別所長治はなぜ信長に背いたのか?秀吉の兵糧攻めに散った若き城主の最期【豊臣兄弟!】
大河ドラマ「豊臣兄弟!」皆さんも楽しく観ていますか?
第21回放送「風雲!竹田城」では、播磨の大名・別所長治(下川恭平)が、織田派の別所重棟(忍成修吾)と毛利派の別所賀相(田中美央)の板挟みになっていました。
どっちの顔も立てようとして、どっちからも敵視されることになりはすまいか……若き長治の「バランス外交」に、いささかの不安を禁じ得ません。
ところで、実在した別所長治(べっしょ ながはる)はどのような人物で、どのような生涯をたどったのでしょうか。
今回は別所長治の生涯をたどってみたいと思います。皆さんが大河ドラマ「豊臣兄弟!」を楽しむご参考になれば嬉しいです。
はじめは友好的だった長治
別所長治は弘治元年(1555年)または永禄元年(1558年)、播磨の大名・別所安治(やすはる)と、浦上氏出身とされる女性の間に生まれました。
元服して通称を小三郎と名乗り、元亀元年(1570年)にまだ若くして家督を継ぎます。
そのため、叔父の別所賀相(吉親)と別所重棟(重宗)が後見しました。
当時京都で勢力をのばしていた織田信長に早くから従い、天正3年(1575年)に信長と謁見し、その後もしばしば上洛して挨拶を欠かしません。
天正5年(1577年)に信長が紀州征伐(雑賀攻め)へ乗り出すと、長治もこれに加勢しました。ただし参陣したのは叔父の重棟だったと考えられています。
同年に秀吉が播磨平定に乗り込んで来ると、はじめ長治は秀吉に協力する態度を示していました。
しかし天正6年(1578年)3月初めごろ、長治は織田に叛旗を翻し、三木城(みきじょう。兵庫県三木市)に立て籠もったのです。
これまでずっと友好的だったのに、一体なぜでしょうか?
長治が謀叛を起こした理由とは
別所長治が叛旗を翻した理由については諸説あります。
・叔父の別所賀相にそそのかされた。
・毛利氏や足利義昭(尾上右近)から調略を受けた。
・他の播磨国衆から誘いを受けた。
・評定の場における進言が秀吉に軽く却下された。
・播磨国が秀吉に与えられるとの噂が広まった。
・名門出身でありながら成り上がりの秀吉に従うことが耐えられなかった。
・別所氏の支城を破却させられたことで危機感を覚えた。
これら諸説の根底には、播磨国衆の間に信長や秀吉の播磨統治に対する不満が鬱屈しており、長治もまた例外ではなかったのでしょう。
やはり播磨の盟主と仰ぐべきは、織田よりも毛利であろう。というわけで、長治たちは叛旗を翻したのでした。
従う者には優しい(かも知れない)が、逆らった者には容赦しない秀吉は、すぐさま三木城攻めに乗り出したのです。
なお後見人の一人であった重棟は、長治を説得し切れず、織田方に留まりました。
三木の干殺し
秀吉は三木城攻めに先だって、天正6年(1578年)4月に野口城(兵庫県加古川市)を、同年7月には神吉城(かんきじょう。同)そして志方城(しかたじょう。同市)を立て続けに攻略しました。
これにより三木城周辺の支城は次々と失われ、包囲網は大きく狭められていきます。
この期間中、長治は織田に通じた冷泉為純(れいぜい ためずみ)・冷泉為勝(ためかつ)父子が立て籠もる細川館(兵庫県三木市)を攻め滅ぼしました。
冷泉父子は秀吉に援軍を要請したものの見捨てられ、自刃して果てたのです。
その後、秀吉によって毛利氏からの兵站(補給路)が断たれてしまい、困窮する長治でしたが、指をくわえているばかりではありません。
天正7年(1579年)9月10日、毛利方は三木城への兵糧搬入を図り、これに呼応して長治らも城内から出撃し、織田勢に痛打を加えました。この時、織田の部将である谷衛好(たに もりよし)を討ち取っています。
しかしこれが秀吉を本気にさせたのか、その後は三木城に対する包囲をより厳重に固め、毛利氏や石山本願寺の援軍も近寄れないほどにしてしまいました。
後世「三木の干殺し(ひごろし/ほしごろし)」と呼ばれる過酷な兵糧攻めを受けて、長治は自らの首級と引き換えに、城兵の助命を要請します。
秀吉がこれを承諾したため、長治らは最期の酒宴を開いた後、妻子と共に自刃して果てました。
今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば
【歌意】今はもう怨みなどない。我が身と引き換えに、城兵みなを助けられるのだから。
辞世を詠んだ長治の介錯は家臣の三宅治忠(みやけ はるただ)が行い、また弟の別所友之(ともゆき)そして後見人であった別所賀相が共に自刃します。
時に天正8年(1580年)1月17日、享年26(または23)という若武者の最期でした。
遺徳を偲ぶ人々の営み
かくして戦国乱世の風雲に淘汰されてしまった別所長治ですが、その遺徳は地元の人々によって慕われ続けています。
長治夫妻の首塚がある雲龍寺(兵庫県三木市)では、祥月命日の1月17日に法要を営まれてきました。
ここでは三木の干殺しで飢餓に苦しんだ城兵たちが藁(わら)まで食った故事にちなみ、藁に見立てたうどんが振る舞われると言います。
また法界寺(兵庫県三木市)においては月命日に当たる4月17日に追悼法要が営まれ、往時の様子を伝える「三木合戦絵解き」が催されてきました。
他にも地元では毎年5月5日に別所公春祭が開催され、長治の遺徳を偲ぶ歌碑祭や武者行列などが執り行われているそうです。
終わりに
今回は播磨国の戦国大名・別所長治の生涯をたどってきました。
織田に叛旗を翻したことが破滅の原因と言えますが、それは結果論に過ぎず、長治の葛藤と決断を軽く扱うことはできません。
まだあどけなさの残る青年武将の最期が、大河ドラマ「豊臣兄弟!」ではどのように描かれるのでしょうか。下川恭平の好演に期待です!
参考文献
・谷口克広『〈戦争の日本史13〉信長の天下布武への道』吉川弘文館、2006年
・橘川真一『別所一族の興亡「播州太平記」と三木合戦』神戸新聞総合出版センター、2004年 他
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部