王妃はなぜ森で切り刻まれたのか?貴族たちの憎悪が爆発した中世ハンガリー暗殺事件
中世ヨーロッパでは、王権と貴族の対立がしばしば重大な政変を引き起こしました。
13世紀初頭のハンガリー王国で起きた王妃暗殺事件は、まさにその象徴です。
当時、東欧の強国であったハンガリーですが、その内情は外国から嫁いだ王妃の強い政治的影響力と、富や地位の不均衡から深刻な政治的摩擦を抱えていました。
貴族たちの間に蓄積された不満は、やがてある引き金をきっかけに、王室を揺るがす刃へと変わったのです。
ドイツ出身の王妃ゲルトルート
1205年、ハンガリー国王としてアンドラーシュ2世が即位しました。
彼は即位する以前に、現在のドイツ南部バイエルン付近を本拠地とする名門アンデクス=メラン公爵家の娘、ゲルトルートと結婚していました。
ゲルトルートは強い意志と優れた政治感覚を持った女性であり、夫であるアンドラーシュ2世の統治においても、政治的にも近い関係を築いていました。
しかし彼女が持つ王への強い影響力は、宮廷内での発言力を失いつつあったハンガリーの貴族たちの目に「王を操る外国人の野心家」と映り、深刻な摩擦を生むことになります。
さらに1208年、ドイツ王フィリップ暗殺への関与を疑われたゲルトルートの兄たちが、ハンガリーへ逃れてくる事件が起こります。
アンドラーシュ2世は彼らを保護し、その一人であるバンベルク司教エクベルトには大きな所領を与えたとされます。
こうした王妃一族への厚遇は、国内貴族たちに「外国人ばかりが王国の富を奪っている」という不満を抱かせました。
くわえてアンドラーシュ2世は、即位後、自らの支持基盤を固めるために大胆な土地政策を進めます。
もともと中世のハンガリー王国では、国王が広大な直轄領を所有し、そこから得られる豊かな収入を背景に強い権力を行使していました。地方には城郭を中心とした行政単位が敷かれ、国王から任命された地方長官であるイスパーンが、軍事や裁判、徴税を担うことで国家の安定が保たれていたのです。
ところがアンドラーシュ2世は、従来は国王の所有物であった土地や城郭付属地を、支持者へ世襲財産として次々と与えていったのです。
この方針は、それまで官職に就くことで富と権力を維持してきた伝統的な貴族たちに、大きな衝撃を与えました。
王領が個人の私有地となれば、王室へ入るはずの収入は減り、従来の統治システムも揺らいでいきます。
国家の富が流出し、自分たちが依存してきた仕組みが崩れていく光景を、貴族らもただ黙って見過ごすわけにはいきませんでした。
しかも財政難に陥った国王は、臨時の税を課したり、通貨の質を落としす改鋳を繰り返したりして穴埋めを試みます。
こうした財政政策は経済を混乱させ、中小貴族や領民には重い負担となったのです。
地雷を踏みまくる王妃に爆発寸前の貴族
高まりつつあったハンガリー貴族たちの不満を、さらに刺激したのが、王妃ゲルトルートの弟ベルトルドへの異例の優遇です。
ベルトルドは1206年、国内のカトリック教会で第二の権威を持つカロチャ大司教に任じられます。
まだ若年であった彼の登用は、ハンガリーの聖職者や貴族たちにとって、王妃一族への露骨な厚遇と映りました。
しかも、彼に与えられた権力は教会内の地位だけにとどまりませんでした。
ベルトルドはその後、クロアチア・ダルマチアのバン、さらに1212年にはトランシルヴァニアのヴォイヴォダにも任じられたのです。
これは、宗教的権威だけでなく、軍事・行政上の要職までもが、王妃の弟である外国出身の若者に集中したことを意味していました。
中世において、教会の高位職や地方の統治職は、膨大な富と強力な政治的特権を伴うものでした。
そうした地位がベルトルドに重ねて与えられたことは、国内の有力者たちに深い不信感を植え付けることになります。
彼らの目には、王妃ゲルトルートが自らの一族を王国の中枢へ押し上げ、ハンガリーの富と権力を外国人の手に移しているように映ったのです。
水面下で進む王妃排除の計画
1213年、アンドラーシュ2世は、現在のウクライナとポーランドの国境付近に位置するガリツィア地方への軍事遠征を決定し、大軍を率いて首都を離れました。
当時のガリツィア公国では公位をめぐる争いが続いており、アンドラーシュ2世は次男コロマンをその地の君主に据えようとしていました。そのため、以前からこの地域への軍事介入をたびたび繰り返していたのです。
しかし、この遠征は国内に大きな負担を強いるものでした。
多額の戦費が必要となり、有力貴族たちも私兵を率いて従軍しなければなりません。度重なる遠征によって、国内では不満がさらに高まっていました。
そして1213年秋、国王が再び北方へ出陣すると、宮廷の実権は王妃ゲルトルートに委ねられます。
国王が不在であること、そして遠征先から戻るまで時間を要することは、彼女に不満を抱く貴族たちにとって絶好のチャンスでした。
こうして王妃ゲルトルートは、積み重なった政治的不満の象徴として、陰謀の標的となったのです。
王妃への憎悪が噴出、そして惨殺
1213年9月28日、王妃ゲルトルートは、弟ベルトルドやアンデクス家の人々、さらに宮廷を訪れていたオーストリア公レオポルト6世らと共に、首都近郊のピリスの山林へ狩猟に出かけました。
王妃に強い敵意を抱く一部のハンガリー貴族たちは、この機を見逃しませんでした。
襲撃の中心人物として知られるのは、かつて宮廷の要職を務めていた貴族、テュレの子ペーテルです。
狩猟の最中、森の中で王妃一行が散開したところを、ペーテルらは襲いかかりました。
深い森のなかでは宮廷の近衛兵による防衛も機能しにくく、不意を突かれた王妃の周囲はたちまち混乱に陥ります。
そして標的となったゲルトルートは、その場で命を奪われたのです。
中世の年代記には、襲撃者たちが彼女に幾度となく剣を突き立て、絶命した後も遺体を切り刻んだと伝えるものもあります。王妃への憎悪は、命を奪うだけでは収まらず、その亡骸にまで向けられたのです。
こうして国王の傍らで大きな影響力を振るっていた異国の王妃は、ピリスの森で凄惨な最期を迎えました。
遠征先のガリツィアでこの報を聞いたアンドラーシュ2世は、遠征を中止して急遽帰国します。
そして実行犯とされるペーテルを捕らえ、串刺しとも伝えられる過酷な方法で処刑しました。
一方で、関与が疑われた他の有力貴族たちへの処罰は限定的であり、後の息子ベーラ4世の時代になって、改めて追及されることになります。
ゲルトルートは本当に悪女だったのか
彼女の亡き後も、度重なる遠征や土地授与政策によって王室財政は大きく悪化しました。
追い詰められたアンドラーシュ2世は1222年、貴族層の要求を受け入れ、王権を制限して彼らの権利を認める「黄金文書」を発布することになります。
この文書は、王による無制限な土地授与を制限し、貴族の特権を保障するもので、その後のハンガリー王国の法秩序の基礎となりました。
もっとも、ゲルトルートが本当に「悪女」だったのかについては、慎重に考える必要があります。
たしかに彼女は一族や外国人廷臣を重用し、宮廷政治に強い影響力を及ぼしていました。
しかし、それらの政策の多くは夫アンドラーシュ2世の意向とも深く結びついており、王国の混乱をすべて王妃一人の責任に帰することはできません。
むしろ、王妃は国内に蓄積していた不満の標的にされた側面もあったのでしょう。
異国の王妃の悲惨な死は、王権と貴族層の対立を示す象徴的な事件となりました。
そしてその緊張は、やがてハンガリー王国の支配構造にも大きな影響を及ぼしていくことになったのです。
参考文献
『ハンガリー史 1』/パムレーニ・エルヴィン(編),田代 文雄(訳),鹿島正裕 (訳) 他
文 / 草の実堂編集部