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ポルシェ設計事務所の設立から4年│着々と進んだ「フォルクスワーゲンプロジェクト」

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ポルシェ設計事務所の設立から4年後、1月1日時点で従業員数は35人にまで増えていた。既存モデルとの競合を恐れたドイツの自動車産業界からの抵抗もあったが、フォルクスワーゲンプロジェクトは着々と進行していた。2台のフォルクスワーゲン タイプ60プロトタイプはシュトゥットガルトのフォイヤーバッハ通りのポルシェ邸のガレージで製造された。当時V1と呼ばれた走行可能な最初の車は、1935年7月3日にドイツ帝国自動車産業連盟(RDA)の委員会に披露され、2つ目の試験車両であるV2は12月22日に初走行を行い、12月29日にはV1プロトタイプとともにミュンヘンでアドルフ・ヒットラーにデモンストレーションされている。

自動車の開発作業と平行して、ポルシェGmbHは前年12月から他の分野でも作業を進めていた。ミュンヘンを拠点とするズュート ブレムゼAG用に1000 PSの航空機エンジン(タイプ55)が設計されたほか、ドイツ航空宇宙試験所(DVL)からは32気筒および16気筒航空機エンジン(社内での呼称はタイプ70およびタイプ72)を受注している。

1936年2月、”V3”と呼ばれたフォルクスワーゲンのさらに3台のプロトタイプを製造するための作業がスタートしたが、ドイツ帝国自動車産業連盟(RDA)からの抵抗が激しさを増し、RDAの議長ロベルト・アルマースは試作車に関する遅延と技術的な問題について激しい非難を浴びせた。しかし、フォルクスワーゲンをドイツの自動車メーカー数社で合同で製造するという当初の考えとは逆に、アドルフ・ヒットラーは7月4日、独立したフォルクスワーゲン工場を建設し、その計画をフェルディナンド・ポルシェ博士に委託する決定を下したのである。

アメリカの生産方式について詳しい情報を得るため、10月1日、ポルシェ博士と博士の甥で個人秘書だったギスレーヌ・カエスは6週間の視察旅行のためアメリカ合衆国に出発した。デトロイトではフォードとゼネラルモーターズの現代的な生産施設を視察、ドイツに戻るとポルシェ博士は12月18日、”自動車製造に対する傑出した貢献”のためにオーストリア貿易連合からヴィルヘルム・エクスナー勲章を贈られている。

フォルクスワーゲン プロトタイプV3は各車両とも広範囲にわたる耐久試験を課せられながら、大きな不具合は一切発生することなく、12月中旬までに走行距離は5万kmに達した。このテストは、ポルシェGmbHから派遣されたテストドライバーに、RDAの技術オブザーバーが付き添う形で行われている。

1937年3月11日、ダイムラー・ベンツAGは自動車コンポーネントの技術開発に加え、タイプ80”Rekordwagen”(記録車両)の設計を依頼した。これは特殊な3500 PSの航空機エンジンにより自動車速度の世界記録を破ることを意図したクルマである。同じ時期、ダイムラー・ベンツはRDAのために30台のフォルクスワーゲン タイプW30プロトタイプを製造した。5月15日、ナチス親衛隊(SS)の車両分隊も参加し、1年間の試験走行プログラムがスタート。技術的な指揮を執ったのはフェルディナンドの息子フェリー・ポルシェで、走行距離は240万km以上に及んだ。

5月18日、ドイツ労働戦線(DAF)の支援のもと、ドイツ国民車(フォルクスワーゲン)の製造を準備するための会社として”ドイツ国民車準備有限会社(Gezuvor)”がベルリンに設立された。フェルディナンド・ポルシェ博士も3人の取締役のうちの一人として、未来のフォルクスワーゲン工場と”歓喜力行団(KdF)の車”のホームタウンの計画と技術について、正式な責任者となった。

6月26日、ポルシェ博士は息子フェリーと甥ギスレーヌ・カエス、および”Gezuvor”の他の2人の取締役であるボード・ラフェレンツとヤーコプ・ヴェルリーンを伴い、2度目の米国視察旅行に出発。この旅行の目的は特殊な機械の購入に加え、フォルクスワーゲン工場のための生産のスペシャリストを雇い入れることであった。

11月24日、12psの空冷2気筒エンジンを搭載した小型トラクター、タイプ110の設計が始まった。これは、のちに”フォルクストラクター”や第2次世界大戦後に製造されたポルシェ ディーゼルトラクターのベースとなる。

1937年も終わりにさしかかった頃、”Dr. Ing. h.c. F. Porsche GmbH”は法人形態を変更し、合資会社(KG)とした。代表はフェルディナンド・ポルシェ博士で、共同出資者となったのは弁護士アントン・ピエヒ、ハンス・ファイダー・フォン・マルベルク男爵、フェリー・ポルシェ、ルイーズ・ピエヒである。

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