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初舞台は3歳。人を喜ばせることを追求した2.5次元俳優・丘山晴己のキャリア

はたわらワイド

日本人で初めてアメリカのオンブロードウェイ作品に出演し、日本ではミュージカル『刀剣乱舞』や『スタミュ』など、アニメを原作とする「2.5次元作品」の人気の立役者となった俳優の丘山晴己さん。俳優としてはもちろん、デザイン・アート分野でも活躍の場を広げています。

アメリカでは高校入学にまつわる珍事件や、ブロードウェイの厳しいオーディション、帰国後は国内外の舞台文化の違いなど、丘山さんはさまざまな困難を経験してきました。しかし、その困難を持ち前のポジティブマインドで乗り越えてきた丘山さんは「経験は何一つ無駄にならない」「ミラクルは起きる!」と笑います。そんな、はたらく人々の背中を押してくれる丘山さんの言葉と、その激動の半生をお届けします。

アメリカ留学の幕開けは「人違い入学」

──日本舞踊家の祖父と父、バレエダンサーの母という芸能一家で育った丘山さんですが、どんな幼少期を過ごしていましたか?

2歳のころから日本舞踊を始めて、3歳の時に初舞台を踏みました。日本舞踊を続けながら、小学校入学前には母のバレエ公演にも出るようになって。子どもの頃は基本的にすごく目立ちたがり屋で、なんでもいいからとにかく人前に出て真ん中に立ちたいって思っていました。

──人前に立つ仕事がしたいと思ったのは、初舞台の経験がきっかけとなったのでしょうか?

初舞台の時はまだ目覚めていなかったかな。きっかけは旅行でフロリダのディズニーランドに行った時ですね。パレードの待ち時間って通路には誰もいないじゃないですか。そこが僕にはゴールデンスポットに見えて、一人で出て行って踊り始めたら、パレード待ちをしていた人達が「フゥー!」ってすごい歓声をあげてくれたんです。それで味をしめました。本当にワクワクしたし、エクスタシーを感じたんですよね。ファーストエクスタシー。

──ファーストエクスタシー(笑)。

ちょっと言葉が過激なんですけど(笑)。でも、その時から同じような快感を得たいという思いはずっと持ち続けています。

その後、中学校卒業前に両親がフィラデルフィアの大学で講義を受け持つことになったので、ぼくもアメリカについて行くか、それとも日本で高校に進学するか選ぶことになったんです。英語なんて「My name is Haruki」「I’m from Japan」「Yeah」の3つしか喋れなかったんですけど、「もちろん行くに決まっているよ!」って、ついていったんですよね。ただ、高校では「はるちゃんまさかの事件」っていうのがあって。

──はるちゃんまさかの事件、とは

いろいろな高校を調べる中で、すごく素敵な学校を見つけて。父に「晴己のTOEICのスコアだと難しいかもね」と言われたんですけど、自分がその学校でニコニコ笑っているビジョンが見えたのでそこを受験したんです。そうしたら、合格通知が来て。

──すごくスムーズに決まったんですね。

でも、事件はここからなんです!外国人生徒は英語が必修で、英語のレベルによって2クラスに分かれていたんですけど、僕は上級レベルのほうに入ったので「およよ〜?どうしたんだろうな〜?」って不思議に思っていたんです(笑)。もう一人、英語がペラペラな日本人の方がいたんですけど、彼は入門レベルのクラス。しかも、1学期から3学期まで、彼の通信簿がうちに届くんですよね。「なんで?」って思っていたら、彼も「晴己の通信簿がずっと届くんだけど」って言っていて。

──まさか……。

そのまさかです(笑)。僕とその子の名前が似ていたので学校側が間違えていたみたいで、1年経ってようやく学校もそれに気付いたんですよ。

──入学時から間違っていたということは……?

どうやら僕、手違いで入学しちゃったみたいです(笑)。彼は入学前に3カ月間ずっとサマースクールに通っていて、そこでテストを受けて、一定の点数を取ることが入学条件になっていたらしくて。僕が受けていたら入学できなかったかも。それが僕のアメリカ生活の始まりでした。

これが仕事になるなんて最高!大歓声を浴びた初プロデュース作品

──ドラマみたいな幕開けですね。どんな高校生活を過ごしたのですか?

皆さんが想像するような「ザ・アメリカン・ハイスクール」って感じの学校で、寄宿舎に入って4年間過ごしました。両親は1年で帰国したんですけど、僕は、「アメリカの子とまだチューしてない!」と思って! 高校生の僕にしてみたらロマンスってめちゃくちゃ重要だったんですよ(笑)。それに、せっかく来たのにすぐ帰るのはもったいないから残りました。

──その後、大学ではグラフィックデザインを専攻されていたそうですね。

デザイナーになって、大人も子どもも楽しめる「おもちゃ」を作りたかったんです。僕はテーマパークなんかに行くと、真っ先にグッズを見るんですよ。それで「なんでこのグッズ、こう作らないのかな?」って思うことが多かった。疑問を持ったら自分で作りたくなっちゃう性格なので、みんなが欲しがるような格好良い「おもちゃ」を作りたいなと思って、グラフィックデザインを専攻しました。でも、1年でパフォーミングアーツに編入することにしたんです。

──なぜですか?

座って絵を描いているだけだと、爆発しそうな僕のエネルギーがどうしても抑えきれなくて。まわりの子たちは真面目に制作していたんですけど、「なんかこの大人しい感じ、僕じゃない!」と思って。それで放課後にヒップホップダンスのクラスに通い始めたんですが、その先生がめちゃくちゃ格好良かった。この先生みたいになりたいなと思っていたら、先生が「週末にイベントがあるから一緒にパフォーマンスしようよ。リハーサル期間中は受講料タダでいいよ」って誘ってくれて。

そこから毎日放課後は走って先生のところに行って、練習をしていました。いざ本番を迎えたら、もう割れんばかりの歓声で。「幸せだな〜!」と噛み締めていたら、先生が「少ないけど」って100ドルくれたんです。その時に、楽しいだけじゃなくてこれが仕事になるなんて最高じゃんって、思ったんですよね。それですぐ両親に「パフォーミングアーツのクラスに編入したい!」って電話しました。

──ご両親の反応は?

「簡単な道じゃない」と言われました。「それでも晴己が最後まで責任を持ってやり遂げられるんだったら、全力でサポートする。だから、今回は途中でやめることはないようにしたいね。晴己の初めての決断だよ」と言ってくれて。僕は迷わず、「初めての決断、やります!」って言いましたね。

──その後の人生を大きく左右するような決断だと思うのですが、丘山さんは迷わなかったのでしょうか?

電話を切った瞬間にちょっと考えました(笑)。両親の言葉によって、「うまくいかなかったらどうするか」を自分が考えていなかったことに気づいたんですよね。でも、結局やってみないとわからないと思って、編入を決めました。本当に睡眠時間を削って勉強していましたね。

卒業時に自分がプロデューサーになって作品を作る機会があるのですが、その時の経験は忘れられません。僕は日本出身で父も日本舞踊をやっているし、すごく綺麗な日本の世界観を作ってきてくれるだろうって、先生達は期待していた。でもね、ノン・ノン・ノン。僕はみんなにキャーキャー喜んでもらえる作品を作りたかったんですよ。

──どんな作品を作ったんですか?

ドン・キホーテで売っている馬の被り物を日本から取り寄せて……。

──え

ゴムで作られたパーティー用の馬の被り物があるじゃないですか。当時、あれってアメリカになかったんですよね。だから日本から取り寄せて、演者にかぶらせて踊ってもらったんです。そしたらもう、すごい歓声で。セカンドエクスタシーですね(笑)。ショーケースを経て、自分の好きなものを形にすれば良いんだって自信にもなりました。

厳しいオーディションをくぐり抜け、本場ブロードウェイの舞台へ

──過去のインタビュー記事を拝読しましたが、2008年に大学を卒業し、その年にはプロとしての最初のお仕事があったそうですね。

『Dance or Drop』というMTVのパフォーマンスが初仕事でした。周りの友達はプロのカメラマンさんにプロフィール写真を撮ってもらって履歴書を作っていたんですけど、僕はグラフィックデザインの経験からPhotoshopが使えたし、お金をかけずに全部自分で撮影から加工までしてオーディションを受けていましたね。

そして次の仕事が『Radio City Christmas Spectacular』っていうアメリカの一大イベント。オーディションでは会場の周りを人の列が4周していたんですよ。300~400人くらいいたのかなあ。

──すごく大規模ですね。どうやって選考されていくんですか?

「課題のパフォーマンスを覚えて披露する」というセットを4回くらい繰り返すんです。オーディションが進むごとに列もどんどん減っていって、夕方6時くらいの最終選考には20人になって。オーディション自体慣れていなくて気を張り続けているのに、朝8時からずっと選考続きで、フラフラの状態になっちゃったんですよね。

それで最後の20人が会場に呼ばれて、「今日これまでの4回分のオーディションでやってきた歌とダンスとパフォーマンスを全部つなげて披露してね!」って。しかも「もう1フレーズ追加するから」って言われて「無理なんですけど」ってなりました(笑)。

──極限状態ですもんね。

ニューヨークのトップの20人が集まっているわけですから、みんな素晴らしいパフォーマンスで。僕も大学時代にパフォーミングアーツの講義を毎日受けていたから、技術は整っていたわけです。でも、疲労もピークに達しているし、覚えられないしで、なんかもうおもしろくなってきて笑っちゃったんです。どうにでもなれ!って(笑)。それでがむしゃらにパフォーマンスしていたら、ディレクターが急に「ストップ!」って言って、僕のほうにつかつか歩いてきたんです。

その瞬間、「終わった……」って思いました。そしたらディレクターがみんなに語りかけたんです。「みんなこのショーはなんのショーか分かってる?クリスマスショーでしょ?晴己だけが笑顔でパフォーマンスしていたよね。みんなに技術があるのはわかっているけど、それができなかったらダメじゃない?」って。その後、僕に向き直って「おめでとう」って言ってくれて。

それでもう号泣。その経験から、お仕事として自分をどう見せなきゃいけないのかをすごく意識し始めました。

──2014年にはオンブロードウェイ(ブロードウェイで上演される中規模劇場の作品の『The Illusionists』に出演されました。日本人としては偉業ですよね。

アメリカで経験した一番大きな舞台でしたね。『The Illusionists』はオーディション期間が半年ほどあったのですが、最後のオーディションを受けたらプロデューサーたちが一発で気に入ってくれて、1800人の中から選んでもらいました。それも疲れ切って、終わったあと泣いちゃった(笑)。

オンブロードウェイって、当時はアメリカ人じゃないと出演できないとか、役者組合に入っていないと出演できないとか、いろんな制約があったんですよ。普通のオーディションとはわけが違う。なぜ組合員ではない僕が受かったのかというと、『The Illusionists』は組合に入っていなくても受かったあとに手続きをすれば良いという特例的な作品だったんです。

──なるほど。とはいえ、プロデューサーがすぐに気に入ってくれたのはなぜだったんですか?

当時、オーディション会場の休憩所でたまたまそこにいた人と雑談していたんですよ。ゲラゲラ二人で笑ったりして、楽しく過ごしたんですよね。それでいざオーディションで自分の番がきたら、その人が目の前に座っていて。

──プロデューサーだったんですか?

そうなんですよ!僕が「あっ!」って驚いたら、相手は「私でした〜!」みたいな感じで笑っていて。あとから聞いたら「晴己はいい奴だってことがわかってたから、あとは技術が見たかった」って言われました。そのプロデューサーとは今でも連絡を取っています。

「ライオンキングも2.5次元作品じゃん!」。日本に求めた新しい風

──アメリカで活躍をしている最中に、日本に帰国するきっかけはなんだったのでしょう?

仕事もたくさん経験し、やりたいことも一通り実現できたタイミングだったんです。でも、「2周目はもういいな」って。そんな煮え切らない僕に両親が気づいて「ブロードウェイも出たし、一旦帰っておいで」って言ってくれたんですよ。その時、大学で編入する際に父に言われた「最後まで責任を持ってやり遂げられるか」を達成できた。やっと父が認めてくれたんだなって感じました。

同時期に日本から、ミュージカル『RENT』のオーディションのオファーがあったんです。とにかく新しい風を自分の中に入れたかったし、日本でもやってみたいなと思って帰国しました。

『RENT』の稽古が2017年4月からスタートする予定だったのですが、僕はちょっとゆっくりしようかなってバケーションみたいな気持ちで2016年末に日本に帰ってきたんです。そしたらマネージャーが、日本とアメリカの舞台はしきたりが違うだろうし、早く日本の作品に慣れたほうがいいだろうってすすめてくれたのが『スタミュ』でした。

──それが初めての「2.5次元」の舞台だったんですね。

元々2.5次元というジャンルは知らなかったんですけど、マネージャーが「日本で流行っているよ」と教えてくれて。考えてみたら、ブロードウェイのライオンキングもアニメ原作じゃんと思って(笑)。

いざ出演したら、ほんっとにアメリカと全部違った!初日の本番前に円陣を組むとか、衣装の扱い方とか、先輩後輩関係とか、わからないことだらけでした。僕は当然アメリカ流にやっちゃうから、まわりからしたらめっちゃ調子乗ってるやつに見えてたと思いますよ。でも、めちゃくちゃ楽しかったんですよね。

思い描いたビジョンは形になる。経験は無駄にならない

──2.5次元作品が丘山さんにとっての「新しい風」になったんですね。

めちゃくちゃなりました!ミュージカル『刀剣乱舞』も、それまでより大きな舞台でやらせていただいたり、ツアーをやらせていただいたり、新しい体験でした。

実は日本に帰ってきたときに自分が大勢の前に立ってライブみたいなことをしているビジョンが見えていたんです。実際、ミュージカル『刀剣乱舞』でさいたまスーパーアリーナに出た時に「これじゃん!」と思いましたね。

ミュージカル『刀剣乱舞』はコールアンドレスポンスといって観客とコミュニケーションをするんですけど、まさにフロリダのディズニーランドで感じた快感をまた得られた感覚でした。

──昨年丘山さんはアート作品を制作し個展を開催するなど、分野を超えて軽やかに活動の幅を広げています。丘山さんが何かを決断する時に大切にされていることは何ですか?

その先のビジョンを描けるかどうかですね。そしてそのビジョンがワクワクするかどうか。みんな「失敗したらどうするの?」って考えるけど、失敗したら失敗したってだけ。失敗しても恥をかくだけでしょ? 恥なんか笑って過ごせば大丈夫って思うんです。

アート活動に関しても、ずっと作品を作り続けていたわけではないんです。でも、いつかファッションブランドをやりたいっていう夢があって、テディベアのキャラをデザインしたTシャツを作っていたんですよ。そしたら去年「Tシャツじゃなくてキャンバスにして個展をやらない?」ってお話をいただいて本格的に作品を作り始めました。

丘山さんの制作したテディベアのアートワーク

僕自身も人間だから、初めての挑戦には恐怖を感じることもあります。でも、その時は恐怖がなくなるくらい練習するんです。やるだけやって、あとは奇跡を信じる(笑)。ミラクルは起きますからね!

──丘山さんにそう言われると、本当にミラクルが起きそうな気がしてきます。

でしょ?僕、幼少期から今の今まで、思い描いたビジョンは全部形になっているし、どんな小さな経験も何一つ無駄になっていないって感じるんです。キャンディみたいに、経験が瓶の中に入っていって、あとになって伏線回収みたいに取り出される。グラフィックデザインも1年でやめたけど、結局去年の個展で役に立ったし、全部が繋がっているなって思います。いつかミラクルは起きる。失敗なんてない。そう信じて良い未来を想像するのが大事なんじゃないかな。

(文:飯嶋藍子 写真:小池大介)

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