戦国時代の結婚はかなり豪華だった?武将たちの結婚事情や儀礼を紹介!
いつの時代も結婚は重要な人生儀礼であり、戦国時代においては大名・武家同士のつながりを強める政略結婚が盛んにおこなわれていました。
今回は、戦国時代における武家の結婚儀礼をご紹介。果たしてどのように行われていたのでしょうか。
戦国男女の結婚適齢期は?
戦国時代における結婚適齢期は、一般的に男性なら元服(成人)する12・13~20歳ごろ、女性はもう少し早く10歳ごろから20歳ごろまでには結婚相手を見つけていたようです。
ただし政略結婚であれば1ケタで結婚させるケースも珍しくありませんでした。夫婦と言うよりおままごとみたいな夫婦ですが、とにかく家同士のつながりを確保したかったのでしょう。
例えば甲斐の武田信玄は数え16歳ごろに三条夫人を迎え、尾張の織田信長は数え15歳前後で濃姫と結婚したとされています。三河の徳川家康も数え16歳で築山殿を正室に迎えました。
これは身分が高い大名クラスの事例で、身分が低い者についてはもう少し遅かったようです。
例えば秀吉が結婚したのは20代半ば。これは妻を迎えられるだけの経済状態が整わなかったために、婚期が遅れたのでしょう。
もっと身分が低い者については到底まともな結婚もできず、生涯独身だった者も少なくなかったと考えられます。
足軽などの下級武士や農民においては、政略結婚だけでなく自由恋愛による結婚も少なからず行われていました。
政略結婚
政略結婚に臨んでは、まず両家が婚約を交わして、日取りなどを詳細に取り決めています。
例えば天正11年(1583年)に徳川家康の娘である督姫(とくひめ)と、相模の北条氏直が婚約した際は、婚儀の日取りなどを決めるために使者が両家を何度も往復しました。
結婚に吉日や恵方を選ぶなどさまざまな配慮がなされましたが、両国間で洪水が起きたために婚儀の日取りを延長し、そのためにまた使者が何度も往復しています。
これほどのやりとりを重ねていながら、新郎新婦は互いに面識がないことも珍しくありません。
とにかく大切なのは家同士のつながりという政略であり、相手の容姿や性格などは二の次三の次だったのでしょう。
手ごろな娘がいない場合は、他家から養女をもらって嫁がせる事例も少なくありませんでした。
例えば宇喜多秀家の妻である豪姫は、秀吉が前田利家の娘を養女にもらって宇喜多家へ嫁がせています。
婚約に際しては夫の家から妻の家へ結納が贈られ、また妻の家から返礼として引き出物が贈られるなど、両家の結びつきを強めました。
厳粛な輿入れで周囲に武威と権勢をアピール
結納をすませると、いよいよ花嫁が婚家へと輿入れします。
出立に際しては両親へ暇乞いをし、式三献(しきさんこん)などの婚礼儀礼が行われました。
実家では送り出した嫁が二度と戻らぬよう、葬式と同じく門火を焚いて送り出すこともあったそうです。
この輿入れは単なる結婚儀礼でなく、周囲に対して武威をアピールする機会でもありましたから、ここぞとばかり贅を尽くしました。
例えば延徳3年(1491年)に執り行われた越前の朝倉貞景と、美濃国守護代・斎藤利国の娘の婚礼では、美濃から随行した騎馬五騎・走衆三十人、中間・小者らにも引出物が振る舞われ、返礼だけでも七十貫文(約700万円)に及んだともされています。
ちなみにこの婚礼で朝倉家は二万貫文(約20億円)もかけていたそうで、大変な権勢を見せつけたのではないでしょうか。
また、派手なだけでは品がないと侮られてしまうため、護衛の者たちには厳粛さを損なわぬよう指導が徹底されたそうです。
絢爛豪華な花嫁行列
輿入れのグレードは、おおむね武家の威勢と比例しました。
ここでは一例として天正13年(1585年)に行われた、太田氏房と太田氏資の娘・小少将の婚礼行列を見てみましょう。
全体で一番から十八番までの部隊が編制され、総奉行・御物奉行・御荷奉行などが定められたほか、女騎(めき)と呼ばれる女性だけの護衛隊も随従しています。
花嫁の輿を中央に、大上臈(おおじょうろう)・小臈(しょうろう)・御局(おつぼね)・中臈頭(ちゅうろうがしら)・中臈や侍などが随伴しました。
また調度品も用意され、貝桶(かいおけ)・御厨子(おずし)・黒棚・唐櫃(からびつ)・長唐櫃・長持・屏風・行器(ほかい)などが延々と続きます。
先頭をゆく貝桶とは貝合わせ(描かれた絵柄を合わせる遊戯)に用いるもので、蛤の貝殻に金箔と彩色をほどこしたものです。
蛤の殻は、他の蛤とは決して完全に合わないことから、唯一の相手と添い遂げる縁起物として珍重されました。
花嫁を逃がさないための輿迎えと輿寄せ
いっぽう花婿の家では、門火を焚いたり松明を掲げて出迎えたりしました。これを輿迎えと言い、先ほど紹介した貝桶を花嫁から花婿へ引き渡します。
渡した側は「千秋万歳(せんしゅうばんざい)、御貝桶(おんかいおけ)渡し申し候」と宣言し、受け取る側は「千秋万歳、御貝桶請取り申し候」と宣言しました。
これをもって花嫁の身柄は花婿の家へ引き渡され、花嫁の乗った輿の轅(ながえ。担ぐ部分)を戸に挟んで実家に戻らないよう「輿寄せ」を行います。
花嫁が輿を下りると両家の侍女房が控えの間へ案内し、互いに「おめでたく候」と挨拶を交わしました。
いよいよ祝言
準備が整うと、花嫁と花婿が同時に祝言の間へ入ります。
床の間には果物が盛られた奈良蓬莱(ならほうらい)、その右に縁起物が盛られた二重台、左には手掛台が据えられているのが一般的です。
奈良蓬莱とは蓬莱山を模した食器で、ここに盛られた果物を食べると不老不死になると考えられていました。また二重台には両家の家紋が入り、勝栗・柿・結熨斗・結昆布などが盛られます。
花嫁は主位(下座)、花婿が客位(上座)につき、ここで初めて夫婦が対面することになりました。相手の容姿を見て内心喜ぶ者もいれば、がっかりする者もいたかもしれません。
祝言の間には新郎新婦のほか侍女房と侍女しかおらず、侍女房が祝辞を述べると、花嫁が夫婦愛敬を願って自分の胸守を花婿へ渡しました。
花婿はこの愛敬(あいけい)の守りに触れてから返還し、そのまま柱の折釘にかけられます。
続いて式三献が執り行われ、花嫁と花婿で大中小の盃を呑み交わしました。
最初の盃(小)は花婿が三口で飲んでから花嫁へ渡し、次の盃(中)はその逆、そして最後の盃(大)は花婿・花嫁・花婿と二人で三口を飲み干します。
それから食膳が供され、雑煮・饅頭・鯉の羹(あつもの。スープ)・蒸麦・羊羹・添肴・湯漬飯などが七献まで続きました。
お色直しは三日目に
初日の祝言が終わると初枕(はつまくら)いわゆる初夜の儀が行われ、翌日以降も式三献が続きます。
三日目になるとお色直しが行われ、花嫁はそれまでの白装束から色物装束に着替えました。
これは実家を出て死んだ花嫁がよみがえったという表現で、また花婿の家族となった喜びを表現したものと考えられます。
お色直しに際しては花婿の家から挨拶や祝儀が行われ、花嫁やその関係者に対して小袖や金銀などの引き出物が贈られました。
以上をもって婚礼の儀はつつがなく完了したのです。結婚式を三日も執り行うなんて、当事者はもちろん、現場のスタッフたちは大変だったことでしょうね。
終わりに
今回は戦国時代の結婚について紹介してきました。
血で血を洗う戦乱の真っただ中において、ここまできっちりと豪華な婚礼をやり遂げた家は、そこまで多くなかったでしょう。
恐らくは、それぞれの家の事情に応じて、大なり小なり略式となったはずです。
それでも時代々々において精いっぱいの喜びを表現し、両家の幸せを願った人々の思いが偲ばれます。
参考文献:
楠瀬慶太「戦国期島津氏における酒食饗応儀礼」2007年
渡邊大門『戦国史が面白くなる「戦国武将」の秘密』洋泉社、2015年1月 他
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部