《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 15 鶴澤友之助(文楽三味線弾き)
ヴァイオリニストのシーナきのはらを母に、作編曲家・ジャズピアニストの齋藤信介を父に持ち、エレキベース、フラメンコギター、コントラバスなどを弾いたのち、文楽の三味線にたどり着いた。近年は演奏に加え、作曲でも引っ張りだこの鶴澤友之助(45)。その音楽遍歴と文楽観の変化とは。
出会った楽器を片端から習う
友之助さんの紹介に必ずついて回るのが、音楽一家という家庭環境だろう。実際、それは友之助さんの人生において無視できないほど大きいものだ。物心ついた時から母のヴァイオリンや父のピアノの演奏を聴き、家には両親の音楽仲間が頻繁に出入りしていた。そんな友之助さんが最初に弾いた楽器は、クラシックギター。
「誰も弾かないクラシックギターやフォークギターが、何故か家にあったんです。それを手にとって遊んでいて、小6〜中1ぐらいの時に『習いたい』と。最寄り駅の近くにクラシックギターの教室があったんです。面白くて、ずっと通っていました。当時はGLAY、LUNA SEA、L'Arc〜en〜Cielなど、ビジュアル系バンドの全盛期。中2の頃、友達が組んだバンドにベースがいなくて、クラシックギターをやっているからということで誘われました。興味を持ち、親の知り合いのプロのベーシストに相談して楽器を選んでもらって始めたところ面白くなって、こちらもプロに習い始めました。中学卒業時には同級生みんなでお金を出し、難波のライブハウスを貸し切って卒業ライブをやって。母が聴きに来てくれ、その録音を聴いた父は『リズムがしっかりしている』と褒めていたらしいです」
なお、一人で弾くのではなく合奏をするという経験をしたのは、バンドが初めて。それがベースだったことは、友之助さんのその後を象徴するかのようだ。
「ドラムとベースは、たまに目立つ瞬間もあるけれど、基本的には土台として支え、リズムキープをする役割。こっちが安定した演奏をするほどフロント(ボーカル、ギター)が遊べるし、こっちが崩れたらフロントも崩れる。僕自身、そんなに前に出る性格でもなかったので、性に合っているなと思って」
高校に入ってからは、ライブ活動を続けつつ、母が演奏仕事を請け負っていた音楽団体でアルバイトもした。
「小中高の音楽鑑賞会で世界中の音楽を紹介する『世界の音楽』というプログラムを手伝いました。ギターとベースの両方が弾けるから、演奏要員も兼ねて。朝一で音響さんのトラックに乗って小学校や中学校や高校に行ってマイクやスピーカーや照明などをセッティングし、そうこうするうちにプロの演奏家が来てマイクチェックをしている間に、僕は自分の楽器を出し、マイクチェックをして、本番ではプロの演奏家と一緒に楽器紹介や演奏を披露するんです。母がヴァイオリンで参加することもあれば、和太鼓や、(南米アンデスの民族楽器である)チャランゴやサンポーニャなど珍しい楽器の人が来ることもありましたね。公演が終わってプロの人が帰ったら、僕は音響さんと二人で片付けて、スーパー銭湯に寄って帰る。大変でしたけど、すごく愉しかった。たまにフラメンコダンサーの人が来ると、その場で教わって見様見真似でギターを弾いていたのですが、ちゃんとやりたくなり、やがてフラメンコギターも習い始めました。フラメンコギターと普通のギターでは、弦の種類や駒の高さが違うんです。クラシックギターよりフラメンコギターのほうが弦高が低いから速く弾きやすい代わりに1音は弱くなる。文楽の三味線と津軽三味線の関係に似ています」
≫コントラバスか、三味線か
コントラバスか、三味線か
フラメンコギターを習っていた頃、もう一つ、楽器と出会ってのめり込む。コントラバスだ。
「阪神・淡路大震災のあと、どういうわけか母の知り合いのベーシストから修理が必要なコントラバスが家に届いて、『直ったら使っていいよ』と言われたんです。弦を弾くと『ドゥンドゥン』と音が響いて、『すげー! 習ってみたい』と(笑)。どうせやるなら良い先生をということで、大阪センチュリー交響楽団の首席奏者だった奥田一夫先生に習い始めました。プロになる人が教わりに行くような先生なので、前後の生徒さんがブワーッと弾いている中、僕は簡単なボーイング(運弓法)練習で(笑)。1年ほど経った高校2年生の終わり頃、先生から『京都市立芸術大学を受験してみたら?』と急に言われたんです。そんなつもりはなかったから、僕も親もびっくりして。普通は幼少の頃から準備していたり音楽高校に通ったりするのに、僕は習って1年で、1年後には受験。無理だと思ったけれど、先生はいけると思って言ってくれたわけだから頑張ってみようということになり、コントラバスのレッスンのほか、母親が知っている音楽理論の先生に個人レッスンを頼みました。入試ではピアノでバッハの『インヴェンション』も弾けなければいけなかったのですが、父の専門はジャズなので母に教わって。“超詰め込み状態”で大変でした」
ご両親は、友之助さんには苦労が多い音楽家以外の道をと願っていたそうだが、友之助さん自身は何らかの音楽で食べていきたいと考えていた。そんな中、降って湧いた芸大受験の話だったのだ。しかし同じ頃、もう一つ、楽器との大きな出会いがあった。テレビで初めて見た文楽の三味線だ。
「その時はわからなかったけれど、あとから考えれば、『妹背山婦女庭訓』妹山背山の段でした。川が流れていて、そこに物を流す時に人形遣いの人が操作しているのを見て、芸が細かいなあ、と。そこに謎の低音楽器が流れて、『これ、なんだ?』って。エレキベースにコントラバスにと、すっかり低音楽器好きになっていたので。その数日後、地下鉄の駅で研修生募集のポスターを見て、『テレビで見たあれ、習えるんや』と思って電話しました。でも高校2年生の時だったので、高校を辞めないと入れないと分かり、コントラバスで頑張ろう、と」
ところが、なんと受験日前日、盲腸が破裂。試験を受けることができずに終わってしまう。
「入院中、ずっと悩んでいました。レッスンに家庭教師にと、親に負担をかけているのはわかっていたので、これ以上迷惑はかけられない。その時、思い出したのが文楽です。当時は2年に1回の募集だったので、高2で問い合わせたその次のタイミングがちょうど来る。もともと興味があったし、奨学金も出るというので、奥田先生に謝って文楽の研修生に応募しました」
結果は合格。友之助さんは2000年4月、第19期文楽研修生になった。その音楽人生の道が定まった瞬間だった。
≫文楽に混乱し苦闘した10年間
文楽に混乱し苦闘した10年間
文楽研修生としての友之助さんの同期は、のちに人形遣いの桐竹一暢の弟子となる桐竹一徳(現在は廃業)のみ。つまり三味線弾き志望は一人だったが、やはり2000年に歌舞伎研修生となった現在の豊竹芳穂太夫と仲良くなる。その様子は芳穂太夫が本連載のVol.9で語ってくれている(https://spice.eplus.jp/articles/331219)。
「三味線は、初めは少し弾きにくかったけれど、楽器歴が長いのでつかむのは早かったと思います。ただ、マイペース過ぎて、指導にいらしていた(鶴澤)清介師匠から『弾けるんやから、もうちょっと頑張らへんかな』『あんたはこういうのじゃないと、やる気出せへんから』と、2年目で『摂州合邦辻』合邦住家の段の段切(一段の終結部分)を教えてもらって。難しい聴かせどころですが、浄瑠璃がどうこうはまだ分かっていなかったものの、旋律としては一応弾いたんです。そういうのは楽しかったけれど、僕はずっと音楽畑だったからお芝居の楽しさがいまいち分からなくて。逆に芳穂くんは芝居畑で音楽的な教育を受けてこなかったからそっちに苦労していて、お互いに愚痴りながら『頑張ろう』と言い合っていましたね」
2002年、豊澤富助の弟子となり、豊澤龍爾と名乗って国立文楽劇場で初舞台。のちに廃業した兄弟子の龍聿には、芝居面で特に世話になった。
「龍聿さんは日芸の演劇学科出身で、芝居好きが高じて三味線弾きになった人なので、僕は『これ、誰ですか?』『なんて読むんですか?』なんて、頼りまくっていましたね(笑)」
もう一つ、友之助さんが苦闘したのが、ずっと弾いてきた洋楽器とは全く異なる、邦楽器の音程だ。
「プロになって10年ほど、ずっと混乱していました。4分の1音ぐらいの差が気持ち悪くて、『こんな音、自分の辞書にはない』と思いながら無理やり弾いて。気持ち悪さに耐えて弾いているから面白くないし、そのことがちょっと悔しくもあって、辞めるなら面白くなってからにしたい、と思って続けていたんです」
変化が起きたのは、10年を過ぎた頃。
「急に文楽の音が正しいと感じるようになったんです。もう一つの脳ができたというか。2018年に(豊竹)若太夫師匠と(桐竹)勘十郎師匠に声をかけていただき、文楽パートの作曲・演奏を担当した狂言風オペラ『フィガロの結婚』では、作曲部分は義太夫の音程で弾くけれど管弦楽アンサンブルと一緒にモーツァルトを弾く時は西洋の音程で弾いたので、プロのミュージシャンの知り合いが観に来て『なんであんなにすぐ切り替えができるの?』と驚いていました。洋楽器と邦楽器、2つの脳が出来上がったからこそで、そうなるまでに10年かかったんです。文楽のお芝居の部分が面白いと心底思えるようになったのも、やはり10年を過ぎた辺りから。そこからはとても気持ちよく弾けるようになりました」
一人で全てを弾く文楽の三味線は、様々な役割を果たさなければならない。文楽の三味線に通じる低音楽器ながら、他の楽器の下支えすることも多いエレキベースやコントラバスを弾いてきた友之助さんにとって、富助師匠から学んだ演奏スタイルも糧になっている。
「富助師匠は細かく教えるというより、見て覚えろ、というタイプでしたが、前に出る、気迫で押していくような演奏をと教わりました。『気持ちで押せ』と言われたことも印象に残っています。師匠自身、そうした演奏が得意な方ですよね」
≫清友師匠のもとで学び、作曲の才能も開花
清友師匠のもとで学び、作曲の才能も開花
2017年、友之助さんは大きな転機を迎える。文楽を辞めるかどうかの瀬戸際に立った末、鶴澤清友の弟子となったのだ。その清友からの稽古での言葉に、友之助さんは衝撃を受けた。
「弟子入りして最初のお稽古は、6月の若手会の『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段。15年やってきて、プロとしての自負もそれなりにあったのに、コテンパンでした。怒られたわけではないのですが、『君、そんなに弾かれへんのか』と言われて。音を真似てそれらしく弾いてはいたけれど、義太夫節の仕組みへの理解が浅かったんです。例えば、太夫の呼吸や音程の推移、三味線が何故このタイミングで入るのか、文楽ではお決まりの旋律をここで弾くのはどうしてなのかといった細かいところを明確に教わって。それまでよりも“ピント”が合うようになってきたと感じます」
実は研修生時代から、印象深い師匠だった清友。
「色々な師匠が入れ代わり立ち代わり教えに来てくださっていたのですが、『曾根崎心中』天神森の段を清友師匠が教えてくださるという授業の時、手違いで楽譜が用意されていなかったんです。東京での研修だったので取りに行くこともできない。清友師匠は『とりあえず、なしでやりましょうか』とおっしゃったのですが、翌日、すごく綺麗な楽譜が配られました。実は清友師匠が一晩で、僕のために書いてきてくださったんです。ご自身も本番中なのに。そのことを師匠は覚えていないのですが、感動して、今でもその譜面はとってあります」
だが清友は「人の人生を預かるなんて」と弟子は取らない主義。2017年当時、友之助さんの文楽の道を繋げてくれたのは、人間国宝の3人、故・七世竹本住太夫、故・七世鶴澤寛治、鶴澤清治だった。
「ある日、人間国宝の師匠方が清友師匠を会議室に呼びはったんです。そして、僕もいる前で、住太夫師匠が『君、この子、預かったり!』。『いや、私は年齢も行っていますし、この間病気しましたし』と答える清友師匠に、住太夫師匠は重ねて『ほんでな、友之助っていう名前がええと思うんや』、清治師匠も『いいんじゃないの。君に似合っているよ』と頷かれ、会議が終わって。清友師匠はその場では一度も『うん』とおっしゃらなかったのですが、『よろしくお願い致します』と挨拶に行くと、『あない、言われたらな……。でも一応家内に相談する』とおっしゃったあと、受けてくださいました」
厳しくシビアな世界にあって人情味を感じるエピソードである。
さて、清友が作曲も積極的にこなす一門に属していることもあり、前述の『フィガロの結婚』を皮切りに、近年の友之助さんは作曲の仕事を受けることが多くなった。ゲーム会社と文楽のコラボレーション動画であるCAPCOM×国立文楽劇場『祇(くにつがみ):Path of the Goddess』人形浄瑠璃文楽スペシャル『⼭祇祭祀傳 巫⼥の定の段』では、ゲームの世界の前日譚をドラマティックに表現。関西国際空港から国立文楽劇場までの行き方を案内する文楽協会作成の動画では、依頼には入っていなかったが友之助さんが自主的に使用駅の発車メロディを調べ、義太夫節風の音楽にさり気なく入れ込む工夫も。また、俳優の金子あい、文楽の芳穂太夫と3人で自由に創作し再演を重ねている『琵琶法師耳無譚(びわほうしみみなしたん)』は、通常は『七福神宝の入舩』以外に使われることがほぼない“琵琶駒”で琵琶の音色を再現したほか、ギターの奏法やフラメンコのリズム、さらにオリジナルの奏法も駆使して、三味線一挺のみとは信じ難い多彩で劇的な音色を繰り出すなど、和洋両方で音楽センスを磨いてきた友之助の面目躍如だった。
「作曲ではいつも、『ここは導入部分だからこの旋律かな』『でも世話だから軽めの旋律でスタートしようかな』『じゃあここは新しく旋律を作るか』といった具合に考えて構成しています。僕は三味線を持たずに作曲をするのですが、頭の中にパッと降りてきた節回しをメモして、声を出しながらあれこれ試して決めていくことが多いですね」
今年7〜8月には国立文楽劇場で、チャールズ・チャップリンの映画『街の灯』に基づく新作文楽『まちの灯』で作曲を担当する。同じ原作を歌舞伎にした国立劇場の『蝙蝠の安さん』(2019年)と同じ大野裕之脚本・演出で、大阪が舞台の物語として書き下ろされた。
「義太夫節っぽく作りつつ今まで使われていないフレーズも入れています。奏法的には、(弦の特定の箇所に軽く触れながら弾くことで一オクターブ高い音を響かせる)ハーモニクスも使っていますし、ミュートしながら弾くようなところもあって、それは僕の手が大きくて長いからできること。僕が弾かない段は改良するかもしれません。映画の旋律も数カ所、古典的な旋律の中に混ぜ込んでいて、分かる人には『あ!』と気づいてもらえるでしょうし、知らない人には『ちょっと不思議な旋律だな』と感じていただけるはず。映画のラストのチャップリンのなんとも言えない表情から着想した最後の旋律にも、ぜひ耳を傾けてほしいです」
勿論、古典の奏者としても研鑽は続く。5月は『生写朝顔話』真葛が原茶店の段に出演。上演機会の少ない段で、これまで竹澤團七、清介、清友と、作曲も手掛ける三味線弾きが演奏を担ってきた。『生写朝顔話』は互いに想い合う阿曾次郎と深雪が運命に翻弄され、すれ違う物語だが、その深雪に横恋慕する藪医者・萩の祐仙は悪役ながら滑稽なコメディリリーフを担う。真葛が原茶店の段は、祐仙が悪徳医師の立花桂庵に偽の惚れ薬を掴まされ、桂庵と内通している茶屋のお由が惚れたふうを装って祐仙に抱きつくチャリ場(滑稽な登場人物が活躍するコミカルな場面)だ。
「滅多に上演されない段は準備が大変ですし、頻繁に上演する曲と違って覚えにくい曲が多いのでヒヤヒヤしますが、師匠にお稽古してもらい、相談しながら自分らしく作りたいですね。この段は桂庵がお由と一緒に祐仙を騙すくだりがとても面白く、三味線の手数も多いので、どのように弾くことができるか今から楽しみです。騙す方と騙される方と人物の切り替えは勿論、心境の変化を音色で表現するなど、工夫を凝らせたら、と。お由が惚れたふりをして色気を出すところなども、色気をコミカルさのある音色で表現したいと考えています」
組むのは、住太夫の三番弟子、竹本小住太夫。
「住太夫師匠に厳しく稽古してもらっただけあって義太夫の理屈がきちんと分かっているので、やりやすいです。太い良い声が出る小住くんと一緒に楽しく面白く表現し、お客さんを大いに笑わせたいですね」
現在、45歳。50代も視界に入ってきた。今後、どのような三味線弾きを目指していくのだろうか。
「とにかく清友師匠の教えをできるだけ受けて、古典の手をしっかり理解し、良い演奏ができるようになりたいです。両輪として、作曲も引き続き頑張りたいですし。文楽は、観たことのない人にとって敷居が高いところがあるので、『琵琶法師耳無譚』のような作品を最初の入口にしてもらい、本家を観てみたいという人を増やせたら嬉しいです。あとは、僕が良い音だなと思ったこの三味線の弦楽器としての魅力も、もっと発信していきたいですね。去年、友人の津軽三味線奏者である大野敬正くんと二人会をやったんです。普段は文章と一緒に奏でる三味線ですが、この時は純粋なインストルメンタルとして『ボレロ』やオリジナル曲を演奏したところ、評判が良かったんですよ」
≫「技芸員への3つの質問」
「技芸員への3つの質問」
【その1】入門したての頃の忘れられないエピソード
入門して間もない時、文楽の仕事で天神祭の船に乗ったんです。三味線は交代で演奏することもあると思うのですが、この時一緒に乗った(竹澤)宗助さんも(鶴澤)清志郎さんもストイックな方なので、ほとんど休むこともなく3人で何時間もずっと弾き続けて。暑くてしんどくて腕がどうかなるかと思いましたが、近くで花火が上がるし段々トランスしてくる感覚もあって、ものすごく楽しかったです。
【その2】初代国立劇場の思い出と、二代目の劇場に期待・妄想すること
芳穂くん含め歌舞伎研修生の同期の面々との出会いの場でもあるし、思い出はたくさんあります。今、色々なところで公演をすると、国立劇場の音響の良さを思い知るんです。早く、お客さんにも演者にも優しい劇場が建ってほしいです。三味線は湿気に弱くて、きれいに皮が貼ってある良い音の三味線ほど、湿度のちょっとした変化で破れるんですよ。楽屋でパーンって音がすると、「ああ、張り替え代、何万円……」と。ですから空調がしっかりしているとか、二重窓になっているとか、そういうところにも期待したいです。
【その3】オフの過ごし方
最近、まとまったオフがあまりないのですが、可能ならば大好きなキャンプに行きたいですね。泊まりが無理ならバーベキューだけやったりしています。三味線の稽古をして行き詰まると、ギターを持ってうわーって弾いて、そうすると「最近弾いてなかったから指が動かない! 練習しなきゃ」となったり(笑)。そのまま気づいたら朝になっていることもありますね。
取材・文=高橋彩子(舞台芸術ライター)