わずか二畳に千利休の美学が凝縮!現存最古の茶室遺構「待庵」とは
京都盆地の南西端、大阪府との県境に位置する大山崎。
天下取りをめぐって、織田信長を滅ぼした明智光秀と、中国大返しを行った羽柴秀吉が激突した山崎の合戦で名高い場所です。
その地に、茶聖と称される千利休がつくったと伝わる茶室「待庵(たいあん)」があります。
今回は、利休の茶室として唯一現存する貴重な茶室「待庵」を紹介しましょう。
国宝茶席三名席のひとつ「待庵」とは
日本には多くの茶室があります。
ただ、そのなかで国宝に指定されている茶室はたった三つしかありません。
密庵(大徳寺龍光院)、如庵(犬山城下有楽苑)、そして待庵(大山崎妙喜庵)で、国宝茶席三名席とも呼ばれています。
本稿で取り上げる待庵は、このなかでも千利休がつくったと伝わる貴重な茶室なのです。
待庵がある妙喜庵は、山号を豊興山と言い、妙喜禅庵とも称する臨済宗東福寺派の寺院です。
同寺は室町中期、明応のころ(1492年~1501年)、俳諧の祖とされる山崎宗鑑が隠棲するために、大山崎に建てたと伝わります。
その後、羽柴秀吉は山崎の合戦で明智光秀を討ったのち、この大山崎に山崎城を築き、しばらくの間この地を拠点としました。
その折に利休を招いて二畳台目の茶室を建てさせたのが、待庵であるとされています。
実は史学的には、この茶室が本当に利休によるものという確証はありません。
ただ、1606年(慶長11年)の「宝積寺絵図」から、古くからここに茶室があり、近くに利休の屋敷が書き込まれていること。
また、待庵には利休好みの意匠が特に優れていることから、利休作である可能性が高いと考えられているのです。
わずか二畳に凝縮された茶の湯の美学
ではここからは、待庵の構造について見ていきましょう。
重要文化財に指定されている書院の南側に接して、待庵が建ちます。
屋根は、切妻造り柿葺き(こけらぶき)。
草庵茶室らしい素朴な自然さを感じさせます。
高さ約2.6尺(約79㎝)、横幅約2.3尺(約70㎝)の躙口(にじりぐち)を入ると、正面に床の間、向かって左隅に炉が切られています。
茶室の出入り口である躙口は、時代が進むと高さ2尺2寸5分(68cm)、横幅2尺1寸(64cm)とさらに小さくなることから、はじめて躙口がつくられたことが推察され、ここからも待庵が現存最古の茶室遺構であることがうかがえるのです。
繰り返しになりますが、待庵はわずか二畳の広さ。
点前畳の脇に襖(ふすま)があり、一畳板入りの次の間、さらに一畳の勝手間が付きます。
床は天井、脇壁すべてを壁で塗り回した室床(むろとこ)、そして点前畳、躙口上と天井は三つに分けます。
その天井は、床前と点前座は平天井、そのほかは掛込天井にして、中央部に高い部分をつくることで圧迫感を解消し、とても二畳の空間とは思えない広さを実現しているのです。
また壁に設けられた下地窓(したじまど)と連子窓(れんじまど)を併用し、室内に効果的なほの暗さ、ほの明るさをつくり出します。
この明暗の分布による演出効果もまた、たった二畳の空間に見事なまでの緊張感をかもし出すのです。
ちなみに下地窓とは、壁下地を塗り込めずに開けておき窓としたものです。
待庵の下地には、淀川の葦(よし)を使っているそうです。
後世に利休の秘伝を伝える茶書とされた『南方録』には、「二畳の小座敷、草庵一向の住まいなるべし」とあります。
このことからも、待庵は利休が目指した茶室の究極の形であるとされるのです。
わずか二畳という極限まで削ぎ落とされた空間。
しかしその内部には、光と影、高低差、素材の質感など、利休が追い求めた茶の湯の美意識が見事に凝縮されています。
利休が本当に待庵を設計したのかは、今なお断定できません。
ですが待庵はまさに、千利休が追い求めた茶室美学を現代に伝える、かけがえのない遺構といえるでしょう。
※参考文献
神津朝夫著 『千利休の「わび」とはなにか』 (角川ソフィア文庫)
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部