第36回 美空ひばり、成城の通りで歌う! 〝成城ロケ映画〟の宝庫、新東宝作品はあなどれない
1932年、東宝の前身である P.C.L.(写真化学研究所)が
成城に撮影用の大ステージを建設し、東宝撮影所、砧撮影所などと呼ばれた。
以来、成城の地には映画監督や、スター俳優たちが居を構えるようになり、
昭和の成城の街はさしずめ日本のビバリーヒルズといった様相を呈していた。
街を歩けば、三船敏郎がゴムぞうりで散歩していたり、
自転車に乗った司葉子に遭遇するのも日常のスケッチだった。
成城に住んだキラ星のごとき映画人たちのとっておきのエピソード、
成城のあの場所、この場所で撮影された映画の数々をご紹介しながら
あの輝きにあふれた昭和の銀幕散歩へと出かけるとしましょう。
戦後(1946〜48年)に勃発した「東宝争議」の余波を受けて設立されたのが、新東宝という映画会社だ。当初は、ストで映画がつくれない東宝に代わって作品を供給する〈子会社〉として機能していたが、やがて東宝が自主製作を開始すると、新東宝は独自配給路線に転換。文芸作品から戦争もの、喜劇、音楽映画まで、バラエティに富んだ作品を劇場に送り続ける。56年に大蔵貢が「エログロ・怪談」路線に転換してからは、いかにも怪しげな映画を量産し、まさに玉石混交というに相応しい作品群を残した。
こうした新東宝作品をコンスタントに上映する映画館に、「シネマヴェーラ渋谷」という名画座がある。2023年秋に当館が特集上映を行った際、その一週目から〝成城ロケ映画〟が立て続けに六本見られるという椿事(?)が起きた。最終回となる今回は、これらの作品を特集させていただきたい。
連載第29回で「美空ひばりが単独で成城の街を歩く映画は、今のところ発見されていない」と書いた矢先に、早速この言を訂正せねばならない作品にぶつかる。
それは、‶喜劇の神様〟斎藤寅次郎による『続向う三軒両隣り 第三話 どんぐり歌合戦』(50年)という群像喜劇。元は1947年から六年に亘りNHKで放送された連続放送劇(ラジオドラマ)で、これが48年に新東宝で映画化され、本作はその三作目にあたる。柳家金語楼扮する人力車夫が暮らす町には失業者や新興成金など様々な人が住み、そこに戦災孤児や引揚者も加わり、戦後の貧しい時代を懸命に生きる姿が描かれる。
失業中の元エリート高等官(江川宇礼雄)の娘・孝子(美空ひばり)は家計が火の車であることから、小学生ながら父母に内緒で〈納豆売り〉の仕事を始める。商売に際して歌うのは「納豆売りの歌」。なんとひばりは成城のお屋敷街で商売を始めるのだから、驚き以外の何物でもない。
実際、成城と設定されているわけではないが、町なかに鉄塔がそびえていることと、道路脇に立つ掲示板に「ほしの理容室」の店名が見られることから、ここが成城であることは明らか。そしてその場所こそ、成城学園正門前の「いちょう並木」の先、『ニッポン無責任時代』でハナ肇の氏家社長邸となった旧中村邸や「ウルトラQ」で一の谷研究所となった旧龍野邸がある大通り。ここでは『お姐ちゃんはツイてるぜ』で中島そのみが車をぶっ飛ばすシーンや、大林宣彦監督の個人映画『ÉMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』などが撮影されている。「太陽にほえろ!」でも、成城でカーチェイスと言えば、この通りにとどめを刺す。
ちなみに、「星野理容室」の顧客の一人には三船敏郎がおり、監督の斎藤寅次郎は本作公開の二年後、1952年から成城に住む。
『どんぐり歌合戦』のタイトルのもととなった子供たちによる演芸大会の場でも、ひばりは「長崎シャンソン」など数曲を披露。彼女を見に来たものか、劇場に駆けつけた〈ひばりファン〉と思しきお姉さまたちが、終映後に大きな拍手を寄せていたのも、根強い〈ひばり人気〉を示している。
▲美空ひばりが「納豆売りの歌」を歌うのはこの辺り(筆者撮影)
新たに伴淳三郎が加わった、続く第四話『恋の三毛猫』でも驚きの成城の風景が見られる。
商店街で「純喫茶」を営む浦辺粂子の娘・春恵は映画スター。春恵は「南ヶ丘撮影所」で撮影があり、これを金語楼の娘(野上千鶴子)と孝子(ひばり)が見学に行くシーンは、新東宝作品にもかかわらず東宝撮影所でロケ(!)されている。
正門を入ってすぐのところにある噴水の周りでは、藤田進、山口淑子、高峰秀子、花井蘭子らが談笑、そのほとんどが東宝争議で大河内傅次郎に付いて東宝を去った「十人の旗の会」に属する俳優である。さらには、ステージ内でエノケン(榎本健一)と〝ブギの女王〟笠置シヅ子が撮影に臨むシーンもあって、サービス満点。ついNHKの朝ドラに思いが及ぶ。
孝子がスタッフから〝美空ひばり〟と間違えられるシーンは、のちに『歌え!青春 はりきり娘』(55年:ひばり似のバスガイドが東宝撮影所で本人と会う)で再現される。魚の骨がのどに刺さり医務室で休むひばりに代わって、監督(中村哲)が孝子に役を振るのも実に愉しく、ここで孝子は「啼くな小鳩よ」「三味線ブギウギ」など四曲を披露する。ひばりはこのとき十三歳。笠置シヅ子ばりにブギウギを歌う少女として注目されていた頃である。
さらに驚くべきは、新興成金の清川虹子の豪邸がP.C.L.(東宝の前身)創設者である植村泰二邸を使って撮影されていることだ。俳優やスタッフが集うサロン的な役割を果たしていた植村邸であるから、自社作品の撮影にも使用させていたのだろう。
▲(左)2006年撮影の噴水 写真提供:春山啓子氏 (右)東宝撮影所の北側にあった植村泰二邸 写真提供:中江和彦氏
1954年公開の『君ゆえに』は、『愛染かつら』の野村浩将監督によるメロドラマ。安西郷子と中山昭二(のちに「ウルトラセブン」でキリヤマ隊長を演じる)による〝すれ違いメロドラマ〟だが、安西の溌溂とした魅力もあって、カラッとした明るさのある佳篇となっている。
野村にとって、成城の駅前が見られる『結婚三銃士』、成城学園内でロケした『若き日のあやまち』に次ぐ〝成城ロケ映画〟となる本作では、デザイナーになろうと札幌から上京した安西が、タクシー会社を営む叔父(鳥羽陽之助)と自動車の運転を練習するシーンで、またもや成城の風景が登場する。安西が車を走らせるのはまさに『続向う三軒両隣り』でひばりが歌った通りで、いかに新東宝がロケ地として成城の街を重宝していたかが思い知らされる。
さらなる〝成城ロケ〟新東宝映画『男が血を見た時』(三輪彰監督)は60年4月の公開作。命運尽きた新東宝は翌61年8月に倒産するので、ほぼ最末期の作品にあたる。これは「東京ブラックジャガー」なるオートバイクラブ、いわゆる〝カミナリ族〟を描いた映画だが、主人公が「弱きを助け強きを挫く」善意のカミナリ族というのがなんとも新東宝らしくない。
成城の風景は、新入りのジョージ(松原緑郎)が、やはり新メンバーの京子(三ツ矢歌子)をバイクで自宅に送り届けるシーンで目に飛び込んでくる。ブルジョワ娘の京子であるから、その自宅は新東宝撮影所からも程近い住宅地・成城に設定されていて、見ればその豪邸は、かの龍野邸で撮影されている。
自宅に着く前、バイクは成城「桜並木」通りを疾走するが、これは『日本一のホラ吹き男』(64年)で、植木等が満開の桜の下、歌い歩くシーンが撮られた四年前のこととなる。
五所平之助、内田吐夢、石井輝男の助監督を務め、『スーパージャイアンツ 宇宙怪人出現』(58年)で監督デビューした三輪彰は、『胎動期 私たちは天使じゃない』(61年)や本作などで成城の風景をフィルムに刻印。新東宝在籍時は、撮影所傍の砧五丁目に住んだ。
新東宝には『狂熱の果て』(61年/監督:山際永三)という〝太陽族〟が主人公となる映画がある。会社倒産後、大宝映画として公開された本作では、成城大学の構内や旧中村邸など成城の風景がふんだんに見られるが、この度上映された太陽族もの『太陽と血と砂』(60年/小野田嘉幹監督)でも、同じく中村邸前の通りが重要な舞台となっている。
主人公の少年(松原緑郎)は、姉(池内淳子)を暴行し自殺に追い込んだ太陽族の大学生を探し回る。そして、‶新東宝定番ロケ地〟の中村邸前で姉の元婚約者と再会したことで、これが彼らの発見、すなわち復讐の実行へと繋がっていく。新東宝映画は、やはり犯罪や復讐といったテーマがお似合いである。
「少年ジェット」でブラックデビルとの対決が行われて以来、東宝の『ニッポン無責任時代』(ハナ肇の社長邸となる)や日活の『逢いたくて逢いたくて』(園まりがお手伝いさんを務める)で撮影現場となった中村邸。新東宝では他にも『地下帝国の死刑室』(60年/成城居住の並木鏡太郎監督)で某国スパイ組織の秘密基地となるなど、様々な使い方をされてきたのは、それなりに見栄えのする豪邸だったからに他ならない。
▲通りの右手に少年ジェットとブラックデビルが闘った中村邸があった(筆者撮影)
最後は、2024年に生誕100年を迎える高峰秀子の主演作『虹を抱く処女』(48年/監督:佐伯清)で締めくくろう。
1937年に松竹から引き抜かれて東宝に入社した高峰。まず会社からあてがわれたのは、成城の真新しい借家だった。自著によれば、この家は十坪ほどの庭付つきで、六畳二間と八畳。小さいながら風呂場と一坪ほどの台所があり、撮影所から歩いて十分。隣は成瀬巳喜男と千葉早智子夫妻が住んでいたという。
高峰は成城で何度か転居を繰り返すが、これらはすべて借家で、一軒だけは場所が判明している(市川崑監督が居候していたという家は不明)。そして、新東宝設立後の1946年、高峰は小田急線北側の売り家(成城町416=現成城五丁目の山本嘉次郎監督邸筋向かい。百坪ほどの庭がある)を購入する。ただ、今当地を訪れてもこの家を特定することはできない。成城も、こうした広大な敷地を持つ家は少なくなってきているからだ。
それはさておき、いわゆる〝難病もの〟メロドラマである本作は、製作者が成城に住んだ青柳信雄であることから、またしてもご近所が舞台となる。
病院で看護師をする高峰には、音楽家で結核患者の恋人・上原謙がいる。交響曲(シンフォニー)づくりに励むこの音楽家のモデルは、本作の音楽を手がけた早坂文雄だそうだが、早坂は成城の次に住んだ砧町で亡くなっている。
劇中、高峰は成城の西端に架かる「不動橋」を渡って、上原の家へと向かう。してみるとこの家は、国分寺崖線脇を流れる「野川」沿いにある小田急の車両基地(検車区)か、故大林宣彦監督が住んだ辺りにあったことになる。
かつて戦地で看病した患者から求愛され、二者択一を求められる高峰。最終的にタイトルどおり、空にかかる虹を見て上原を選ぶ決心をするのは、この高台から見た虹が特別な感情を呼んだからに違いない。
成城は、仙川(東側)と野川(西側)の二つの川にはさまれた〈台地〉上にあることで、住んでいるとあまり実感できないが、実は建物さえなければ、どこからでも富士山が眺められる〝高台のまち〟。100年前にこの環境の良い台地を学校用地(新宿牛込からの移転先)に選んだ成城小学校=成城学園は、まこと先見の明があったことになる。
▲この橋を少年ジェットや女賭博師、高峰秀子が渡った(筆者撮影)
三年に亘った連載をお読みいただいた皆さんには、改めてお礼を申し上げます。すべて読んでいただければ、あなたもきっと成城通になれるはず。成城は今さら言うまでもなく、〝学園都市〟にして〝映画のまち〟という日本では稀な街。本稿をガイドに、是非一度お訪ねいただければ幸いです。
高田 雅彦(たかだ まさひこ)
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝映画封切館の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。東宝撮影所が近いという理由で選んだ成城大卒業後は、成城学園に勤務。ライフワークとして、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動、クレージー・ソングの再現に注力するバンドマンでもある。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)、近著として『今だから! 植木等』(同2022年1月刊)がある。