平清盛が後白河法皇を退位させ、安徳天皇を即位させたことで爆発した不満とは?【日本史】
驕(おど)れる者は久しからず。治承四年(一一八〇)、平清盛が後白河法皇を退位させ、孫の安徳天皇を即位させると地方武士団や京の公卿、寺社の間で不満が爆発します。
まず、源頼政が諸国武士団の決起を呼び掛ける後白河法皇の次男以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)(命令)を奉じ、平氏打倒を宣言。真っ先に呼び掛けに応えたのが、伊豆に流されていた源頼朝(みなもとのよりとも)と木曽の暴れん坊、義仲でした。
特に義仲は倶利伽羅峠(くりからとうげ)で平氏の大軍を撃破して入京するのですが、折からの飢饉にあえぐ都で略奪暴行の限りを尽くすだけ。これを見て、巧みに泳ぎ回ったのが後白河上皇。義仲には平家追討を命じ、関東の源頼朝には「即時上洛」を命じたのです。
しかし頼朝もさる者。東海・東山・北陸三道の国衙領(こくがりょう)と荘園は元のように国司と本所に返還せよ、という勅令発布を要請。その執行代理人として力を振るう大義名分を獲得します。なかなか世慣れた人でした。
出典:『図解 眠れなくなるほど面白い 日本史』著:鈴木旭