【作家・折原みと インタビュー】逗子で暮らし、横須賀・田浦で“役作り”を重ねる——折原みとのもうひとつの時間
JR田浦駅で降り、国道16号から横須賀らしい険しい「谷戸(やと)」の地形へと分け入っていくと、時間の単位がゆるむような場所に出会います。斜面に沿って建つ古い長屋、小川のせせらぎ、木立ちから落ちてくる鳥の声——。
ここが、横須賀市が取り組む「アーティスト村(HIRAKU)」だと、初めて訪れた人はすぐには気づかないかもしれません。
逗子の海が見える丘で暮らしながら、この谷戸にアトリエを構えているのが、漫画家としてデビューし、のちに小説の世界でも活躍を広げてきた作家の折原みとさんです。折原さんはいま、60代の暮らしを楽しみながら、“暮らすことそのもの”を取材にするように作品を生み出しています。
なぜ、逗子と横須賀・田浦という2つの場所を行き来しながら活動を続けているのか。
なぜ、この谷戸を舞台にした小説を構想しているのか。
そして、まだ書き上がっていない物語に、どんな思いを託しているのか。
静かな谷戸の午前、アンティークの家具に囲まれてうかがったのは、作品づくりの裏側と日々の生活のこと、これからをどう過ごしていきたいかという、等身大の言葉でした。
1.「人生でいちばん運動している」——弓道とバドミントン、“60代おひとりさま”の日常
「3年ぐらい前から弓道を始めたんです。人生でいちばん運動してますね、今」
そう笑う折原さん。運動とはあまり縁のなかった生活から一転、いまは身体を動かすことが日常の一部になりました。
弓道は、10代のころからの憧れだったそうです。
「ずっとやりたかったんですけど、どこでやればいいのかわからなくて。弓道って、部活以外だとなかなかきっかけがないじゃないですか」
転機になったのは、たまたま参拝に訪れた鶴岡八幡宮で、弓を持って歩く人を見かけたこと。「もしや弓道場があるのでは」と調べてみると、ちょうど年に一度の弓道教室の受講者募集が出ていました。教室を経て正式に門人となり、それ以来、八幡宮境内の歴史ある道場に通い続けています。
くわえて2025年9月には、ご近所の人たちとバドミントン部を結成しました。
弓を引き、バドミントンで汗を流す傍ら、インスタグラムのアカウント「mito|60代バツなしおひとりさま」では、逗子での暮らしを明るい言葉で発信し、好評を博しています。フォロワーとのやり取りや日々の投稿に時間を割くことも増えました。2025年12月には、エッセイ集『60代バツなしおひとりさま、毎日ごきげん暮らし』を発表しています。
「リールを作ったり、ストーリーズを上げたり、コメントに返事をしたり……インスタに取られる時間は増えましたね(笑)。でも、そのインスタがきっかけでエッセイのお話をいただいたり、“60代バツなし”をテーマにした連載が始まったりもしました」
10代・20代の読者を物語の世界へと導いてきた作家は、自身の年齢や暮らしをそのまま引き受けながら、その生活を言葉にする役割も担い始めています。
2.谷戸の空き家から生まれた「HIRAKU」という場
折原さんのアトリエがある一帯は、もともと昭和30年代に建てられた社宅や市営住宅が並ぶエリアでした。老朽化が進み、空き家も目立つようになった長屋群を横須賀市が改修し、芸術家たちの拠点としてよみがえらせたのが、「アーティスト村(HIRAKU)」です。
谷戸は、細い路地と急な坂道、階段が入り組む、横須賀らしい地形のひとつです。HIRAKUは、そうした谷戸のひとつに制作の場をひらき、芸術を通じた地域との交流を重ねながら、新しいコミュニティのかたちを育てていく取り組みとして、2018年から進められてきました。
現在、HIRAKUには、折原さんのほか、表現分野の異なる3名のアーティストが制作の拠点を構えています。作品づくりにとどまらず、ワークショップや地域イベントへの参加、子どもたちとの交流など、「この場所にアトリエを置くこと」そのものが、まちと関わる行為となっています。
3.横須賀・田浦の「アーティスト村」で、“役作り”として暮らす
初めてこの谷戸を訪れたときの印象を、折原さんははっきり覚えています。
「最初に来たとき、『昭和の炭鉱町みたい』って思ったんです。横須賀ってもっと都会のイメージがあったのに、どこか長野の山あいみたいな、“すごく田舎”っぽい感じがあって。ここを舞台に小説を書きたい、ってそのときもう決めていました」
過去に鎌倉・逗子・葉山を舞台にした小説を書いてきた折原さんは、次は横須賀を舞台にした作品を書きたいと考え、取材を始めました。しかし市域が広く、どこから描き始めるべきかは、なかなか定まりませんでした。
そんなときに知ったのが、田浦にあるアーティスト村の存在でした。
現地を訪ねたのは、まだ陶芸家が一人だけ入居していた頃。人の気配が少なく、荒れた長屋が並ぶ谷戸でしたが、その空気に強く惹かれました。
折原さんは、自ら横須賀市役所を訪ね、「プレゼン」をします。アーティスト村には、「地域への還元」という条件がありますが、「私は、横須賀を舞台にした小説を書くことが、いちばんの“お返し”だと思ったんです。その物語を通して、横須賀を広く知ってもらえたら」と説明したそうです。
横須賀・秋谷を舞台にした児童小説『うみねこ館の四姉妹』はすでに刊行されていますが、いま温めているのは、当初の構想であるこの谷戸そのものを舞台にした大人向けの小説です。
「プロットも、もう頭の中にはあります。ただ、一人称にするか三人称にするか、文体をどうするか。そういうところを、ずっと熟成させている感じですね」
「わりと私、なりきりタイプなんですよ」と、折原さん。「ここで生活しているっていうこと自体が、取材であり、“役作り”なんです」
週に一度ほど田浦に通い、草刈りや庭仕事をし、谷戸に生えているフキノトウを摘む。犬の散歩に来た近所の人と一緒に歩き、ときにはお茶を飲みながら話をする。
「実在の人物をモデルにした作品や、ドキュメンタリー性の強い仕事をするようになってから、すごく取材をするようになりました。頭の中で考えているだけじゃ、ダメだなと思ったんです。実際に会って、話を聞いて、生活を知るようになってから、書き方が変わりました」
取材中、アトリエの陽だまりでは、パートナーであるゴールデンレトリバーのハルちゃんが気持ちよさそうに寛いでいました。
谷戸の静けさと、ハルちゃんの体温と、窓から差し込む光。その場の空気ごと、珈琲の匂いとともに、取材の記憶に残りました。
4.空き家と家具と、「これからやりたいこと」
もうひとつ、田浦のアトリエでの暮らしが、折原さんの中で大きなテーマへと育っていることがあります。
それが、空き家と家具の話です。
アトリエの中に置かれた家具は、どこかヨーロッパの田舎町の家のような温度を帯びていますが——実は、そのほとんどすべてが「もらいもの」だといいます。
「ちょうどこの場所を借りるタイミングで、知り合いが“家じまい”をしていたんです。親御さんが亡くなったり、施設に入られたりして、実家を片づけないといけない年代ですよね、私たち。『家具いります?』って声をかけてもらって、いろんな家から、いろんな家具をもらってきて」
そのまま置くのではなく、色を塗り直したり、トーンをそろえたりしながら、自分の手でコーディネートしていきました。
「昔の家具って作りが全然違うし、年月を経た風合いがあるじゃないですか。捨てるにはもったいないものばかりで。家じまいって、家財の処分費だけで100万円単位でかかることもあるんです。それなら、“次の居場所”を見つけてあげたいなと思って」
結果として、このアトリエには「第二の人生」を送る家具たちが集まりました。
「家具を譲ってくださった方たちが、『捨てなくてすんで本当にうれしい』『また活躍の場所をもらえて、家具たちも喜んでいると思う』って言ってくれて。それが自分にとってもうれしくて、“こういうことを仕事にできないかな”って考えるようになりました」
頭の中にあるのは、「空き家」と「家じまい」と「新しい住み手」をつなぐような仕事です。
自分で事業を立ち上げるというよりは、ハウスメーカーや工務店などが空き家再生を手がけるときに、「家具や空間のコーディネートを担当する人」として関わるイメージだといいます。
「私はお金の計算が本当にダメなので(笑)、自分で会社をやったら絶対つぶすと思うんです。だから、そういうことをやる会社さんに『雇ってください』って言えるように、インテリアコーディネーターの資格を取ろうかな、と。資格がなくてもできるかもしれないけど、あったほうが説得力がありますよね」
そして、この「橋渡しの仕事」のイメージは、そのままこの谷戸を舞台にした新作小説のモチーフにもなっています。
「この谷戸にリサイクルショップのような場所があって、女の子がそこで家具を預かって、手を加えて、新しい持ち主のところへ送り出していく。そんな物語を書こうとしています」
5.「ホタル谷」と名づけられた、まだ書かれていない場所
取材を終えて谷戸を下り、JR田浦駅へ歩いていると、道ぞいを流れる小川にかかる小さな橋のたもとで、ホタルのイラストが描かれた看板が目に入りました。
初夏には、この川沿いや近くの「ホタルの里」で、ホタル観賞会が開かれる——そんな案内が添えられています。
折原さんは、アーティスト村のある谷戸を舞台にした構想中の小説で、あの場所に「ホタル谷」という名前を付けているそうです。
まだ書き上がっていない小説は、いま“役作り”の途中にあります。
弓道場で弓を引く時間、逗子での生活、田浦の谷戸でただ時を過ごす午後、空き家や家具について考えを巡らせるひととき。
その一つひとつが、これから書かれる物語の輪郭になっていきます。
折原みと プロフィール
1964年、茨城県石岡市生まれ。1985年に少女漫画家としてデビューし、恋愛漫画『るり色プリンセス』やファンタジー小説『アナトゥール星伝』シリーズなどで多くの読者を魅了してきた。
1987年7月には少女小説家としてデビュー。1990年刊行の『時の輝き』は110万部を超えるベストセラーとなり、のちに映画化された。
現在は神奈川県逗子市を拠点に、鎌倉を舞台にした『制服のころ、君に恋した。』、逗子を舞台にした『天国の郵便ポスト』、葉山を舞台にした『幸福のパズル』など、湘南の風景と人びとの暮らしを描く作品も手がけている。