広島っ子が驚き隠れて見た象の行列 東広島・西国街道に刻まれた歴史の瞬間【東広島史】
東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:赤木達男
象の餌の調達や作事など準備に大わらわ
西国街道随一の難所、大山[おおやま]峠越え
享保14年4月8日(1729年5月4日)、海田宿を西条四日市宿に向けて出立。瀬野川沿いの長閑[のどか]な山陽路を歩み、安芸区一貫田[いっかんだ]の龍禅寺[りゅうぜんじ]を抜け、安芸郡と賀茂郡の境にある標高337㍍、比高250㍍の西国街道最大の難所である大山峠に挑む。
2018年の西日本豪雨災害で現在は峠道を辿[たど]ることができないが、江戸時代の痕跡は残っている。
その一つが、代官様を籠[かご]に乗せたままでは登れず、降りて歩いたと伝えられる「代官おろし」の標識。もう一つが、一石5斗(約225㌔㌘)の米を背に振り分けた馬を曳[ひ]く馬子[まご]が唄[うた]った「瀬野馬子[せのまご]唄発祥の地」の説明板だ。
いずれも峠の険しさを物語る標柱と標識だが、ともに西日本豪雨災害で壊れたため新たに作られている。
頂上手前10㍍辺りに「大山清水」が湧いていたとのこと。旅人が喉[のど]を潤した峠の名水を、きっとベトナム象も〝Ngon quá![ンゴーンクワー]〟(めっちゃおいしい!)と渇きを癒やし、峠を下ったことだろう。
ベトナム象は「飢坂[かつえざか]」を登った…?
大山峠を下ると八本松を経て西条盆地に入る。距離にして約2里(7~8㌔㍍)の間に最後の峠がある。(株)オンド本社工場のある八本松東から西条町寺家につながる飢坂[かつえざか]だ。「江戸時代の飢饉[ききん]で多くの人が力尽き亡くなったことから名付けられた」と伝わる。
筆者も郷土史仲間に連れられ峠道を辿った。その折ふと、〝ベトナム象が通ったときには「飢坂」と呼ばれていたのだろうか〟と疑問が湧き、江戸時代の4大飢饉(寛永、享保、天明、天保)を調べてみた結果、紙数の都合で詳載できないが〝ベトナム象が峠を登った頃は、まだ「飢坂」と呼ばれていなかったのではないか〟と推測した。
長崎を発って27日目の4月8日(5月5日)夕刻、ベトナム象は西条四日市宿に到着。
木原家に残る文書、『象御登セ覚書』には「長崎から江戸に登る象が、4月8日、四日市宿の御茶屋[おちゃや]に泊まった。宰領[さいりょう]の高木作右衛門と家来は御茶屋の上[かみ]ノ間、その他は台所の上[うえ]の間に泊まった。象を御馬屋[おうまや]の馬3匹の間仕切りを取り除き板で囲った。象遣[ぞうつか]い4人も馬小屋に付き添った。御代官[おだいかん]の松原助左衛門様がお越しになり、宿で諸事について仰せつかった。」と書かれている。
〝てんやわんやの大わらわ〟西条四日市宿
代官様までお出ましの準備と接待は、〝てんやわんやの大わらわ〟だっただろう。
本陣に向かう半尾[はんのお]川に架けられた橋と本陣から松子[まつご]山へと向かう古川[ふるかわ]橋は恐らく土橋か板橋。3㌧もの象には耐えられない。
「土橋、薄き板橋、薄き石橋などは厚さ6~7寸(18~21㌢)の角材を平らに並べ、その上に薄く土を敷き」「欄干がない橋は取り付ける」ようにとの長崎奉行所の「御触書」に従って補強。象小屋も馬小屋を改造、〝トンカン・ギコギコ〟と慌ただしく作事[さくじ]が進められた。
象小屋も「高サ八尺(2・42㍍)余、入三間(5・4㍍)程、横弐間[にけん]半(4・5㍍)程」、「小屋に風が入らないように、象は度々小便するので小屋内の地形は片方を少し下[くだ]りにして、小便がたまらないように。藁[わら]を弐尺[にしゃく](60㌢)程敷き、昼夜役人が付き添うように」と、事細かな指示。
郡内全域から調達した象の餌[えさ]
橋や象小屋の作事も大変だが、何よりも〝やねこい〟のは餌だ。木原家文書に「いたぶ葛[くず] 右は大きな松或いは大石(岩)などに有る」と書き残されているが、140斤[きん](84㌔㌘)と半端な量ではない。どこから調達したのだろう。
竹原市立図書館所蔵の『竹原下市村覚書[しもいちむらおぼえがき]』には、賀茂郡の代官(松原助左衛門、梶川助三郎)が郡内の割庄屋[わりしょうや]7人に対して餌の調達と、往還道[おうかんどう]や橋の損傷を知らせるように指示した「申遣[もうしつかい]」が残されている。
これに対し、新庄村[しんじょうむら](現竹原市新庄)の庄屋・半兵衛から代官に、「だいだい、笹の葉は有り、まんぢうは作ったが、其他のものは御座無候[ござなくそうろう]」と飛脚を返している。象一頭、四日市宿に一泊するための大騒動は賀茂郡内一円にわたったことが覗[うかが]える。
『象御領内通候一件』に見る ―象が通った広島藩の様子―
ところで、長崎奉行所の「御触書[おふれがき]」には驚くような内容がある。
前号でも紹介したが岡山大学付属図書館所蔵の『象御領内通候一件[ぞうごりょうないとおりそうろういちけん]』は、「御触書」や「追触[おいふれ]」などの写しとともに岡山藩が将軍様の象を粗相[そそう]なく領内を通過させるため、広島藩をリサーチさせた藩士が藩庁に提出した報告書を綴[つづ]ったものである。
「象が驚き暴れるので通[とお]り筋家家簾[すじいえいえすだれ]を釣[つ]り、或[ある]いは戸口[とぐち]を閉め家内人[かないひと]集[あつま]まり候[そうろう]体[からだ]見[み]え申[もう]さぬように御触の由[よし]」と書かれ、外に出ての見物は禁止。「拠[よんどころ]無[な]き用事につき往来[おうらい]仕[つかまつ]らず候[そうろう]て叶[かな]わぬ儀[ぎ]これあるとも、通り筋を除け、外道[そとみち]を通り申すべき由、御家中[ごかちゅう]、町方[まちかた]、郡方[こおりかた]とも御触れ候由」と、やむを得ない場合にも通りを避け、脇道を通るようにお触れを出すことと念の入れようである。
結果、「広島街並み見物の者簾[すだれ]の内に静かに居り申し候、たばこの煙、またそのほか煙出し申さぬように御座候」と報告されている。
「(象は)蟻、鼠、牛馬、犬、猫嫌い申し候やの事、広島御城下前日より繋[つな]ぎ申し候、もっとも、小鳥等迄外へのけ申し候」に加え、「犬猫も繋ぎ候事、広島の通り御当地も申し付くべく候」と、岡山藩でも広島藩のように申し付ける必要があると進言されている。
さらに、「広島にては、寺寺の鐘、太鼓、鉄砲等、音高き事は差し止めなされ候由、御当地も此の通り仰せつけられ然るべく存じ奉り候」と記されている。時を告げる鐘だけでなく火事など危急時に打ち鳴らす早鐘[はやがね]も駄目、音曲[おんぎょく]はもちろん鍛冶屋も大工仕事の槌[つち]も禁止された。
何とも凄[すさ]まじい限りだが、動物園の飼育員や獣医師に聞くと、「知的で社交的な性格の象も、大きな音に敏感だったり、発情期には攻撃的になり飼育員の事故も多い」とのことだ。
もっとも、この「御触」は将軍様の象に「万が一事故があれば、厳しいお咎[とが]めを受ける」という、奉行所役人や各藩の心配の方が強かったのかも知れない。
それでも広島っ子は見ていた
これではとても、広島っ子は珍獣(象)を見物できるような状況ではない。しかしそれでも、広島っ子は〝したたか〟に見ていた。
全国各地で庶民が描いた絵や見聞記が残されているが、広島ではあまり見あたらない。運良く、先に紹介した『竹原下市村覚書』から次の一文を見つけた。「象見物之儀[ぞうけんぶつのぎ]、殊外稠敷仰付候[ことのほかきびしくおおせつけられそうろう]ニ付[つき]、町中[まちなか]ニ觸聞[ふれきか]せ、往来觸[おうらいふ]れ申候[もうしそうろう]、然所[しかるところ]見物相成申候風聞有之候[あいなりもうしそうろうふうぶんこれありそうろう]ニ付、余程往還筋[よほどおうかんすじ]へ罷出申候[まかりいでもうしそうろう]、成程見物致申候[なるほどけんぶついたしそうろう]」。
「象の見物のことをとても厳しく仰せつかっていた
ので、町中に周知し、往来にも触れを出した。しかしながら見物人がいると聞いたので、出てみると見物していた」と。(下市村の庄屋が記したものと思われる)
おわりに─「歴史の道」は、今を映す鏡
ベトナム象の江戸への旅はまだまだ続き、天皇や将軍に拝謁[はいえつ]し、江戸っ子の人気を集めた。しかし、13年後の寛保2(1742)年12月、象の平均寿命の4分の1の若さで亡くなった。機会があれば、またお届けする。
前号で象の旅に関する資料が、襖[ふすま]の裏張りから発見されたというエピソードを紹介した。広島城下の帳面が、いつしか北広島町の民家の建具に使われ、後に郷土史家の手によって発見された。こうした偶然こそ、歴史の面白さであり、尊さだ。
今を映す鏡である古文書・史跡・遺構は市民的財産であり、その保存・継承と活用を心に刻みつつ本稿を閉じたい。
〈参考文献〉
・東部区民活動センター「ささご会」…紙芝居「江戸に象が来た」
・東広島郷土史研究会…行程記「芸州四日市」
プレスネット編集部