九州随一の〝秋祭り〟筥崎宮『放生会』、1100年余り続く神事に100万人が訪れる
毎年9月12~18日の1週間、福岡・博多の街に秋の訪れを告げる、筥崎宮『放生会』が開催されます。春の博多どんたく、夏の博多祇園山笠に続く、秋の筥崎宮放生会は、博多三大祭りと呼ばれています。宇佐神宮、石清水八幡宮と共に日本三大八幡宮に数えられる筥崎宮の縁起から沿革、魅力を取り上げていきます。
参拝者100万人の放生会は春のどんたく、夏の山笠と並ぶ博多三大祭り
画像提供:福岡市
九州随一の秋祭りであり、福岡・博多のまちに秋の訪れを告げる風物詩が、筥崎宮の仲秋大祭である『放生会』だ。
毎年9月12~18日の1週間、筥崎宮の参道一帯に約500軒もの露店が軒を連ね、延べ100万人もの人々が訪れる。
「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する」という秋祭りでもある筥崎宮『放生会』は、春の『博多どんたく港まつり』、夏の『博多祇園山笠』と共に博多三大祭りの一つに数えられている。
博多どんたく、博多祇園山笠、筥崎宮『放生会』のうち最古のお祭りは
博多どんたくは古来、博多に伝わる『博多松囃子』を起源とする。
福岡藩の儒学者だった貝原益軒著『筑前国続風土記 』(巻之四 博多)によると、「博多において正月十五日に松囃子という事を取行ふ。(略)重盛の歿後に及て、重盛公の恩恵を謝せん為に、正月に松囃という事をはしめける」と記す。
つまり、平重盛が没した1179年9月29日(治承3年閏7月29日)以降に始まったことになる。
一方、博多祇園山笠の起源について諸説があるものの、博多祇園山笠振興会では、一般的に広く知られている聖一国師が1241年(仁治2)に疫病除去のため、施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたことを始まりとする説を採用している。
筥崎宮『放生会』は、「合戦の間多く殺生すよろしく放生会を修すべし」という御神託を起源として1100年余り続き、博多三大祭りの中でも最古のお祭りだ。
なお、放生会の読み方について、一般的には「ほうじょうえ」と呼んでいる。
ただし、筥崎宮をはじめとする福岡地方では、寺院における放生会(ほうじょうえ)の行事と分ける意味合いもあって、「ほうじょうや」と称している。
殺生戒思想に由来する放生会と武神を祭る八幡神との不思議さ
画像提供:福岡市
放生会は本来、殺生禁断の思想に基づいて捕獲した魚や鳥獣を野に放して、殺生を戒めるという宗教儀式だ。
放生会自体はインドに起源をもつ行事であり、その後中国を経て、日本にも伝わって来たとされる。
日本において放生会が始まったのは、677年(天武天皇5)8月17日のことだった。
日本書紀には、天武天皇が諸国へ詔を下して放生を行わせたことを記している。
八幡宮のお祭りとしての放生会は720年(養老4)、大隅・日向で起きた隼人による反乱に起因する。
3年掛かりで鎮圧し、反乱を起こした隼人は誅滅された。
その後の724年(神亀元)に「隼人の霊を慰めるため放生会をすべし」との託宣があった。
そして、744年(天平16)、宇佐神宮の東北部にある和間の浜において、巻貝をはじめとする貝類を海に放つ祭典を執り行われたことが、放生会の始まりとされる。
以後、放生会は、宇佐神宮をはじめとする全国の八幡宮(八幡神社)と共に全国の寺院でも催されている。
放生会を執り行う八幡宮とは一体、どんな神社なのか
八幡宮とは、八幡神をご祭神とする神社のことである。
八幡神とは、第15代天皇の応神天皇を神格化した神さまだ。
応神天皇は、武神として崇敬を集めており、別名を誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれており、一般的には「八幡さま」として親しまれている。
八幡宮の総本社は宇佐神宮であり、全国に約4万4000社の八幡宮があるとされている。
宇佐神宮、石清水八幡宮、筥崎宮の日本三大八幡宮と放生会
画像提供:筥崎宮
八幡宮の総本社である宇佐神宮に加えて、京都府八幡市にある石清水八幡宮、筥崎宮は、日本三大八幡宮と呼ばれており、それぞれに放生会を執り行う。
日本における放生会の起源とされる宇佐神宮の放生会は古来、旧暦8月15日だった。
現在は、10月第2月曜日の祝日であるスポーツの日を含む土日月の3日間で催される。
なお、明治期に入って仲秋祭と改称したものの、人々からは放生会と呼ばれ続けている。
石清水八幡宮では、863年(貞観5)に石清水放生会が始まり、男山の裾を流れる放生川の川辺で生ける魚や鳥を放って、平安と幸福を願う祭儀として始まった。
その後、948年(天暦2年)に勅祭となった石清水八幡宮の放生会も古来、旧暦8月15日の祭礼として行なわれてきた。
今日では、例年9月15日に催される勅祭石清水祭の中の儀式として、放生会が執り行われている。
一方、筥崎宮の放生会については、現在地に遷座される以前の919年(延喜19)、『建仁寺塔中如是院年代記』に「筥崎放生会始まる」という記録が残っている。
1868年(明治元)4月24日、明治政府は、神仏分離の名目で仏教的神号である八幡大菩薩を禁止した。
さらに旧暦8月15日に執り行われていた放生会は太陽暦採用後、9月15日を祭日と定められた上に名称も仲秋祭とされた。
このため、宇佐神宮、石清水八幡宮、筥崎宮は、相次いで放生会を仲秋祭に改称したという経緯もある。
「なぜ、筥崎宮『放生会』は、1100年余りも続いているのか?」
この問いに対して、筥崎宮の権禰宜である飯田元矩さんは、次のような見解を示す。
飯田元矩権禰宜
先般のコロナ禍において放生会の期間中、参道への露店出店を見合わせたのは、終戦となった昭和20年以来の出来事でした。
その一方、神事としての放生会は、若干規模を縮小しながらも、途絶えることなく続けてまいりました。
神事を通じて、神様に感謝しながら、ご奉仕することは、いかなる場合においても当たり前のこととなっています。
氏子総代をはじめ、地域のみなさま方のお気持ちも汲み取りながら、日々お勤めをしていくという連綿とした積み重ねが、1100年余りという歳月になっているのではないでしょうか。
筥崎宮で権禰宜を務める飯田元矩さん
日本三大八幡宮であり、創建1100年余りの筥崎宮はどのような神社か
筥崎宮は、筥崎八幡宮とも称されており、宇佐神宮、石清水八幡宮と共に日本三大八幡宮と呼ばれている。
筥崎宮は、延喜式の神名帳に記載されている式内社(名神大社)だ。
そして、住吉神社(福岡市博多区住吉)と共に筑前国一宮とされてきた。
明治維新後の新政府によって採用された近代社格制度で1871年(明治4)、筥崎宮は県社に列格した。
その後、1885年(明治18)に官幣中社、1914年(大正3)に官幣大社へ昇格した。
現在、筥崎宮は神社本庁の別表神社となっている。
筥崎宮の御祭神は、応神天皇【八幡大神】、神功皇后【応神天皇の母君】、玉依姫命【海の神・神武天皇の母君】の三柱となっている。
筥崎宮の創建については諸説あるものの、『筥崎宮縁起』(石清水八幡宮記録)によると、平安中期の921年(延喜21)6月21日に八幡神から現在地への遷座の託宣があり、醍醐天皇が直筆の「敵国降伏」を下賜されたという。
そして、大宰少弐だった藤原真材朝臣が、現在地に神殿を造営した。
その後、923年(延長元)に穂波郡(現福岡県飯塚市)の筑前大分宮(大分八幡宮)から現在地へ遷座したとのことだ。
927年(延長5)に完成した、律令制の細目を定めた『延喜式』の官社一覧表である『延喜式神名帳』では、筥崎宮は「八幡大菩薩筥崎宮一座」として記載されている。
そして、筥崎宮は、式内社の中でも名神大社に列していた。
その後995年(長徳元)、大宰大弐を務めていた藤原有国が、回廊を造営したと伝えられている。
地名・駅名の箱崎の「箱」と異なる、筥崎宮の「筥」とは一体何か
筥崎宮にある楼門の右側、朱色の玉垣で囲まれている松の木が、神木『筥松』だ。
かつて神功皇后が、筑紫国蚊田の里(現福岡県宇美町)において、応神天皇(第15代天皇)を出産された際、臍帯を含む胎盤である胞衣(えな)を「はこ」に入れて、当地に納めたという。
その印として植えられた松の木が、神木『筥松』とされている。
「筥崎(箱崎)」という名称は、この胞衣を納めた「はこ」に因んでいる。
その「はこ」は、円筒状の容器である「筥」だった。
このため、全般的な四角い「箱」でなく、筥崎宮は「筥」だったのだ。
なお、地名や駅名などの表記については、筥崎宮の「筥崎」では畏れ多いとして、「箱崎」と表記するようになったといわれている。
足利尊氏や豊臣秀吉らも参拝した筥崎宮の神宝は天皇直筆の「敵国降伏」
神社の本殿内陣に納められている、祭神に由緒の深い宝物や調度品、装束類などを神宝と呼ぶ。
筥崎宮では、天皇直筆による「敵国降伏」の御宸筆を第一の神宝だ。
筥崎宮の社記では、遷座時に下賜された醍醐天皇の御宸筆が伝えられ、以後の天皇も納めたという記録があり、「敵国降伏」の御宸筆は全部で37枚あるとのことだ。
これらの御宸筆は、縦・横約18センチの紺紙に金泥で記されている。
「敵国降伏」の御宸筆の中で最も有名なのは、1274年(文永11)の蒙古襲来で炎上・焼失した社殿の再興に際し、亀山上皇が納められた事跡だ。
亀山上皇の御宸筆は、後に筑前領主になった小早川隆景が楼門を造営した文禄年間、謹写拡大した扁額を制作して、現在も楼門に掲げられている。
楼門とは、寺社の入り口に建っている、2階建てで上部に屋根のある門を指す。
伏敵門と呼ばれることもある筥崎宮の楼門は、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、阿蘇神社(熊本県阿蘇市)の楼門と共に日本三大楼門の一つに数えられている。
築500年近い本殿と拝殿。黒田長政寄進の一之鳥居は佐賀の石工が作った!?
筥崎宮の『一之鳥居』(画像提供:福岡市)
現存する本殿と拝殿は1546年(天文15)、大宰大弐を名乗った大内義隆が建立したものだ。
総建坪46坪もある本殿は、九間社流造であり、漆塗となっており、屋根は檜皮葺である一方、拝殿は切妻造の檜皮葺となっている。
また、筥崎宮の『一之鳥居』は、国の重要文化財であり、1609年(慶長14)に黒田長政が寄進したとされている。
なお、一之鳥居について、佐世保市文化財審査委員会の久村貞男委員長は、自書『肥前の鳥居~肥前鳥居等の発生と展開』において、佐賀藩の初代藩主鍋島勝茂が福岡藩主の黒田長政への関ケ原の戦いでの恩返しとして石工を筥崎宮に派遣して建てたという説を唱えている。
一之鳥居の使用石材は伊万里湾北に位置する黒島産の安山岩製だ。
そして、横に渡した笠島木は三段で先端が反り返っており、「肥前鳥居に分類できる」とのことである。
かつて有名武将らが先勝祈願で参拝。今日プロ球団の必勝祈願が新たな風物詩
筥崎宮には、足利尊氏や大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉ら名だたる武将らが参詣した記録が残る。
また、豊臣秀吉と共に当地を訪れた千利休は1587年(天正15)、『観応元年』(1350)の銘を刻む石燈篭を筥崎宮に寄進している。
〝勝運の神〟である筥崎宮は今日、プロ野球の福岡ソフトバンクホークスをはじめ、Jリーグのアビスパ福岡、Bリーグのライジング福岡などが毎年、必勝祈願で参拝することで知られて、新たな福岡・博多の風物詩となっている。
1100年余り福博のまちと共に歩んできた筥崎宮の来歴からまちづくりを考える
画像提供:筥崎宮
日本三大八幡宮の一社である筥崎宮は、筑前国一宮でもあり、創建以来1100年余りにもわたって、福岡・博多の人々から崇拝を集めてきた。
その福岡・博多のまちは、2000年余りの歴史を持ち、世界最古の港湾都市の一つという見方もできる。
そして、海を介して世界とつながることで時として外寇も経験し、備えてきた福博のまちにおいて、八幡大神を御祭神とする筥崎宮の存在は大きかったのではないだろうか。
いま、なお海に面しながら、悠久の時の流れに鎮座し続ける筥崎宮のたたずまいに触れるにつれ、福岡のまちづくりも超長期的な時間軸に基づき、いま一度見つめ直していくことも必要ではないかということも感じる。
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参照サイト
筥崎宮Webサイト
https://www.hakozakigu.or.jp/
八幡総本宮 宇佐神宮 Webサイト
http://www.usajinguu.com/
石清水八幡宮Webサイト
https://iwashimizu.or.jp/
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