「当主が自ら一族96人惨殺」戦国史上最悪級の内輪揉め〜田峯城内乱とは
田峯城(だみねじょう)とは、愛知県北設楽郡設楽町の田峯に存在した山城だ。
田峯城の城主であった田峯菅沼氏は、室町時代より勢力を拡大し、奥三河の山間部に拠点を築いた国衆だった。
戦国時代後期、武田氏配下であった田峯菅沼氏当主・菅沼定忠(すがぬま さだただ)は、長篠の戦いの翌年に田峯城にいた自らの一族を96人、老若男女問わず惨殺したという。
定忠はなぜ武家の当主でありながら、自らの一族を斬るという凶行に及んでしまったのだろうか。
今回は、戦国の時流と武士の矜持が招いた地獄、田峯城内乱について掘り下げていきたい。
菅沼定忠の出自
田峯菅沼氏第5代当主であり、田峯城城主であった菅沼定忠の生年は詳しくはわかっていないが、父の菅沼定継が没したとされる1555年頃に幼児であったということから、1550年代前半頃に誕生したと考えられる。
父・定継は今川氏配下の国衆だったが、1555年の三河忩劇で妹婿の奥平貞勝に加担して今川氏から離反しており、今川方に留まった弟の菅沼定直や定氏と敵対し、奥平も今川に降伏したことから孤立して、弟たちが率いる今川軍の反撃に晒され自害、もしくは殺害されたと伝わる。
叔父たちの攻撃により実の父を失った定忠は、田峯城外で身柄を確保され、叔父たちの意思により新たな田峯菅沼氏当主の座に据えられた。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、その翌年には三河岡崎城の徳川家康が今川氏から独立し、定忠も家康から本領を認められる形で、徳川氏に従っていた。
その後は奥平氏や親族の働きかけで今川氏に帰参し、さらに徳川の三河支配成立後には徳川氏に再従属している。
このように今川氏と徳川氏の間を行き来していた定忠だが、1570年に勃発した上村合戦(武田軍が奥三河へ侵攻しようとする中で起きた合戦)に参戦した際、武田軍の強さを目の当たりにして、ほとんど戦わないまま早々に退却し、城に逃げ帰ったという。
武田につくか徳川につくかで家中の意見が割れる
上村合戦から2年後に武田の徳川領国侵攻が始まると、菅沼定忠は徳川に離反して武田信玄の配下となった。
定忠は、奥平氏の奥平定能や長篠菅沼正貞とともに山家三方衆として、武田家重臣の山県昌景の相備えとして、三方ヶ原の戦いや野田城の戦いに参戦した。
この頃の菅沼家中は、定継の末弟である定仙や島田菅沼氏当主の定勝らは武田方につき、かつて定継を死に追いやり、幼い定忠を田峯家当主に擁立した定氏らが徳川方に残留しており、どちらの勢力に与するかで意見が割れている状態だった。
さらに1573年には、奥平定能との間に牛久保領の所領を巡って諍いが起き、武田氏の裁定に不満を持った奥平氏が徳川氏に離反してしまう。
この山家三方衆の分裂が、長篠の戦いの一因になったともされる。
定忠は、信玄の没後も跡を継いだ武田勝頼に従い、山県昌景の指揮下で野田城・二連木城攻撃や長篠城攻撃に参加した。
田峯菅沼一族の謀反
1575年、長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に惨敗し、定忠の指揮官であった山県昌景は討死した。
定忠は自軍を引き上げて退路を開き、敗走した勝頼を伴って、自らの城である田峯城に入ろうとした。
しかし定忠が田峯城を空けている間に、留守を預かっていた叔父の定直や家老の今泉道善が謀反を起こし、城門を堅く閉ざして定忠ら一行の入城を拒否したのだ。
もともと定直と道善は、定忠が武田方に与することに反対していた。
わずか数騎で敗走してきた定忠と勝頼一行は身柄を拘束されそうになり、命からがら逃げて田峯城よりさらに北にある、すでに武田の城となっていた武節城に落ち延びた。
一行は武節城で一泊した後に信濃に逃れ、定忠は信濃の下条信氏の指揮下に入って織田軍に備えたとされる。
しかし定忠は、実父を死に追いやり、幼い自分を傀儡として当主の座に据えたばかりか、主君を連れて逃げ帰った城主である自分を閉め出して恥をかかせた定直と道善をはじめ、田峯城に残った一族郎党に深い怨恨を抱いた。
そして定忠は報復の鬼となった。怒りと屈辱に染まった定忠にとって、田峯城の一族郎党はもはや許すことのできない仇となっていたのだろう。
報復を成功させるために自分が自害したという噂を流布させ、田峯城の人々が油断するよう用意周到に仕組んだと伝わる。
田峯城内乱と定忠の最期
天正4年7月14日(1576年8月18日)のまだ日も上がり切らない早朝、人々が寝静まっている時間に、定忠はかつて自らの城であった田峯城を急襲した。
その日の田峯城には、謀反に加担した田峯菅沼氏の一族郎党96名がいたが、定忠は老若男女を問わずに城内にいたすべての人々をなで斬りにしたという。
特に恨みが深かった叔父の定直や家老の今泉道善は、ただ斬殺するだけでは気が済まなかったのか、生け捕りにしたのちに鋸挽きの刑に処した。
定忠は処した一族96名を、作手街道の辻で晒し首にしたと伝わる。
田峯城址の近くには今でも、定忠が一族の首を晒した「田峯城内乱の首塚」と「道善処刑の地」が残されている。
田峯菅沼の一族への報復を終えた定忠は、その後も武田に味方し続けたが、甲州征伐で武田勝頼が自害した後は後ろ盾を失った。
その後は織田軍の追討で死んだとも、徳川配下の牧野康成との戦いで討死したとも、織田家重臣に降伏を申し出るも百姓に殺害されたともされる。
定忠の死後は徳川家康の後押しによって、徳川方についていた一族で従弟の菅沼定利(さだとし)が田峯菅沼氏の名跡を継ぎ、定利は信濃国伊那郡を治めたため田峯城は廃された。
1602年、上野国吉井藩主となっていた定利が死去して田峯菅沼の血脈は途絶えたが、かつて定忠と袂を別った奥平定能の孫である奥平忠政が、定利の養嗣子としてその家督を継いだという。
参考文献
阿部 猛 (編集), 西村 圭子 (編集) 『戦国人名事典 コンパクト版』
中路 啓太 (著) 『木霊の声 武田勝頼の設楽原』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部