仁左衛門の菅丞相が奇跡を起こす名作『菅原伝授手習鑑』幸四郎・染五郎親子ほかWキャストの豪華配役で一挙上演!~歌舞伎座『秀山祭九月大歌舞伎』観劇レポート
2025年9月2日(火)に、歌舞伎座で『秀山祭九月大歌舞伎』が開幕した。演目は、歌舞伎の三大義太夫狂言のひとつに数えられる『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)だ。
太宰府へ流された菅丞相(かんしょうじょう。菅原道真)と、それを取り巻く人々の物語。一場面だけでも見ごたえがあり、人気の本作だが、このたびは「昼の部」と「夜の部」にわたり、「通し狂言」として一挙に上演する。
「昼の部」(11時開演)は、事の始まりを描く『加茂堤』、緊張感溢れる『筆法伝授』、そして親子の別れを描く『道明寺』まで。Aプロの模様をレポートする。「夜の部」(16時30分開演)は、次ページにてBプロをレポートする。梅王丸、松王丸、桜丸の三兄弟が辿る運命とは。
■序幕 加茂堤(かもづつみ)
ここで描かれるのは、帝の弟・斎世親王(中村米吉)と、右大臣の菅丞相(かんしょうじょう)の娘・苅屋姫(尾上左近)の逢引き。斎世親王に仕える桜丸(中村歌昇)は、親王が帝の病が治るよう参拝をした帰りに、加茂川のそばに牛車をとめて、苅屋姫との時間を作ってあげる。桜丸の妻・八重(坂東新悟)がそれを手伝う。しかし菅丞相を蹴落としたい左大臣・藤原時平(しへい)の部下、三善清行(坂東亀蔵)たちが現れて……。
左近の苅屋姫は、恥じらって袂に隠れるような素振り。まっすぐな色気が鮮烈だった。米吉の斎世親王は気品を保ちつつも、苅谷姫からのありったけの恋心を前にすると、「なんて可愛いんだ!」と表情がふとほころぶ。苅屋姫より、ずっと初心で微笑ましくなる。歌昇の桜丸は、主に尽くすことが幸せで堪らない様子。健やかな色気があり、立廻りになると、スッと美しい形でキマっていた。新悟の八重は、面倒見がよく素朴でチャーミング。牛車をひけば大真面目で一所懸命。すらりとした姿と愛らしさのギャップで楽しませる。
舞台や客席の明るい空気の中で、三善清行にも愛嬌を感じた。思い返せば花道を落ち延びる親王と苅屋姫は、すでに危機に瀕していた。切羽詰まった表情だった。しかし、しっとりとした美しさに見惚れるばかりだった。
■二幕目 筆法伝授(ひっぽうでんじゅ)
舞台は、菅丞相の館へ。菅丞相(片岡仁左衛門)が、菅家の筆法(書の奥義)を誰かに授けるよう勅命を受けた。弟子の左中弁希世(市村橘太郎)は、ぜひ自分に! と猛アピール。しかし菅丞相は、かつての弟子・武部源蔵(松本幸四郎)を呼び寄せて、その資質を見極めようとする。源蔵は、菅丞相に仕えていた頃、腰元と密かに恋仲となり勘当された身。今は寺子屋を営んでいた。急遽、招かれてやってくると……。
歌舞伎座の花道が畳の長廊下となり、揚幕は、この時だけ館の引き戸にかわっていた。静かに開いた戸から、武部源蔵が、かつては腰元で今は妻となった戸浪(中村時蔵)を伴いやってくる。重い足取りで、歩みを進める。
菅丞相の妻・園生の前(中村雀右衛門)と戸浪の、ともすれば社交辞令で終わりかねない対話からは、園生の前との関係性、源蔵夫婦の今がしみじみと立ち現れる。局の水無瀬(上村吉弥)の案内で、源蔵だけが丞相のいる学問所へ……。
仁左衛門は、数々の当り役を持つ。その中でも、菅丞相は特別な準備をして挑む役なのだそう。道真公ゆかりの天満宮を参拝し、公演期間中は牛肉を控えるという。いよいよ御簾があがると、その菅丞相が姿を見せた。ほとんど動くことなく、その身と拵えから生まれる真っ白な光で歌舞伎座を照らした。拍手しかけた手を、気づけば胸の前であわせていた。
そんな菅丞相を前に、源蔵は筆をとることになる。かつての師弟が対峙する神聖な時間……と思われたが、ここに橘太郎の希世も参加。希世は、俗物なのに高貴な装いが似合い、本当におじゃま虫なのに観る者を不快にさせず、この後、菅丞相の冠を直す役目もごく自然に担っていた。希世の妨害をかわしながら、幸四郎扮する源蔵が、実際に白紙から書き上げるのも本作の見どころ。源蔵は、筆を構えた時と刀を構えた時は精悍で、それ以外のときは何度も何度も平伏していた。平伏したまま、背中で多くを語っていた。緊張から喜び、そして落胆まで、感情の起伏が鮮やかに伝わった。
終盤、花道の菅丞相に「松嶋屋!」の大向うがかかった時にハッとした。その声で、菅丞相が仁左衛門だと思い出したからだ。芝居の菅丞相だと忘れてしまうほど、仁左衛門は菅丞相そのものだった。門外では、菅秀才(中村秀乃介)を守るべく命懸けの奮闘が繰り広げられる。梅王丸(中村橋之助)は、火の玉のような熱さで駆けこんで、その切羽詰まった焦燥感で、芝居の緊張を一気に高めた。再び仕えることが許されなかった源蔵の、仕えていないからこその全身全霊が胸をうった。
菅丞相は、1995年より本興行では仁左衛門だけが演じてきた。遡れば、幸四郎の曾祖父・七世松本幸四郎、祖父・初世松本白鸚も演じた役でもある。そして今月、Bプロの『筆法伝授』と『道明寺』にて、幸四郎が初役で菅丞相をつとめている。魁春の覚寿、孝太郎の立田の前たちが、両プログラムを通して舞台を支えている。
■三幕目 道明寺(どうみょうじ)
菅丞相は謀反の企てをでっちあげられ、太宰府への流罪が決まる。菅丞相のおば・覚寿(かくじゅ)が暮らす道明寺へ身を寄せ、船出を待つ。
中村魁春の覚寿は、娘の立田の前(片岡孝太郎)や苅谷姫(尾上左近)を前に、毅然とした態度で品格を見せる。杖を振り下ろすたび、娘ふたりの痛み以上に、覚寿の心の痛みが響いてきた。立田は妹を思いやり折檻を受け、夫の悪だくみに気づき命を奪われる。不幸な役どころだが、哀れさよりも、覚悟を決めた時の「さすが覚寿の娘!」と思わせる気高さが印象的だった。その夫が、宿禰太郎(尾上松緑)だ。大きな目玉で文楽人形のようなビジュアル。少し抜けた性格のおかげか、凄惨なシーンも血なまぐささを感じさせない。その父・土師兵衛(中村歌六)も残忍な悪知恵を働かせるが、お芝居が暗くなるばかりか、親子の掛け合いでユーモラスにみせた。
『道明寺』では、さらにファンタジー要素も見どころとなる。ただ、何よりもファンタジックだったのは、菅丞相を演じる仁左衛門だ。仁左衛門は、まず菅丞相の木像になる。物でも人間でもなく、木が呼吸するかのような息づかい。しかも、そこに在るものとして動き出す。生身の菅丞相となれば、静謐な威光を放つ。菅丞相といえば、後に「天神様」となる存在だ。しかし、ここでの菅丞相は、まだ血も涙もある人間なのだ。冷徹なほどに高潔で、権力への執着は微塵も感じさせなかった菅丞相が、家族との別れには涙で頬を濡らしていた。判官代の輝国(八代目尾上菊五郎)の清流のような清らかさが心を癒し、幕となった。
物語は「夜の部」(次ページ)へ続きます。
夜の部はBプロの模様をレポートする。エキサイティングな荒事の『車引』、三兄弟の実家のホームパーティが思いがけない顛末を迎える『賀の祝』、筆法を伝授された源蔵が窮地に立たされる『寺子屋』。
■四幕目 車引(くるまびき)
松王丸、梅王丸、桜丸は三つ子の兄弟だ。松王丸が仕える藤原時平の計略により、梅王丸の主・菅丞相は流罪に、桜丸の主・斎世親王は窮地に立たされる。時平が吉田神社にくると知った梅王丸と桜丸は、主の恨みを晴らすべく時平の牛車に襲い掛かろうとする。そこへ立ちはだかったのが、松王丸だった。Bプロの配役は松王丸に中村芝翫、梅王丸に尾上松緑、桜丸に中村錦之助、藤原時平に河原崎権十郎。杉王丸は、A・Bプロともに大谷廣太郎が安定の大らかさでつとめている。
序盤、笠をかぶっていた梅王丸と桜丸が立ち上がり、草履を脱いでぐっと力を溜めた時は、身体ごと引き寄せられるようで、思わず前のめりになるのをグッと堪えた。松緑の梅王丸はエネルギッシュで、隈取りによる顔や身体の赤いラインが捻じれて、千切れんばかり。桜丸は、あまりの少年っぽさに、チラシで配役を確認した。念のためオペラグラスでも確かめた。錦之助で間違いなかった。ふたりは兄弟の若さと勢いが立ち上がる。さらに芝翫の堂々たる松王丸が登場。力いっぱいの梅王丸と桜丸に対し、松王丸は知性と余裕で風格をみせた。牛車から現れた権十郎の時平は、ここまでに登場したどの人物にもない、ダークな色味を効かせる。エキサイティングな盛り上がりの中、喝采で結ばれた。
『車引』は、歌舞伎の様式美と、その型を通し俳優の個性を楽しむ一幕だと感じていた。その印象が、通し狂言として観ることで、印象はアップデートされる。『加茂堤』に始まる桜丸の後悔、『道明寺』でみた梅王丸の死闘、その記憶が鮮やかなまま始まる『車引』での兄弟の再会。見得の一つひとつが、人間ドラマの喜怒哀楽の通過点として目に焼き付いていく。
■五幕目 賀の祝(がのいわい)
Bプロの配役は、桜丸に八代目尾上菊五郎、松王丸に坂東彦三郎、梅王丸は中村萬太郎。三つ子の父・白太夫は中村歌六。
舞台は、三つ子たちの実家。庭には梅と松と桜の木が生えている。白太夫の70歳のお祝いの日。実家に三つ子たちが帰ってくる。3人はまだ到着していないようだが、3人の妻たちはすでに仲良く支度にかかっていた。松王丸の女房千代(坂東新悟)がたすき掛けで、梅王丸の女房春(中村種之助)はほっかむり、桜丸の女房八重(中村米吉)は振袖姿で奥から出てくる。年上らしい千代と春は落ち着きがあり、八重は初々しい新妻の風情。お互いに「うちの夫最高!」な惚気自慢も聞いていて楽しく、舞台も客席もお祝いムードだ。そこへ『車引』以来の再会となる松王丸と梅王丸がやってくる。売り言葉に買い言葉で兄弟喧嘩が勃発すると、刀を抜くかと思いきや、ソーレ! のかけ声で相撲がはじまり、さらに米俵も振り回す。彦三郎と萬太郎が、歌舞伎らしい大らかさと、ここという瞬間にピタリときまる確かなしなやかさで、息のあった大げんかを見せた。庭の桜の木が折れてしまったが、客席は大いに沸いた。
桜丸以外が揃ったところで、梅王丸と松王丸は父・白太夫に、各々のある願いを申し出るのだった……。松王丸夫婦、梅王丸夫婦が去っても、心配を桜丸は姿を見せなかった。しかし桜丸は、実は誰よりも早く到着し、白太夫に、さらなる願いを申し出ていたのだ。その願いとは、一家の恩人である菅丞相への義をたてて切腹をしたい、というものだった。
桜丸(菊五郎)は憔悴していたが、その覚悟は明らかだった。思えば白太夫は、もっと喜んだらいい時に浮かれきらず、怒りそうなところをさらりと流した。歌六の白太夫が散りばめていた僅かな違和感が、その場ではごく自然に過ぎ去り、振り返ればはっきりと思い浮かぶのだった。八代目菊五郎の桜丸は美しかった。ただ『仮名手本忠臣蔵』塩冶判官の切腹でみせたような、静寂と緊張の切腹とはまるで別物。白太夫が鉦(かね)を叩き念仏を唱え、八重は泣いてすがる。桜丸の心はきまっていたはずなのに、切腹と言えば大きな見せ場なのに、慌ただしい中で最期を迎える。その生々しさが、一層哀れにも思われた。三兄弟の物語は、最後に松王丸と源蔵が対峙する『寺子屋』へ続く。
■六幕目 寺子屋(てらこや)
『筆法伝授』の門の外で、幼い菅秀才(中村秀乃介)を預かった源蔵。今は、寺子屋に匿っているが、それも敵方に知られ、菅秀才の首を渡すよう迫られている。そこへ新たな子どもが入門した。小太郎(中村種太郎)と名乗り、村の子どもたちとは一線を画す品。源蔵夫婦は、菅秀才の身代わりに、この子どもの首を差し出すことに決める。まもなくして、春藤玄蕃(松本錦吾)が、首実検役の松王丸(松本幸四郎)を連れてくるのだった……。
公演名にある「秀山祭」は、幸四郎の曽祖父・初世中村吉右衛門の芸を受け継ぎ、功績を顕彰するもの。初世だけでなく、幸四郎の叔父・二世中村吉右衛門も当り役とした『寺子屋』の松王丸を、Bプロでは松本幸四郎がつとめる。源蔵に市川染五郎、源蔵の女房戸浪に中村時蔵、そして松王丸女房千代に中村雀右衛門という配役。
歌舞伎では、70歳を超える俳優が若者を演じることは珍しくない。しかし20歳の染五郎が、源蔵を演じると知った時は驚いた。ただ染五郎は、これまでもずっと若くして大役に挑み、観客を驚かせ楽しませてきた。俳優としてのエンジンをフル稼働させ、受け継がれてきた型に、今の全部を注ぎこむ。苦悩も、気づきも、安堵も、セリフだけでなく心の動きまでもが明瞭に伝わってきた。どの動きにも意味があり、台詞には一切の無駄がない。『寺子屋』が名作であることを、染五郎の源蔵を通してあらためて実感した。そんな源蔵に、しっかり寄り添うのが時蔵の女房・戸浪だ。かつては腰元だったという自然体の品が滲む。首の真偽がバレた時は、自分の身も危険にさらされる。それでも夫をそばで支える覚悟を、しなやかに時に鋭く体現する。一連の出来事に、観客に一番近い感覚で反応する存在でもあった。
そして戸浪と、松王丸の女房・千代を通して、『菅原伝授手習鑑』は三大名作の中でも、女性の役にも見どころに富んだ作品だとあらためて感じた。雀右衛門の千代は、パワフルな涎くり与太郎(市川男女蔵)にさえ優しい。その愛情深さをもちながら、我が子を身代わりに差し出すのだ。最後の別れと知りながら子を預け、寺子屋に戻ってきた時は、もういないと知りながらも一縷の望みをかけて、「様子」を聞く。松王丸が、我が子と知りながら首実検を果たす境遇と、オーバーラップした。
松王丸は、雪持松に鷹の黒い着付の鮮やかな衣裳が美しく、それが霞むほどの存在感。物語がすすむほど、表向きはひた隠しにする感情が、白く塗られた美しい顔に切々と表れる。我が子の首を確認し、「源蔵、よくやった」と絞り出した声は慟哭のよう。何のための義なのかと、思わずにはいられなかった。幸四郎の松王丸に、そう思わせるリアリティがあった。それでも通し狂言として観てきたからこそ、ここにいる誰のことも、責める気持ちにはならなかった。園生の前(市川高麗蔵)が菅秀才と再会し、松王丸・千代は無常感を体現するかのような白装束になる。小太郎を弔うお焼香の香りが客席にも広がる。フィクションの匂いが現実の世界に沁みて消えていくように、松王丸たちの無念や悲しみも観客の心で引きとることができたなら。そんな思いを込めて、幕切れに拍手をおくった。場内に熱く重い喝采が響いていた。
取材・文=塚田史香