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大ヒット映画『ニュー・シネマ・パラダイス』を紹介した映画館〈シネスイッチ銀座〉

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大ヒット映画『ニュー・シネマ・パラダイス』を紹介した映画館〈シネスイッチ銀座〉

連載 第5回【私を映画に連れてって!】


~テレビマンの映画武者修行40年


文・写真&画像提供:河井真也

1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。

▲1987年12月19日、イギリス映画『あなたがいたら/少女リンダ』の上映で開館した<シネスイッチ銀座>。全国ロードショウ枠に入らないが良質な作品を中心にプログラムを組み映画ファンや映画マニアを喜ばせていた81年開館の新宿の<シネマスクエアとうきゅう>や、娯楽映画として楽しめるアート系の映画を上映し幅広い年齢層に支持されていた85年開館の<シネセゾン渋谷>と共に、ミニシアターブームの一翼を担った。特に88年の『モーリス』や、89年の『ニュー・シネマ・パラダイス』は、そのブームに大きく貢献している。レディース・デー割引を始めた映画館としても知られている。写真はシネスイッチでの筆者。筆者はシネスイッチの立ち上げから、95年の岩井俊二監督の劇場長編映画第1作『Love Letter』まで、数々の作品に関わった。ミニシアターの小ぶりのパンフレットはとてもセンスが良かった。シネスイッチのパンフレットの表紙は、全作品ペーター佐藤氏のイラストだった。

 映画館<シネスイッチ銀座>(1987/12月スタート)の発想は意外なところからスタートした。元々、ATG (日本アート・シアター・ギルドは1961年から80年代にかけて、非商業主義的な芸術作品を製作・配給し、日本映画史に多大な影響を与えた)や日活ロマンポルノを学生時代に多く観ていたせいで、もしかすると『南極物語』(1983)や『私をスキーに連れてって』(1987)は、自分テイストではないのではと思うことがあった。
 メジャーなら『太陽を盗んだ男』(1979)のような映画をやりたかったがハードルは高い。『青春の殺人者』(1976)や『サード』(1978)、『天使のはらわた 赤い教室』(1979)サイズならローバジェットで製作出来るのでは……。

▲1971年4月2日から2003年9月27日までフジテレビ系列で放送されていた映画放送枠番組「ゴールデン洋画劇場」。タイトルからして基本的に洋画が放送されていたが、邦画を放送するときには「特別企画」と謳われていた。2001年10月からは、タイトルが「ゴールデンシアター」に変更されている。第1回の放送はジョン・ウェイン主演の『エルダー兄弟』だった。すべて日本語吹替放送で、俳優や歌手、タレントたちも吹替を担当していた。野際陽子が『エイリアン』のシガニー・ウィーバー、柴田恭兵が『マッド・マックス2』のメル・ギブソン、近藤真彦が『フットルース』のケビン・ベーコン、小松政夫が『トッツィー』のダスティン・ホフマン、織田裕二が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマイケル・J・フォックス、根津甚八が『アンタッチャブル』のケビン・コスナー、中尾ミエが『殺したい女』のベット・ミドラー、いかりや長介が『ポパイ』のロビン・ウィリアムズ、妻夫木聡と竹内結子の映画『春の雪』コンビは『タイタニック』のレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットという具合だ。ただ、一度だけ、筆者が担当で、会社を口説き字幕で放送したことがあった。『フラッシュダンス』(1983)である。音楽映画で、納得できる吹替版が作れる気がしなかったのだ。特に歌を日本語吹替にすることにどうしても抵抗があった。総反対を受けた筆者は「もし視聴率が獲れなければ……」との啖呵を切る。大方の予想に反して22%の視聴率を獲得した。ただ、後が続かず、1回だけの字幕放送に終わった。写真のチラシは、『波の数だけ抱きしめて』の中山美穂と、「ゴールデン洋画劇場」で89年8月12日に放送された『スタンド・バイ・ミー』。

▲1987年にスタートしたフジテレビ系列の深夜の映画放送枠「ミッドナイト・アート・シアター」。放送開始から数年は、当時ブームでもあった〝ミニシアター系〟の作品を専門に放送していた。映画本編はノーカットで、途中でCMも入らない放送形態だった。当初は、映画本編の前後に、映画評論家や、映画に思い入れのある人たちによる解説がついていた。現在も同名の番組があるが、放送スタイルは全く違う形になっている。

 一方で、テレビ局の社員として「ゴールデン洋画劇場」では放映出来ない、僕が好きな地味目の映画を放送する方法はないか……を模索した。「ゴールデン洋画劇場」もパンフレットを制作していたが、深夜での放送で、ノーカットで、解説も付けながら映画枠を誕生させられないか……。映画好きの羽佐間重彰社長(当時の社長/大映出身)の英断で、本編放送内のCM無しの画期的な映画枠「ミッドナイト・アート・シアター」が、1987年4月にスタートした。
 自分好みの『蜘蛛女のキス』(1985)や『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984)など、定期的にアートなパンフレットも制作して放送した。今、振り返るとCMスポンサーが無いのに、誰のためのパンフレット? と考えてしまうが……。色んな方に解説(講評)してもらうミニ番組などをつけたが、俳優の洞口依子さんの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は今でも記憶に残っている。地上波民放でCM無しなど、今ならあり得ないだろう。ただ、このことが<シネスイッチ>への布石となったと思う。

 当時、新宿に単館映画館<シネマスクエアとうきゅう>(1981~2014)があり、六本木に<シネヴィヴァン>(1983~1999)等と、映画館自体が文化のかおりを発していて、上映される作品のチョイスは憧れでもあった。特に<シネマスクエアとうきゅう>の椅子は座り心地も良かった。
 それまでメジャー展開の映画ばかりやって来て、小さくとも佳作と呼べる映画が創れたらと考えていた。最初は<シネセゾン渋谷>(1985~2011)と何か一緒に出来ないか話し合った。それから(当時の)全興連の会長と、<武蔵野館>と<新宿ロマン劇場>のリニューアルの話もあった。「予告編コンクール」というイベントを一緒にやっていた関係で、フジテレビで4時間半の「年間の劇場予告編すべて」を年末にCM無しで一挙放送等をやったこともある。そして、もう1つが籏興行の<銀座文化>(昭和30年代~)だった。
 その時は〝単館映画館〟をやりたいというより、渋谷・新宿・銀座を拠点にATG 的なことをやりたかったのだったと思う。僕が書いた企画書には「ATGのように年間12本の映画を月替わりで製作する……」とある。
 諸般の事情で、渋谷と新宿の話は流れてしまった。銀座文化は2スクリーンで1つは『ローマの休日』などの名画をやっていた。もう1つは松竹系で『寅さん』なども上映していた。ところが有楽町マリオンが完成し、松竹邦画系の劇場が同じ銀座地区に出来てしまった。これで、ますます興行は厳しくなっていた。

 そこで、提案したのが邦画と洋画を交互に上映するシステム。〝邦洋スイッチしながら〟という感じで地下の1館を<シネスイッチ銀座>と命名した。<銀座文化>の名を残す手もあったが、籏興行社長からも新しいネーミングで行こう! と。現在は2スクリーンで<シネスイッチ銀座1&2>となっている。
 邦画洋画、どちらもワンチームで製作や買い付けを行い、同じチームで配給、宣伝を行う。当時、ヘラルド・エースの原正人社長らには色々アドバイスをもらいながら、フジテレビ幹部との調整までもやっていただいた。配給はすべてヘラルド・エースにお願いした。

 当初の邦画12本の目論見は上司の一言「だいたいお前1人で12本作るのは無理だろう、出来上がっている洋画の新作を入れろ! うちのメインは大作とホイチョイみたいなメジャーだろ!」。御尤もで、このアドバイスが無ければシネスイッチは1年位で終了していたかも知れない。
〝単館〟になったことで、それまでとは異なる、よりエッジの効いた企画がたくさん持ち込まれた。自分でも『泥の河』(1981)の小栗康平監督に企画(原作)を持って行ったが、その時は監督が『死の棘』(1990)の実現が第一で、かなわなかった。
 シネスイッチの最初の構想段階で、知り合いでもあった長崎俊一監督から『誘惑者』(1989)のシナリオの映画化の相談があった。ロバート・レッドフォードが主宰するサンダンス映画祭に日本人監督として初めて招かれ、そこでシナリオ制作も行なわれたとても面白い脚本だった。当時のフジテレビでは、実現化は極めて難しかったが、是非、何とかしたかった。

▲シネスイッチ12本目の上映作品となった、1989年公開の長崎俊一監督、秋吉久美子、草刈正雄共演の『誘惑者』。二重人格がテーマのラブ・サスペンス物語、あるいは、サイコ・スリラー物語と言ったほうがいいかもしれない。長崎監督が、日本人初のロバート・レッドフォード主宰のサンダンス・インスティテュートでの経験を経て完成させた映画で、パンフレットには、「この脚本は、ロバート・レッドフォードと、彼の主宰するサンダンス・インスティテュートの協力と助言によって完成されたものです。とりわけ、直接、指導にあたってくれたシドニー・ポラック、ジョージ・ロイ・ヒル、フランク・ピァソン、ウォルド・ソルトに感謝します」との監督の謝辞が紹介されている。秋吉、草刈共に魅力的で、今一度観たい映画である。第3回東京国際映画祭ヤングシネマ部門で、さくらシルバー賞を受賞した。

 一方で『コミック雑誌なんかいらない!』(1986)で、おニャン子クラブの撮影のサポートをしたことで、滝田洋二郎監督と出会った。『痴漢電車シリーズ』(1982~1985)も観ていたので、いつかコメディ映画を御一緒したいと思っていた。制作会社メリエスから、コメディ企画・滝田洋二郎監督・一色伸幸脚本の『木村家の人びと』の話が持ち込まれた。『私をスキーに連れてって』等、ホイチョイ三部作のシナリオはすべて一色氏が書いてくれたが、『木村家の人びと』(1988)は、より本領発揮出来ること間違いなしと感じた。社会性もあり、シニカルな笑いもうってつけだ。
 それでも『誘惑者』も何とかしたい。ここで成立しなければ、映画化出来ないだろうとも。

『私をスキーに連れてって』(1987)の公開から1ヶ月後の12月に<シネスイッチ銀座>はスタートすることが決まった。時間がない中で森田芳光監督や岡部まりさん、いとうせいこう氏、林海象監督、永千絵さんらが応援団として参加してくれ、パンフレットへの寄稿や、自らの関係するメディアで盛り上げ隊として協力してもらった。
 日本映画からスタートしたい気持ちもあったが、到底間に合わなかった。最初の邦画となる『木村家の人びと』が1988年の年明け早々のクランクインだった。
 シネスイッチでの上映第1作『あなたがいたら/少女リンダ』(1987/12/19公開)と命名したイギリス映画は、興行的には芳しくなかった。最低でも6週以上の興行を予定していたが……。とても良作だが地味過ぎたのか。この洋画がヒットしてくれれば、次は『木村家の人びと』が登場し、交互に〝邦洋〟といきたいところだが、最初が躓いたので2弾目も洋画となった。この作品の上映には賛否あったが、スタートすると『モーリス』(1988/1/30公開)はスマッシュヒット。この作品のお陰で5月公開の『木村家の人びと』まで上映は続いた。

▲1987年12月、<シネスイッチ銀座>のオープニングを飾ったイギリス映画『あなたがいたら/少女リンダ』。イギリスの小さな港町を舞台に、愛する母を亡くし、愛情に飢えていた反抗的な16歳の少女リンダが、家族との不和、性的体験などを通して、自分の生きる道を見つけていく様子を瑞々しく綴った青春映画で、87年度カンヌ映画祭国際映画批評家連盟賞を受賞した。

<シネスイッチ銀座>のシステムが成立したのは、ビデオ(主にレンタル)のお陰である。
 例えば『木村家の人びと』が製作費1億円とする。単館で8000万円以上の興行収入があり、ヒットした。全国では1億円以上の興収になるが、劇場、宣伝費、配給手数料を引くと、手残り(製作者収入)は2000万円前後になる。これでは制作費は回収出来ない。そこで2次使用の最大の収入であるビデオ発売となる。当時、定価は16000円前後なので、手残りが1本5000円とすると2万本売れると1億円が製作者側の収入になった。『木村家の人びと』はこの数字よりも少し良かったかもしれない。

▲1988年公開のシネスイッチ上映3本目にして初めての日本映画上映となる滝田洋二郎監督『木村家の人びと』。バブル期の日本を舞台に、異常に金銭に執着する一家をブラック・ユーモアたっぷりに描いたコメディ映画。一家の夫婦を鹿賀丈史と桃井かおり、子供たちを子役の岩崎ひろみと伊崎充則(現・伊嵜充則)が演じた。一家の中では一番の常識人である息子を演じた、後に黒澤明監督『八月の狂詩曲』でも注目された伊崎の視線が、大きなエッセンスである。柄本明、木内みどり、小西博之、清水ミチコ、風見章子らも出演。桃井は、『噛む女』『TOMORROW 明日』と併せて、ブルーリボン賞とキネマ旬報の主演女優賞を受賞している。

 ビデオ収入に片寄ったシステムだが、ほぼ全てのビデオ発売をポニーキャニオンにして、<シネスイッチ>レーベル化した。
 また、これはフジテレビがほぼ全て出資して映画を製作したので、『木村家の人びと』は最初からゴールデンタイムでの放送を意識して作った。 結果、20%前後の視聴率を取って、滝田洋二郎監督の自宅には花が届けられた。 しかも毎日映画コンクール等で受賞したり、桃井かおりさんがブルーリボン賞主演女優賞をもらったり、モントリオール映画祭にも招待された。香港等でもヒットするおまけも付いて上々の滑り出しとなった。この映画のお陰で、それからの邦画が作りやすくなった。
 このパフォーマンスにより、念願の『誘惑者』も漸く進み、東京国際映画祭では準グランプリを獲得。世界数十ヵ国で上映され、長崎俊一監督との約束も果たせた。もちろん、それからの邦画製作に当たっては、ゴールデンタイムでの放送を視野に入れることはなかった。
 その後、鴻上尚吏監督のデビュー作『ジュリエットゲーム』(1989)から、『きらきらひかる』(松岡錠司監督/1992)、岩井俊二監督の長編デビューの『Love Letter』(1995)まで、7本の映画のプロデュース、 公開を行った。そして、僕はシネスイッチを離れた。

 特筆なのは、1989年に上映した『ニュー・シネマ・パラダイス』が予想外の大ヒットとなり、40週間のロングラン、単館で3億6900万円の興収になり、今でも単館記録として破られていない。1週目の興収からどんどん観客が増え、最終週の興収が最も良いという珍しい結果になった。今でも最終日に劇場に入れない人で一杯だったことは忘れられない。これで【シネスイッチ銀座=ニュー・シネマ・パラダイス】の印象が強くなった。2500万円前後で日本のオールライツを購入したと記憶しているが、この金額は邦画製作費と比べると安いのである。しかもビデオも売れた。宣伝で来日してもらったジュゼッペ・トルナトーレ監督から「ディレクターズカット版」を是非、公開してほしいとの事で2度の美味しい興行になった。

▲シネスイッチと言えばこの映画と言われるほど、<シネスイッチ銀座>の名を一躍有名にした映画ジュゼッペ・トルナーレ監督『ニュー・シネマ・パラダイス』。1989年、シネスイッチ13本目の上映作品である。哀愁ただよう音楽はエンニオ・モリコーネ。出演は、フィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン、そして主人公の少年期を演じたサルヴァトーレ・カシオ。少年のあどけない表情が映画を観る者を幸せに包んでくれた。300席前後程度のシネスイッチで、動員数約27万人、売上3億6900万円という興行成績を収め、この記録は、単一映画館における興行成績としては、いまだ破られていない。カンヌ国際映画祭審査員グランプリ、アカデミー賞外国語映画賞を受賞したこの作品は、映画へのあふれる愛情が描かれており、ラストに世界中の人々を熱狂させた名作映画がフラッシュで登場する演出は、観客の胸を熱くさせる。『駅馬車』『風と共に去りぬ』『掠奪された七人の花嫁』『にがい米』『嘆きの天使』『街の灯』『白雪姫』『カサブランカ』『ベリッシマ』『夏の嵐』『黄金狂時代』『ローマの休日』『グランドホテル』『美女と野獣』などなど。渥美清の死後作られた山田洋次監督『男はつらいよ お帰り 寅さん』のラストシーンを観たとき、山田監督もきっと『ニュー・シネマ・パラダイス』が好きに違いないと勝手に推測した。

 僕がアメリカで買ってきた『モダーンズ』(アラン・ルドルフ監督)や、キネマ旬報社が買ってきた『誰かがあなたを愛してる』(メイベル・チャン監督/香港)など、色んな映画が<シネスイッチ銀座>で上映出来たことは嬉しい限りである。パンフレットには邦画、洋画とも全作品、シナリオ採録をつけた。これも好評だった。
 その後、ビデオ(DVD )ビジネスが大きく減少し、現在はピークの10分の1とも言われる程になってしまった。
 単館映画で1億円の製作費はほぼ不可能になった。本来は、その部分を配信などで確保したいところだが、サブスクの問題もあり、なかなか厳しいのが現状だ。
 レンタルビデオ隆盛の頃は、1本売れると印税が200数十円入った。印税を貰えるのは監督、脚本、原作、音楽。2万本売れると500万円前後にもなった。固定のギャランティが300万円でも、ビデオ印税を足せば、何とか格好のつく収入になった。その後のテレビ放送等でも収入は続く。現在は、最も稼げたビデオ印税部分が極めて少額で、残念なことでもあるが、今後は観てもらった数でフェアに配分が行われていくことを願っている。
『Love Letter』公開後、僕がフジテレビを離れることになり、それでも暫くはシネスイッチ銀座&フジテレビの関係は続いたが、程なく、劇場は籏興行が単独で続けていくことになった。
 設立から36年。単館映画館がどんどん無くなる中、今もシネスイッチ銀座は面白い映画を上映し続けていることは本当に嬉しいことである。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。

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