「黄色いリボン」、殿さまキングス「なみだの操」、海援隊「母に捧げるバラード」、あべ静江「みずいろの手紙」、ペドロ&カプリシャス「ジョニイへの伝言」、小坂明子「あなた」という初出場10組のラインナップで昭和の歌謡界を彩るスター誕生の年といえるだろう。
だが、それまでの経済成長にストップをかけたオイルショックで世相は暗かった。この年田中角栄内閣が退陣し、長嶋茂雄が引退。歌謡界はそれまでのポップス、ニューミュージック系一色だったが、前述の殿様キング、中条きよし、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」など演歌のヒットが相次いだ。失礼ながら、公には姿を見せず長期の闘病を経た渡哲也の歌唱も、多くの人々をしんみりとさせて胸に響いたような気がしてならない。
俳優としての渡哲也は、青山学院大学時代に弟の渡瀬恒彦とともに日活にスカウトされ、1964年入社。空手道部のキャプテンを務めるほどの運動能力を生かし、決闘・乱闘のアクション物でまたたく間に人気を勝ち取って「石原裕次郎二世」とまで呼ばれた。1966年、吉永小百合と初共演した純愛映画『愛と死の記録』は、原爆症の青年としてひたむきな愛に生きる等身大の若者を演じたが、もともと無頼、アウトロー的な役柄から〝硬派〟のイメージが定着していった。しかし、映画は斜陽化し、日活はロマンポルノに転換。「石原プロモーション」として独立していた裕次郎を追うようにして1971年入社する。東映、松竹、東宝と映画各社から声がかかり出演するが、テレビに軸足を移し、「大都会シリーズ」「西部警察シリーズ」などで人気を呼んだのは周知の通り。裕次郎亡きあと、石原プロモーションの社長として通称、石原軍団を率いた。
往年の映画界のスター、石原裕次郎、小林旭、鶴田浩二、高倉健、菅原文太、宝田明、勝新太郎、渡瀬恒彦、原田芳雄と列挙してみると、1960年代から70年代かけて「歌う俳優」は多かった。渡哲也も日活入社間もなくから歌手デビューはしていたが、クラウン、テイチクのレーベルでは、さほどヒット曲には恵まれていない。1972年(昭和47)、ポリドールに移って最初の「男の別れ歌」もパッとせず、渡哲也を担当する同社の山口光昭ディレクターは作曲家・遠藤実に、「タイトルはすでに決まっています。『くちなしの花』です」と作曲を依頼する。2006年6月、日本経済新聞に連載された『私の履歴書』に、遠藤実は「くちなしの花」誕生の秘話を自らの筆で公開している。少し長いが、そのまま引用する。
――「もともと山口さんは著名人に戦没学徒の遺書を朗読してもらう企画を進めていた。その依頼に行った作家の曾野綾子さんから見せられたのが、宅島徳光(のりみつ)海軍飛行予備中尉の遺稿集『くちなしの花』。その中に恋人を思って綴った詩があった。
「俺の言葉に泣いた奴が一人
俺を恨んでいる奴が一人
それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人
俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人
みんな併せてたった一人……」(大光社刊『遺稿くちなしの花』から)
宅島中尉は訓練中の事故で亡くなっていたため、戦没学徒の遺書を著名人に朗読してもらったレコードには収録されなかった。しかし山口ディレクターは、二十四歳の命を空に散らせた若きパイロットの詩から受けた感動を忘れられなかった。詩からにじみ出る男の強さと優しさ。そのイメージに近い渡哲也の新曲を手がけると決まったとき、タイトルは『くちなしの花』しか思いつかなかった。
水木かおるさんの詞を受け取った私の目が、一番の「いまでは指輪もまわるほど」のところで止まった。
まだマーキュリー専属のころ、結婚式も挙げないまま苦労ばかりをかける妻に、いつかは指輪のひとつも買ってやれるようになりたいと思っていた。西荻窪駅前の時計店のウインドーに飾られた小さなオパールの指輪を毎日のようにじっと見詰めていた。
『からたち日記』がヒットして初めてまとまった印税が入った。それで買った指輪を大事そうにはめてほほ笑む妻の面影が、脳裏に鮮やかな映像を結んだ。水木さんに「おいしいものは一番先に食べようよ」と言って、歌い出しに持ってきた。『くちなしの花』は昭和四十八(一九七三)年に発売され大ヒットしたが、後に渡さんから「レッスンでピアノを弾きながら泣いていましたね」と言われた。確かにあのときは、辛かった日々と節子のぬくもりが胸によみがえって、鍵盤に涙がにじんだ。」――
これが、「くちなしの花」の〝出自〟である。日経新聞連載当時、このエピソードを読みながら、ボクはますます「くちなしの花」が好きになった。作詞の水木かおるといえば、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」(1960年)の大ヒットが思い浮かぶが、山口ディレクターが集めた『海軍特別攻撃隊の遺書』のなかの遺稿集のタイトルと五行詩をモチーフにしたとはいえ、鎮魂の詩ではない「くちなしの花」を書き上げた作詞家の感性と、「今では指輪がまわるほど」というフレーズを冒頭に持ってきた遠藤実とのマッチング、そして何より、「俳優が本業で歌手は素人」と言って憚らなかった渡哲也の衒いのない歌唱、ロングセラーに至る要因がすべて噛み合った昭和歌謡物語の興味は尽きない。ただし、大ヒットの秘密を世間は社会的な条件と背景があるとコジつけたが、「それは結果論で実際は分かりません」と水木かおると遠藤実は謙虚に語ったと伝えられている。
文:村澤 次郎 イラスト:山﨑 杉夫