宇喜多直家を恐れ続けた弟・忠家の波乱の生涯 〜兄に会う時は鎖帷子を着た?
血で血を洗う戦国時代、たとえ親兄弟であっても利害が対立すれば殺し殺されることは珍しくありませんでした。
今回は備前国(岡山県南東部)を統一した戦国大名・宇喜多直家の弟・宇喜多忠家(うきた ただいえ)を紹介したいと思います。
果たしてどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
宇喜多兄弟!が駆け抜けた日々
宇喜多忠家は天文2年(1533年)、備前の国人領主・宇喜多興家(おきいえ)の子として誕生しました。兄の直家は4歳年長です。
天文3年(1534年)ごろ、祖父の宇喜多能家(よしいえ)が暗殺されてしまい、続いて父の興家も亡くなってしまいました。
当主を失った宇喜多家は没落し、一族は流浪を余儀なくされたと言います。
忠家は直家と助け合いながら、雌伏の歳月を乗り越え、20数年をかけてついに復讐を遂げたのでした。
はじめ備前で勢力を持っていた浦上宗景(うらがみ むねかげ)に従いましたが、のちに織田信長に呼応して叛旗を翻し、独立へと動きます。
そして浦上久松丸(ひさまつまる。宗景の甥孫)を担ぎ上げ、毛利輝元と連携して備前国の統一を果たしました。
※久松丸は備前統一後に直家が暗殺したそうです。
やがて織田家臣の羽柴秀吉が中国地方へ進出すると、これと対立。毛利と組んで織田に対抗します。
この辺りから直家は病気がちとなり、忠家は兄の代わりに指揮をとることが多くなりました。
尼子勝久と山中幸盛らが立て籠る上月城を攻めた時も、兄に代わって采配を振るったそうです。
しかし頼みにしていた輝元が、計画していた上洛、すなわち信長との決戦を断念してしまいました。
このまま毛利が織田との決戦を避ければ、宇喜多は捨て石として滅ぼされてしまうでしょう。
そんな不安から、宇喜多兄弟は毛利を見限り、織田への臣従を決意します。
これは秀吉が「備前・美作(岡山県北東部)を安堵する」と持ちかけたためですが、実は秀吉の独断であり、信長はしばしば立場を変える直家を信用していなかったそうです。
必死の説得で何とか信長に赦免されたものの、対毛利の最前線に立たされ、ジリジリと苦境に追い込まれていきました。
そんな中でも忠家は軍才を発揮し、天正8年(1580年)には小早川隆景(輝元の叔父)が率いる1万5千の大軍を撃退しています(辛川崩れ)。
しかし織田からの十分な支援が得られず、戦況が悪化していく中、直家は天正9年(1581年)11月〜天正10年(1582年)1月の間に病死したと考えられています。
忠家はわずか10歳の宇喜多秀家(直家嫡男)を後見し、難局を切り抜けていきます。
宇喜多秀家の後見人として
やがて本能寺の変で信長が横死を遂げると、宇喜多主従は織田政権の中で台頭した秀吉に仕えました。
天正12年(1584年)、忠家は秀吉の推挙によって出羽守となり、このころに出家したと見られています。
また天正14年(1586年)ごろに隠居して嫡男の知家(ともいえ)に家督を譲り、自身は秀吉の直臣に取り立てられました。
忠家は武勇のみならず連歌・茶の湯・文学などにも造詣を深め、充実した日々を過ごしていたようです。
大村由己・楠木正虎・九条兼孝・千利休らと交流していたといいます。
一方で武勇も忘れることなく、文禄元年(1592年)に火蓋が切られた文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、秀家の後見役として渡海しました。
また、碧蹄館(へきていかん)の合戦では難航する軍議に痺れを切らして席を立ち、自ら先駆けを務めるなど老いてなお盛んだったようです。
続く幸州山城の合戦では負傷したものの、書状の中で「こんなもん、痛くも痒くもないわい(意訳)」と嘯きました。
やがて秀吉が世を去ると、慶長4年(1599年)に宇喜多騒動が勃発します。
これは宇喜多秀家と、戸川達安・花房職秀・宇喜多知家ら古参家臣団が対立した内紛で、忠家は引責する形で大坂に隠居しました。
そして慶長14年(1609年)2月15日、77歳で激動の生涯に幕を下ろしたのです。
兄と会う時は鎖帷子が必須?
ここまで宇喜多忠家の生涯をたどってきました。
忠家はひたすら兄・直家の野心を支え、その亡き後は遺児の秀家を支え続けた、献身的なイメージを持ったかもしれません。
しかし忠家は直家をひたすら警戒しており、直家と会う時は必ず衣服の下に鎖帷子(くさりかたびら)を着込んでいたと言います。
数々の敵を暗殺してきた兄の毒牙に、いつ自分もかかるか分からない……そんな不安があったのでしょう。
ただし忠家がひたすら兄を恐れる小心者かと言えばそうでもなく、忠家は忠家でなかなかの無法者でした。
例えば直家に仕えた近習や家老たちをたびたび斬り殺したり、短慮の思い違いから叛旗を翻したりと言った無茶苦茶もしていたそうです。
つまり忠家の用心は、粛清されても文句が言えない?自身の振る舞いと、兄に対する猜疑心がなせることだったのかもしれませんね。
策謀家の兄に対して、文武両道ながら無茶苦茶な振る舞いの弟という凸凹コンビは、なかなか興味深い存在です。
この無法者?兄弟がいつか大河ドラマにならないものかと期待しているのですが、果たして実現するでしょうか。
参考:
・大西泰正『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』岩田書院、2010年5月
・大西泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家』角川新書、2019年9月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部