『原爆ドーム』の意外な戦前史 〜広島の新名所を設計したチェコ人建築家ヤン・レツルとは
毎年8月が来るたびに、広島・原爆ドームの映像がテレビから流れてきます。
崩れたレンガの壁と、むき出しになった丸い鉄骨。私たちはその姿を、原爆の惨禍を伝える記念碑として長らく見つめてきました。
しかし「原爆ドーム」と呼ばれる以前、この建物には県内各地の名産品が並び、イベントのたびに多くの人でにぎわっていたのです。
原爆ドームの前身「広島県物産陳列館」
1915年4月5日、元安川のほとりに「広島県物産陳列館」と呼ばれる建物が完成しました。県内で製造された名産品を集めて紹介し、全国に販路を広げるための施設です。
建物は3階建てで、正面中央の階段室だけが5階まで伸び、その上には楕円形のドームが載っていました。
木造家屋が並ぶ川沿いでは一際目を引き、やがて広島の新名所となります。
「広島県物産陳列館」を設計したのは、ヤン・レツルというチェコ出身の建築家でした。
1880年、当時のオーストリア・ハンガリー帝国領ボヘミアのナーホトという町に生まれたヤン・レツルは、プラハの美術専門学校で、チェコ近代建築の重鎮、ヤン・コチェラに学びました。
1907年に来日し、横浜の建築事務所で働いたのち、自らも東京に設計事務所を構えます。
やがてレツルは、広島県から新しい物産陳列館の設計を公式に任されます。
完成した「広島県物産陳列館」は県内の名産品を紹介するだけでなく、さまざまなイベントの会場にもなりました。
1919年3月、広島県物産陳列館では、似島に収容されていたドイツ人捕虜による技術や工芸品などを紹介する展覧会が開かれました。
彼らは第一次世界大戦中、中国・青島で日本軍の捕虜となった人々でした。
その一人に、菓子職人のカール・ユーハイムという人物がいました。
彼はここで、木の年輪のような断面をもつドイツ菓子「バウムクーヘン」を焼き上げ、販売しました。
これが日本におけるバウムクーヘンの始まりとされています。
やがてユーハイムは、日本で自らの菓子店を開き、その店は現在の洋菓子会社「ユーハイム」につながっています。
8時15分、焼け野原に残ったドーム
このあと建物は「広島県立商品陳列所」と改称され、1933年には「広島県産業奨励館」となります。
戦争が激しくなると展示施設としての役割を終え、館内には、官公庁や統制会社の事務所が置かれました。
1945年8月6日午前8時15分、原子爆弾が広島県産業奨励館から南東約160メートル、高度約600メートルの上空で炸裂します。このとき館内にいた人々は全員亡くなってしまいました。
一方、建物は、爆風をほぼ真上から受けたために全壊を免れ、壁の一部とドームの鉄骨が残りました。
頂上に残ったドーム状の鉄骨から、いつしか市民の間で「原爆ドーム」と呼ばれるようになったのです。
戦後、この建物を残すかどうかをめぐり、広島県内では意見が分かれます。
被爆の惨状を後世に伝えるために保存すべきだという声がある一方、取り壊しを求める声も少なくありませんでした。
風雨にさらされた建物は倒壊の危険があり、また被爆者にとっては「あの日」の記憶を呼び起こす存在でもあったのです。
保存か撤去かをめぐる議論は、戦後20年以上にわたって続きました。
一人の少女が遺した日記
流れを変えたのは、一人の少女が遺した日記でした。
楮山ヒロ子さんは1歳のとき、爆心地から約1.3kmの自宅で被爆しました。そのあと急性白血病のため、1960年に16歳で亡くなります。
彼女の遺された日記には、あの痛々しい姿を残す建物(広島県産業奨励館)だけが、原爆の恐ろしさを後世に伝え続けてくれるのではないか、という趣旨の言葉が綴られていました。
この言葉に心を動かされたのが、「広島折鶴の会」の世話役だった被爆者・河本一郎さんと、中高生たちでした。
1960年、保存を求める署名や募金活動を始め、その後も原爆ドームの永久保存を求める声は各方面へと広がっていきました。
1966年7月11日、広島市議会は原爆ドームの保存を決議します。翌年(1967年)、国内外から寄せられた募金をもとに、最初の保存工事が行われました。
1996年にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。さらに2025年9月18日には、明治時代以降の遺跡として全国で初めて、国の「特別史跡」に指定されています。
壊れた姿を保ちながら崩壊を防ぐため、現在もおおむね3年ごとに状態の調査が行われ、必要に応じて保存工事が続けられています。
しかし設計者のレツルが、世界遺産となった建物の姿を見ることはありませんでした。
1923年、日本滞在中に関東大震災を経験したレツルは、自らが設計に携わった建物を含め、東京の街が大きな被害を受けるのを目の当たりにします。同年11月、彼は日本を離れてプラハへ帰国しました。
レツルは帰国後も活動を続けましたが、晩年には心身の健康を崩して入院し、療養生活を送った末、1925年12月、45歳で亡くなりました。
原爆が投下される、およそ20年前のことでした。
参考 :
頴原澄子『原爆ドーム――物産陳列館から広島平和記念碑へ』吉川弘文館、2016年
巣山ひろみ『バウムクーヘンとヒロシマ――ドイツ人捕虜ユーハイムの物語』くもん出版、2020年
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部