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サッカー長谷部誠の藤枝東高校時代…恩師「日本代表になるなんて1パーセントも考えていなかった。だから誰にでもチャンスはある」

アットエス

サッカーの元日本代表主将の長谷部誠選手が今季限りでの現役引退を表明しました。SBSテレビ「みなスポ」は藤枝東高時代の恩師、服部康雄さん(静岡県サッカー協会副会長)にインタビューを行い、当時の思い出を振り返ってもらいました。(2024年4月18日取材)

ー長谷部選手が昨日、引退発表しました、服部先生には連絡がありましたか?
先週、長谷部自身から来週か再来週に発表しますと連絡がありました。国際電話で夕方に電話が来て「悩んでるのではなくて、決めました」ということでした。

ー服部先生はどんな言葉をかけたんですか?
「まだ試合に出てるんだから、まだやればいいじゃないか。試合に使ってもらっているのだったらまだまだやれるじゃないか」という話をしました。

だけど、出場しない試合の間隔が長くなっているということで決断しましたと。そうしたら、もう「お疲れさん」しかないですからね。本人は「他のチームに行けばまだやれる自信はあります」と言っていましたが、やっぱりフランクフルトで終わりたいという気持ちが強かったんじゃないかなと思います。

ー服部先生はどんな心境でしたか?
とうとうきたなと。40歳まで現役でやったということ、それも本場のドイツ一部で最後までやったということは素晴らしいことだと思います。考えられないですね。

長谷部の高校時代を振り返る服部さん


ー高校時代、長谷部選手はどんな生徒でしたか?
茶目っ気のある勝ち気な生徒。今のような人格者、誰もが羨むような素晴らしい人っていう感じではなかったですよね。高校の時はキャプテンでも何でもありませんでした。

ー長谷部選手は最終的に3年時にインターハイ全国準優勝までチームを導いたわけですが、入学当初はどんな選手だったのですか?
中学は地元の青島中学校で、当時トレーニングセンターという週1回、県中西部地域の能力のある選手を集めて練習会みたいなものをやっていて、長谷部もその時のメンバーにいました。

素晴らしく光るものがあったというわけではないですが、時折見せるスルーパスとか、ドリブルは面白いものを持っていました。

ー入学した当初、「プロになるな」と思うような選手だったのですか?
とんでもないですね。その他大勢の中の一人でした。本人も「1年の頃はグラウンドに石灰でラインを引く係だったんですよ」と言っていました。まあ全然目立たないし、もちろん試合にも出なかった。

私も何年か前に「長谷部はいつから試合に出たっけ?」と聞いてしまいました。「2年の途中からですよ」と本人は言っていましたが、私はいつから試合に出たかも覚えてないぐらいの選手だったんですよね。

ー何が長谷部選手の成長を支えたと考えますか?
基本技術はしっかりしたものがありましたけど、2年生の後半くらいからぐんぐんと伸びていったと思います。彼自身に聞いてみなければ分からないですが、一番刺激になったのは、浦和レッズから話が来た時ですかね。

当時の浦和レッズのスカウトが藤枝東高校のOBでした。高校2年の正月ぐらいにスカウトが私のところに来て、「ちょっと継続して長谷部を見させてもらいたい。一応その旨を本人に伝えてください」と言われて。「分かったよ。俺は(プロは)無理だと思うよ」と返しました。

それでも「伝えるよ」と言いながら、私も長谷部に伝えるのを忘れてしまって…。

3年生のゴールデンウイークの頃かな。インターハイ予選が始まってきた時に、また浦和レッズのスカウトが来て、「服部先生、あの話どうでしたか」って。「あの話って何だ?」って言ったら「いや、長谷部の話です」と言われて。

「ああ、そういえば言ってたな。伝えるのを忘れてた。今から伝えるよ」と言って、長谷部を呼んで、スカウトから直に長谷部に話をしてもらった。その頃とにかく、ぐんぐんぐんぐん上手くなっていったから、やっぱりそれがきっかけでもあるのかなと思いますね。

ー長谷部選手のサッカーに取り組む姿勢に関しては、他の選手と違いはあったのですか?
全くないですね(笑)練習が終われば一目散に帰るし、みんなは自主練とかやってたけど。

ただ、あとで聞いてみると、練習が終わってから中学校時代の友達を誘ってフットサルをやっていたみたいですけどね。まあ遊びのフットサルだと思います(笑)

自主練習をやるとか、朝早く来て黙々と1人で練習するとか、絶対しないタイプですからね。だから「誰にもチャンスがある」っていうのは長谷部自身が一番分かっているんじゃないかなと思います。

藤枝東高のインターハイ準優勝に貢献した長谷部(後列左)


その頃の藤枝東は上にも下にも世代別の日本代表選手が結構いたんですよ。長谷部が3年生の時のSBSカップ(2001年)では、U-18日本代表に元ジュビロ磐田の成岡翔や大井健太郎(ともに長谷部選手の一学年下)が入っていて、長谷部自身は静岡県代表(静岡ユース)でした。

それで静岡ユース対U-18日本代表の試合があって、私も両方に藤枝東の選手がいたので、もちろん観戦していました。その試合を冷静に見ても、その試合に出ていた22人の中で一番光るプレーをしていたのは長谷部だった。

それで試合が終わった後に、U-18日本代表の監督を務めていた田嶋幸三さん(前日本サッカー協会会長)に話をした。長谷部は早生まれで1個下の代の日本代表に入る資格があったので、「長谷部が早生まれなのを知っているか。俺はどう見ても今日の試合の中であいつが一番うまかったと思う」と直訴したことは覚えています。

その後も、藤枝東には20〜30人くらい世代別日本代表に選ばれた選手がいましたが、長谷部は私の口から実際に直訴した唯一の選手ですね。

SBSカップに静岡県代表で出場した長谷部


ー最初はAチームにも入れないような選手が2年生で浦和レッズから声が掛かり、ステップアップして日本代表になるというのは、普通に考えるとなかなかないような気がします。
本人も当初はプロ入りは考えてなくて、大学進学を希望していました。当時はインターハイが終わると毎年生徒と面談をして、どこに行きたいのか聞いていました。長谷部は「青山学院大に行きたいです」と。

でも、やっぱりしばらくして「レッズに行きたい」と。私もレッズに入ってすぐにレギュラーを取るのは無理だと思いましたが、まあ何年かすれば試合に出られるんじゃないかなとは思っていました。

ただ、それが日本代表になったり、キャプテンを務めたり、ましてやワールドカップに3回も出たりする選手になるとは、私自身も1パーセントも考えてなかったし、長谷部自身も考えてなかったと思います。

ー何が長谷部選手をそこまで引き上げたと服部先生は感じていますか?
やっぱり、常に周囲の状況を考えて、監督がやりたいサッカーを把握して、それに合うプレーを選択して堅実にやっていったから…。まあそれでもなかなかあそこまではならないと思うので、本人に聞いてもらった方がいいですね。

ー先生自身は彼の活躍を見ていてどう思われていましたか。
最初はね、ミスしないだろうかとか、コメントで変なことを言わないだろうかとかね(笑)やっぱり心配していましたけども。今は堂々と、正しいことをしっかりと述べてくれてますし、率直にびっくりしています。

ー日本代表のキャプテンになり、全国の子どもたちに夢を与えるような存在になったと思います。
長谷部がなれたのだから、誰にもチャンスがあると言いたいです、私は。そう言うと長谷部に失礼に聞こえるかもしれませんが、素晴らしい資質があったかどうかと言われると本当に他の生徒と変わらなかった。

プレーを見ていて光るものはあったけれども、全てが素晴らしいかと言うとそうでもなかった。長谷部以上の能力を持った選手はいました。

やっぱりあそこまで輝けたのは、長谷部自身が継続して常に100パーセントでやれたからこそだと思います。だから誰にでもチャンスがあるんじゃないかなと思います。誰しもが長谷部のようになれる可能性は持ってると思いますね。

ー長谷部選手に今後どのようなことを期待したいですか?
ニュースでは指導者の道へとありましたが、電話があった時に私が「指導者をやるのか」と聞いたら「まだわからないです。まだ決めてません」と。

「やればいいじゃないか」と言ったら、「先生、僕は高校卒業してJリーグに入って、その後ドイツに来て、サッカーしかやってないですよ。そういう世界しか見ていない」と。「なにが自分に合っているか分からないし、何がやりたいか分からない」と言っていました。

フランクフルトとの契約の中にも現役が終わった後に多少、何カ月間か休みをもらえるという契約も入っているらしく、数カ月間いろんな国をまわって、今後について考えていきたいと言っていました。しっかり、じっくり考えて、またサッカーの世界に戻ってくると思います。

また新しいことに是非チャレンジしてもらいたいなと思います。ゆくゆくは日本サッカーになんらかの形で貢献してもらいたいですね。日本代表の監督になるのか、あるいはサッカー協会の会長になるのか。そういう流れの中に乗っちゃっているかなと、そんな感じがします。

ー長谷部選手がオフシーズンに日本に帰ってきた時、どんな声をかけたいですか?
会った時には気楽な話だけですけどね。前回は「日本に帰ってきてお前に文句を言う人はいないだろう」と言ったら「いないです」と言ったので、「おれは最後まで、死ぬまで言ってやるよ」と言ってありますので(笑)また何らかで発破をかけていきたいと思います。

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