#3 人生の目的は「連鎖」する──山本芳久さんが読む、アリストテレス『ニコマコス倫理学』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
山本芳久さんによるアリストテレス『ニコマコス倫理学』読み解き #3
天文学、生物学、詩学、政治学、論理学、形而上学などあらゆる分野の学問の基礎を確立し、「万学の祖」と呼ばれる古代ギリシャの哲学者アリストテレス(前384-前322)。
彼が「倫理学」という学問を歴史上初めて体系化した書物が『ニコマコス倫理学』です。
「倫理学」と訳されているギリシャ語は「人柄に関わる事柄」という意味で、彼が倫理学と呼ぶものは、義務や禁止といったルールを学ぶことではなく、どのような人柄を形成すれば幸福な人生、充実した人生を送ることができるのかを考察することでした。
『NHK「100分de名著」ブックス アリストテレス ニコマコス倫理学』では、「幸福とは何か」を多角的に考え抜いた『ニコマコス倫理学』を、「正義」や「欲望」、「生き方」や「友情」などの在り方について、現代人がわが身に引き付けて考えるための「実践の書」として、山本芳久さんが読み解いていきます。
今回は、2025年7月から全国の書店とNHK出版ECサイトで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第3回/全6回)。
第1章──倫理学とは何か より
人生の究極目的は何か?
「幸福論的倫理学」とは、人間の行為や存在の究極目的は幸福にあると考える倫理学です。つまり、人間が様々な行為をすること、またそもそも存在していること、その究極的な目的は幸福にあると考え、どのように幸福を実現していくかを考える倫理学です。幸福という「目的」が焦点になっているため、「目的論的倫理学」と言われることもあります。そこでは「善」が一つの大きなキーワードになります。「幸福とは最高善である」という言い方がされるように、幸福という最高に善いものを探求していくという立場が幸福論的倫理学です。
これとしばしば対比されるのが「義務論的倫理学」です。これは読んで字のごとく、「〇〇すべきだ」という義務や、「〇〇してはいけない」という禁止に基づいて倫理を考える学問です。その代表的論者がイマヌエル・カントです。カントは、人間は義務に基づいた行為をする必要があり、道徳法則に対する尊敬が重要であると主張します。
「倫理」あるいは「倫理学」という言葉を聞くと、そこに「義務論的」という修飾語が付いていなくても、この義務論的倫理学を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。倫理学とは「〇〇すべきだ」ということを追究する学問である。そのようなイメージが強いと思うのですが、そうではない、倫理学のもう一つの潮流である幸福論的倫理学について、『ニコマコス倫理学』を読みながら学んでみることによって、人生を前向きに生きるための知恵を獲得しようというのが本書の狙いです。
それでは早速、『ニコマコス倫理学』を読んでいきましょう。
まずは、第一巻「人生の目的」から第一章「目的の階層」を読んでみます。あらかじめことわっておきますが、日本語訳に付されている巻や章のタイトルは、すべて翻訳者によって付けられたもので、ギリシア語の原文にはこういった見出しのようなものはありません。本書で引用する『ニコマコス倫理学』の日本語訳(朴一功訳、京都大学学術出版会)の章タイトルは大変的確だと思いますが、アリストテレス自身が付けたものではないことを、念頭に置いていただければと思います。
「すべてみな何らかの善を目指している」
では、第一章「目的の階層」を読んでみます。優れた古典の冒頭部分は、多くの場合、その著作全体を象徴するような重要な一文(あるいは一段落)で始まっています。
あらゆる技術、あらゆる研究、同様にあらゆる行為も、選択も、すべてみな何らかの善を目指していると思われる。それゆえ、「善とはあらゆるものが目指すもの」と明言されたのは適切である。(中略)
また多くの行為や多くの技術、あるいは多くの知識があるのに応じて、当然、目的もまたそれだけ多くあることになる。たとえば、医術の目的は健康であり、造船術の目的は船、統帥術の目的は勝利、家政術の目的は富である。しかし、こうした技術のどれであれ、それらがある一つの能力のもとに従属する場合には、つまりたとえば、馬勒制作術をはじめ、その他すべての馬具制作術が、馬術に従属し、また今度は、この馬術やすべての戦闘行為が統帥術に従属するように、ちょうどそれと同じようにして、ある技術が他の技術に従属する場合には、そのあらゆる場合において、支配的な技術の目的の方が、この目的に従属する他のいかなる目的よりも望ましいのである。なぜなら、前者の目的のためにこそ、後者の目的もまた追求されるからである。
少し長くなりますが、続く第二章「最も善きものを対象とする学」の前半も読んでから内容を解説することにしましょう。
そこでもし、われわれが行なう事柄のうちに、われわれがそれ自体のために望み、また他のさまざまなものも、そのもののためにこそ望むような何らかの目的が存在するとすれば、そしてもしわれわれが必ずしもあらゆることを何か他のことのために選ぶ、というわけではないとすれば(なぜなら、そのような仕方で選ぶとすると、その過程は無限に進み、かくしてわれわれの欲求はむなしく、無意味なものになるだろうから)、明らかに、このような目的こそが善であり、しかも最も善きものであるだろう。
それゆえ、このような善を知ることは、われわれの人生にとっても重大な意味をもつはずであり、ちょうど弓を放つ人たちのようにして目標を定めることによって、われわれはなすべきことをいっそうよくなし遂げることができるのではないだろうか。もしそうだとすれば、そのような善とはそもそも何であり、どのような知識や能力の対象であるのかといったことについて、われわれは少なくともその輪郭だけでも把握するように努めなければなるまい。
目的は連鎖する
それでは、引用した部分を一緒に解読していきましょう。第一章では、目的には階層があることが示されます。アリストテレスは馬勒制作術や統帥術の例を出していますが、実感をもって読み進めるために、これらを現代の日常生活に置き換えてみます。
たとえば、勉強をしている高校生に、「何のために勉強しているの? あなたが勉強する目的は何?」と聞くとしましょう。いろいろな答え方があると思いますが、「志望大学に入るためです」というのが典型的な答えでしょう。「では、大学に入る目的は何?」と聞くと、これにも様々な答えがあると思いますが、「専門的な知識や技術を身につけるためです」といった答えが典型的なものでしょう。もっと続けることもできて、「専門的な知識や技術を身につける目的は?」と聞けば、「よい社会人になるため」という答えが返ってきたりする。
このように質問はどんどん続けることができるわけですが、永久に続いていくのかといえば、アリストテレスはそうではないと考えます。それが述べられているのが第二章の最初の部分です。「われわれが行なう事柄のうちに、われわれがそれ自体のために望み、また他のさまざまなものも、そのもののためにこそ望むような何らかの目的」が存在しないならば、「われわれの欲求はむなしく、無意味なものになるだろう」と言っています。
なぜ最終目的がないと困るのか。先ほどの例では、勉強することの目的が大学に入ることであり、大学に入ることの目的が専門知識を身につけることでした。この連鎖は逆方向にも見ることができます。つまり、大学に入るという目的があるからこそ勉強することに意味が出てくる。専門知識を身につけるという目的があるからこそ大学生活に張り合いが出てくる。大学に入ったはよいが何のために入ったのかわからないとなると、大学生活にも張り合いがなくなってしまいます。これは実際にしばしば起こることで、いわゆる「五月病」ですね。
この話を図「目的の連鎖」に示しました。一見してわかるように、行為の階層は、下にあるものが上にあるものに意味を与える構造になっています。「大学に入る」ことが「勉強する」ことに意味を与えるし、「専門的な知識や技術を身につける」ことが「大学に入る」ことに意味を与える。また「よい社会人になる」という目的が「専門的な知識や技術を身につける」ことに意味を与える。話は難しくありません。
著者
山本芳久(やまもと・よしひさ)
1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。主な著書に『トマス・アクィナス─理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞)、『世界は善に満ちている─トマス・アクィナス哲学講義』(新潮選書)、『キリスト教の核心をよむ』『愛の思想史』(共にNHK出版)、『危機の神学─「無関心というパンデミック」を超えて』(若松英輔氏との共著、文春新書)など多数。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス アリストテレス ニコマコス倫理学 「よく生きる」ための哲学』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書における『ニコマコス倫理学』の引用は、朴一功訳の京都大学学術出版会版に拠ります。
※本書は、「NHK100分de名著」において、2022年5月、および2023年10月に放送された「アリストテレス『ニコマコス倫理学』」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「アリストテレスとトマス・アクィナス──『ニコマコス倫理学』から『神学大全』へ」、読書案内などを収載したものです。