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第35回【私を映画に連れてって!】容姿、顔とのギャップである天然さが映画的な印象を与える夏目雅子、その天然さをもオーラの一つになる桃井かおりなどすばらしき日本の「映画女優」

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第35回【私を映画に連れてって!】容姿、顔とのギャップである天然さが映画的な印象を与える夏目雅子、その天然さをもオーラの一つになる桃井かおりなどすばらしき日本の「映画女優」

1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。

 たくさんの女優と仕事をしてきたが、「映画女優」としてのオーラを感じる人はそんなに多くなかったように思う。
 昭和の時代は、映画は35ミリフィルムで撮影し、スクリーンで投影される。初期はテレビも存在しなかった。その後のビデオカメラ撮影のテレビ画面に比べれば、奥行きはあるが、クリアではなく、ぼんやりした印象もあった。それでもフィルムの画像の実力は今の4Kから5K程度の画質(解像度)を持っていたと言われているので、21世紀になり、テレビカメラがやっと追いついたとも言える。

「映画」と「テレビ」の区分けがはっきりしていた。テレビもデジタル時代に入り、画面も大きくなっていく。14インチが主流だった70年代から徐々に20、30、40……そしてぼくも今は65インチモニターで見ている。デジタル時代になると女優さんの皺が目立って大変なことになる……という悲観的な危惧論も登場したが、80代の女優さんたちは元気に現役で活躍されているし、92歳の黒柳徹子さんとは毎日、画面でお会い出来る。

 ぼくが、映画の世界に参加した最初の映画が『南極物語』(1983/蔵原惟繕監督)だった。初めて高倉健さんにお会いした時は、まぎれもなく「映画俳優」「映画スター」そのものだった。振る舞い、オーラ、すべてにおいて「銀幕スター」であったし、当時は出演もほとんど映画であったので、誰も「テレビ俳優」と言う人はいなかっただろう。

 そこで初めて出会ったのが、ぼくの1つ歳上だった夏目雅子さんだ。特に親しい関係はなかったが、続けて『瀬戸内少年野球団』(1984/篠田正浩監督)に出演してもらい、宣伝担当のようなこともしたので顔を合わす機会は多かった。『南極物語』の撮影時、彼女は24歳。僕は23歳ということになる。公開映画としては『瀬戸内少年野球団』が最後になるのだろうか。27歳で逝ってしまった。

 ぼくは映画でしか一緒に仕事をしていないので、「映画女優」としての印象が大きい。『鬼龍院花子の生涯』(1982/五社英雄監督)、『魚影の群れ』(1983/相米慎二監督)など多くの映画作品がある。ただ、振り返ってみると、映画よりもはるかに多くのテレビドラマに出演しているし、舞台にも出ている。『鬼龍院』も『魚影』も主演は仲代達矢、緒形拳なのでヒロイン役と言えるだろうか。大河ドラマ(NHK)から「西遊記」(NTV/1978&1980/三蔵法師役)、「ザ・商社」(1980/NHK/和田勉演出)など、印象にも残るたくさんのドラマがある。ぼくが夏目雅子だと最初に気づいたのは「クッキーフェイス」(1977/カネボウ化粧品)のCMだった。亡くなってからも「PIXEL」(1996/キャノン)などのCMにも登場している。

▲1985年9月11日、白血病により27歳という女優としても満開の時期に生涯を閉じた夏目雅子。3回忌のときに、当時担当していた雑誌で彼女の特集を組むにあたり、『瀬戸内少年野球団』でメガホンをとった篠田正浩監督に話をうかがった。白いブラウスに紺のスカートという何気ない服装をしたときに、女優の資質があるかどうかが見えてくるが、夏目雅子はまさに女優だった、と篠田監督は答えた。そして、『源氏物語』の女主人公たちの誰を演じさせてみたいかと質問すると、すべてを夏目雅子一人で撮ってみたい、夏目雅子はそれができる女優だとも言っていた。夏目は77年に『トラック野郎・男一匹桃次郎』のマドンナ役で映画初出演以来、舛田利雄監督『二百三高地』、「なめたらいかんぜよ」のセリフが流行語にもなり、ブルーリボン賞主演女優賞に輝いた五社英雄監督『鬼龍院花子の生涯』、森崎東監督『時代屋の女房』、森繁久彌と共演の森谷司郎監督『小説 吉田学校』、相米慎二監督『魚影の群れ』など、寡作ながらも映画女優として確かな印象を観る者に刻み込んだ。

 それでも、現在でも「心に残る映画女優」等のアンケートなどではトップ3に入ったりする。

 ぼくも、同じような気持ちである。スクリーンの中の印象が強く残っている。『瀬戸内少年野球団』もメインは少年少女役の俳優達と言っても良いが、教師役の彼女は印象深い。

 短い期間だったが、何度かタクシーで自宅まで送って行ったことがあった。そこでの会話や動作は今でも脳裏に残っているが、オーラというより、その「天然さ」が映画的だったという記憶がある。言葉に表すのも難しいが常に自分の本能、或いは天性に基づいて生きている……。自宅近辺で「ダイエー寄っていこうかな……」と言われたが、夜中だったので当然、通り過ぎてしまったが……。容姿、顔とのギャップも何故か「映画的」だと思った。型にはまらず、演じているその役が最も輝いて、魅力的に見える。主演とか自分の名前がトップタイトルかなどは彼女に関係ないと感じた。その後、こういう人には出会わなかった。

 今も生きていたら……とたまに思い出すことがある。

 ぼくが高校生の時の「アイドル」的な存在だったのが桃井かおりさんだ。『赤い鳥逃げた?』(1973/藤田敏八監督)や『青春の蹉跌』(1974/神代辰巳監督)など多くの映画にも出演していたが、映画を観たのは1977年に東京の大学生になってからだ。ほとんどテレビドラマでチェックしていたのだろう。

 映画で初めて御一緒したのは何故か『おニャン子・ザ・ムービー 危機イッパツ!』(1986/原田眞人監督)で、「これが『生(ナマ)』桃井かおり!』」だと感じたことは覚えている。僕はAPで、その時、いつか自分がプロデューサーになったら彼女と映画をやろう! と心の中で決めた。意外に早くチャンスは訪れ『木村家の人びと』(1988/滝田洋二郎監督)の主演をやってもらい、本人が望んだブルーリボン主演女優賞に輝いた時はこちらも嬉しかった。

 その後『スワロウテイル』(1996/岩井俊二監督)や『異邦人たち』(2000/スタンリー・クワン監督)など幾つかの映画に出演してもらった。

 彼女の持つ「天然さ」も映画女優としての魅力の1つだと思う。『木村家の人びと』で共演してもらった清水ミチコさんの、その後モノマネでの「桃井かおり」を見るたびに、あまりに特徴をとらえているので、ぼくの今の印象はモノマネの桃井かおりが焼き付いてしまっているかもしれないが。

 桃井さんは天然さもオーラの一つの要素であるが、実は探求心が強く、勉強家でもある。新しい才能の発見も、ぼくなんかより早く、鋭く、「この新人監督は才能ある!」と電話で連絡してくれることもあった。一方で、LAから「あの人の連絡先わかるう?」と気軽に? 携帯にかかってくることもあった。自分が良い(出演したい)と思う監督ならウディ・アレンでもダイレクトにアプローチする人である。『SAYURI』(2005/ロブ・マーシャル監督)出演あたりからは海外にも目を向け、これからも世界で「日本の映画女優」として活躍してほしい。

▲1971年に市川崑監督『愛ふたたび』で、浅丘ルリ子の妹役で映画デビューした桃井かおり。74年には長谷川和彦脚本、神代辰巳監督『青春の蹉跌』で、萩原健一と共演し、作品はキネマ旬報ベスト・テン日本映画4位に輝いた。77年には山田洋次監督『幸福の黄色いハンカチ』でブルーリボン賞、キネマ旬報ベスト・テン、日本アカデミー賞の助演女優賞を受賞。79年の東陽一監督『もう頬づえはつかない』では、ブルーリボン賞、毎日映画コンクール、キネマ旬報ベスト・テン、日本アカデミー賞などの主演女優賞を受賞している。さらに88年の滝田洋二郎監督『木村家の人びと』、97年の市川準監督『東京夜曲』では、ブルーリボン賞、キネマ旬報ベスト・テンの主演女優賞を受賞と、日本映画史に映画女優としての結果を記している。山田洋次監督『男はつらいよ 翔んでる寅次郎』、黒澤明監督『影武者』、今村昌平監督『ええじゃないか』、蔵原惟繕監督『青春の門 自立篇』、野村芳太郎監督『疑惑』、大竹しのぶとの対峙シーンが印象に残った森田芳光監督『阿修羅のごとく』などさまざまな監督作品に出演し映画女優の肩書にふさわしい活動をしている。2006年には『無花果の顔』で長編映画監督デビューも果たした。2005年公開のハリウッド映画『SAYURI』への出演を機に、2006年にアメリカ合衆国映画俳優組合に加入し、活躍の場をハリウッドに広げた。

 高倉健さんの影響なのか、若い頃は「映画俳優」はあまりテレビに出ない方が良いんじゃないか……と勝手に思っていたこともあった。健さんには『南極物語』の宣伝でフジテレビの番組に出演してもらうこともなかった。

 今も、映画を中心に仕事をしてきているので、その意識はまだ少し、残っているかもしれない。真田広之さんや大沢たかおさんとは何本も一緒に映画をやった。俳優にとって「演じる」ということで大別すれば、「映画」「テレビ」「舞台」の三つだろうか。そこにはそれぞれのメディア、表現の特徴があり、評価をするのは観客だったり、第三者である。自分の表現、求められる表現の場で個性を発揮し、才能を磨くのが最も相応しいと思うようにもなった気がする。「SHOGUN将軍」(2024)などはジャンルを超えた作品で評価を得たとも言えよう。

 それでも、『花様年華』(2000/ウォン・カーワイ監督)のマギー・チャンや、『紅いコーリャン』(1987/チャン・イーモウ監督)のコン・リー、或いは『羊たちの沈黙』(1991/ジョナサン・デミ監督)のジョディ・フォスターらの映画を観て、実際に会ったりすると、その存在感やオーラには圧倒されたこともあった。

 思えば、大学生の時の憧れだった『青春の殺人者』(1976/長谷川和彦監督)の原田美枝子さん、『南極物語』に出演してもらった荻野目慶子さんを『奇跡の人』の舞台で初めて観た時の感動、他にも、女優としての壮大なパワーを持った人たちをたくさん見てきた。

高校入学の1974年、家城巳代治監督『恋は緑の風の中』で正式な映画デビューを果たし、みずみずしい魅力を発散させていた原田美枝子。76年には増村保造監督『大地の子守歌』や水谷豊主演、長谷川和彦監督『青春の殺人者』などに出演し、10代にしてブルーリボン賞、キネマ旬報ベスト・テンなどで主演女優賞を受賞した。98年の話題作平山秀幸(『青春の殺人者』には助監督としてついた)監督『愛を乞うひと』では、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞をはじめ、ブルーリボン賞、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、報知映画賞、ヨコハマ映画祭などで主演女優賞を軒並み受賞という快挙だった。萩原健一主演、神代辰巳『もどり川』、黒澤明『乱』『夢』、深作欣二『火宅の人』(日本アカデミー賞最優秀助演女優賞)、熊井啓『式部物語』、山田洋次『息子』、小泉堯史『雨あがる』(日本アカデミー賞最優秀助演女優賞)、篠原哲雄『木曜組曲』、佐々部清『半落ち』、東陽一『絵の中のぼくの村 Village of Dreams』(キネマ旬報ベスト・テン、ブルーリボン賞、、報知映画賞、日本映画批評家大賞主演女優賞)、三谷幸喜『THE 有頂天ホテル』、石井裕也『ぼくたちの家族』など、日本映画の現在を語るのに欠かせない映画女優である

『火まつり』(1985/柳町光男監督)の太地喜和子さん、溝口健二、川島雄三監督らの映画で若尾文子さんを観た時など、数えきれないほどの映画体験を、女優を通して感情移入、感動をさせてもらってきたのである。

杉村春子の後継者と期待されていた文学座の女優・太地喜和子。1992年に、静岡県伊東市での『唐人お吉』公演中に、乗用車が桟橋から転落する事故により死去。舞台を中心に活躍する舞台女優だが、二代目中村吉右衛門、乙羽信子共演の新藤兼人『藪の中の黒猫』、篠田正浩『無頼漢』、増村保造『やくざ絶唱』、吉田喜重『告白的女優論』、山田洋次『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』、市川崑『獄門島』、山本薩夫『皇帝のいない八月』など映画女優としても唯一無二の魅力をスクリーンから放っていた。特に、自然と人間と神が織り成す神秘的な世界と現実が融合した北大路欣也主演、中上健次脚本、柳町光男『火まつり』でのしたたかなスナックのホステス役はいまでも記憶に残る。

 
 良いニュースが飛び込んできた。今年のカンヌ国際映画祭で日本映画が3本、コンペティション部門に選出された。是枝裕和監督の『箱の中の羊』は綾瀬はるか、濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』は岡本多緒、深田晃司監督の『ナギダイアリー』は松たか子。主演女優たちの活躍が楽しみだ。

 今、合作映画製作に参加したりしているが、これからもっと日本発の映画で、世界中で観てもらえる映画の中で、日本の女優が羽ばたいて行ってくれることを願っている。

▲京マチ子、山本富士子と並ぶ大映の看板女優で、出演本数は260本以上を数える映画女優・若尾文子。溝口健二『祇園囃子』『赤線地帯』、小津安二郎『浮草』、吉村公三郎『越前竹人形』、市川崑『日本橋』『ぼんち』、田坂具隆『湖の琴』、豊田四郎『波影』、今井正『不信のとき』、勝新太郎、三船敏郎と共演の岡本喜八『座頭市と用心棒』、山本薩夫『氷点』、山田洋次『男はつらいよ 純情篇』など数々の名監督とタッグを組んでいる。なかでも増村保造監督作品は『青空娘』を皮切りに『清作の妻』『妻は告白する』『「女の小箱」より夫が見た』『刺青』『卍』『妻二人』『華岡青洲の妻』『千羽鶴』など20作におよぶ。また、川島雄三監督作品には『女は二度生まれる』『しとやかな獣』『雁の寺』の3作に出演し女優としての高い評価を受けている。1961年と66年にブルーリボン賞、キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞、68年にキネマ旬報ベスト・テン主演女優賞を、60年代には映画賞をたびたび受賞している。日本映画黄金期と呼ばれた時代の映画女優である。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。

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