吸血鬼は「悪」なのか?──小川公代さんと読む、『ドラキュラ』【NHK100分de名著】
人間か、怪物か。二項対立を疑い、乗り越える──ブラム・ストーカー『ドラキュラ』を、小川公代さんが解説
2025年10月のNHK『100分de名著』では、「吸血鬼もの」の原点として世界中で知られるゴシックホラーの傑作小説『ドラキュラ』を、上智大学教授の小川公代さんが紹介します。
アイルランドの作家、ブラム・ストーカーが1897年に発表した小説『ドラキュラ』は、スリルたっぷりのエンターテインメントとして楽しめる作品です。しかし実は、人間と怪物、善と悪、強者と弱者といった二項対立を疑い、乗り越えようとする意図を持って書かれた物語でもありました。世界でさまざまな対立が生まれているいまこそ、必読の書であると小川さんはいいます。
作者ストーカーはどのような背景をもとに、「ドラキュラ」というキャラクターを造形し、この小説を書いたのか──。現代の「ケア」の視点からも読み解いていくテキストから、イントロダクションを公開します。
文学によって声をあげる
ドラキュラ。この怪物を知らない人はおそらくいないのではないかと思います。黒いマントを翻し、鋭い歯で人間の首に嚙みつき、その血を吸って生きる吸血鬼。弱点は十字架とニンニクで、昼間は棺の中で眠っている。そんなイメージを多くの人が持っているだろうと思います。
吸血鬼ドラキュラはこれまで、映画、漫画、アニメなど多くの娯楽作品に描かれてきました。その原点にあるのが、ブラム・ストーカーというアイルランドの作家が一八九七年に発表した小説『ドラキュラ』です。
原点にあるというだけで、今回この小説を取り上げるのではありません。小説『ドラキュラ』は、いま必読の書なのです。いまこそ私たちはこの作品を読まなければならない。なぜなら、現代の私たちが陥りがちな二元論や二項対立を乗り越えようという意図を持って書かれた物語だからです。
『ドラキュラ』が二項対立を乗り越えると聞いて、「どういうこと?」と思った人は多いと思います。たしかに、私たちがパッと思い浮かべる『ドラキュラ』は、まさに二項対立の典型なのかもしれません。人間を穢す悪である吸血鬼ドラキュラを、理性を持った善なる人間たちが退治する。表面的にはそのような物語だと言えます。しかしそう見えても、実は怪物と人間、善と悪、強者と弱者といった、わかりやすい振り分けを否定する仕掛けが張り巡らされています。そこに、作者ブラム・ストーカーがこの小説を書いた意図が感じられます。
ブラム・ストーカーは、イギリスからアイルランドに移住した「アングロ・アイリッシュ」と呼ばれる人たちの子孫で、そのアイデンティティは非常に複雑です。宗教的には、圧倒的にカトリック教徒の多いアイルランドにあって、英国国教会(プロテスタント)に属する少数派。政治的には支配層でありながら、人数としては少数派。
さらに、ストーカーは同じアイルランド出身で近代社会に最初に公然と現れた同性愛者の作家オスカー・ワイルドと同様、セクシュアリティにおいても少数派でした。ただし、自分の性的指向を表に出さない同性愛者(カミングアウトしないゲイ)でした。しかも、妻フローレンス・ストーカー(旧姓バルカム)は、ワイルドのかつての婚約者でもありました。一八九七年に出版された『ドラキュラ』の執筆時期は、ワイルドが「著しい猥褻行為」で法廷にかけられて投獄された一八九五年から二年間と言われています。つまりストーカーにとっては、投獄されてしまった友人ワイルドの境遇は他人事ではなく、『ドラキュラ』の怪物には尊厳を奪われるマイノリティたちの境遇が重ねられている可能性があるのです。
「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉があります。十九世紀初めに活躍したイギリスの詩人ジョン・キーツによるもので、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、わかった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いの中にいられる能力のことを指します。簡単に答えを出さない、その状態に耐えられる能力のことです。
いま、このネガティブ・ケイパビリティが社会のさまざまな場面で注目されています。分断が進む現代だからこそ、簡単に敵/味方に分けない。競争にさらされる環境だからこそ、答えを急いで自分や他者を傷つけない。待つ。留保する。疑ってみる。ためらう。その力を養ってくれるのが、物語であり文学であると私は考えています。物語を読むことは、誰かの経験に裏打ちされた想像世界に向き合い、じっくり考えて耐え抜くプロセスだからです。
文学においてネガティブ・ケイパビリティを鍛錬するような物語は多く書かれてきました。『ドラキュラ』はその一つだと言えるでしょう。ストーカーが二元論に抵抗し続けたのは、誰かを簡単に「モンスター化」してしまうことに抵抗を感じていたからではないでしょうか。
私たちには、人間と怪物を二項対立で考えてしまう思考の癖があります。ストーカーの中にも、その自覚があったのかもしれません。彼は自身のアイデンティティの複雑性から、ものごとは簡単には割り切れないことも強く認識していました。「人間」であるという自負があっても、もしかすると周りの人たちからは「怪物」と思われる性質があるのではないか。反対に、規範から外れる人間のことを反射的に「怪物」と思ってしまう脳の動きがあるのではないだろうか。そう疑ってみることも大切だと思っていたのではないでしょうか。人間の中にも怪物性はあり、怪物の中にも人間性はある。そのようなハイブリッド性、“あわい”があるということです。
ストーカーが立っているのは、社会においてモンスター化されがちなマイノリティの人たちを貶める社会に物申す、という立場です。自分は誰かをモンスター視することはしたくない。そのためには、簡単に答えを出すことを留保するネガティブ・ケイパビリティの力を養おう──。そうした意図が込められているのが『ドラキュラ』です。つまりこの作品は非常に政治的な小説なのです。
ストーカーがこの小説を、社会における少数派がいまより何倍もモンスター視される時代に書いたというところがポイントです。そして私たちはいまこそこの小説を読まなければなりません。性急に答えを出したがり、不確実な“あわい”を受け入れようとしない私たちの脳は、さまざまな対立を生み出しています。そんな私たちの決めつけたがりの思考を、ストーカーはこの小説を通して摘発しているのです。
『ドラキュラ』は文学ジャンルで言うと、ゴシック小説に連なる作品です。ゴシック小説は十八〜十九世紀に流行した、神秘、幻想、怪奇などを描く小説です。私は「ゴシック」と呼ばれるジャンルを三十年にわたって研究していますが、いまもまったく飽きることはありません。なぜ飽きないのかと言うと、そこには時代に埋もれていく声が小説に書き残されているからです。
ゴシック小説には、その時代の弱者──声を奪われている存在──が誰なのかがわかるように描かれています。それは女性であったり、同性愛者であったり、障害者であったり、宗教マイノリティだったりします。そうした人たちの声と存在が、さまざまな形で刻まれているのです。
さきほども述べたように、『ドラキュラ』はエンターテインメント作品としても楽しめる、無類におもしろい恐怖小説です。しかし今回は、そこから一歩踏み込んで、なぜストーカーはこの小説を書いたのか、なぜこのようなキャラクターを造形したのか、なぜこのスタイルで小説を構成したのかといった、作者の意図に光を当てながら作品を読んでいきたいと思います。
そうすることで、なぜこの小説が百年以上も読み継がれ、さまざまなアダプテーション(翻案)に発展しているのか、現代の私たちにはどのような声として届き得るのかが見えてくるのではないでしょうか。
『100分de名著』テキストでは、「『ドラキュラ』の誕生」「排除される女性たち」「境界線上の人々」「近代VS前近代の戦い」という全4回のテーマで本書を読み解き、さらにもう一冊の名著として萩尾望都『ポーの一族』を紹介しています。
講師
小川公代(おがわ・きみよ)
上智大学教授
1972年和歌山県生まれ。ケンブリッジ大学政治社会学部卒業。グラスゴー大学博士課程修了(Ph.D.)。上智大学講師、准教授を経て現職。専門は、ロマン主義文学、および医学史。著書に『ケアの倫理とエンパワメント』『ケアする惑星』『翔ぶ女たち』(以上、講談社)、『世界文学をケアで読み解く』(朝日新聞出版)、『ゴシックと身体──想像力と解放の英文学』(松柏社)、『ケアの物語──フランケンシュタインからはじめる』(岩波新書)、訳書にシャーロット・ジョーンズ『エアスイミング』(幻戯書房)、シャーロット・ゴードン『メアリ・シェリー──『フランケンシュタイン』から〈共感の共同体〉へ』(白水社)など多数。
※刊行時の情報です
◆「NHK100分de名著 ブラム・ストーカー『ドラキュラ』2025年10月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※ 本書における『ドラキュラ』からの引用は、光文社古典新訳文庫版(唐戸信嘉訳、2023年)に拠ります。
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