『ばけばけ』錦織友一(吉沢亮)のモデル・西田千太郎の勝ち組人生 〜下級武士から教頭へ
朝ドラ「ばけばけ」で、吉沢亮さん演じる錦織のモデルとなった西田千太郎は、明治期の松江で活躍した教育者です。
足軽の家に生まれながらも、松江随一の秀才として頭角を現し、努力を重ねて中学校教頭へと出世しました。
まさに時代を味方につけたサクセスストーリーです。
一方、士族の中には時代の波に乗れず、没落していった人も少なくありませんでした。
今回は、西田千太郎の生い立ちから島根県尋常中学校へ赴任するまでの道のりと、士族の明暗を分けた背景について、ひも解いていきます。
松江雑賀町(さいかまち)の下級武士の家に生まれる
西田千太郎は、文久2年(1862)9月18日、松江雑賀町の「卒」の家に長男として生まれました。
卒とは、明治初期に使われた身分呼称の一つです。
江戸時代に「同心」や「足軽」と呼ばれた正規の武士身分をもたない下級武士たちは、明治3年、明治政府によって一律に「卒族」と呼ばれるようになりました。
ただし、この呼称は2年後に廃止されています。
明治2年12月、西田は8歳のときから寺子屋や私塾へと通い、明治6年の学制発布に伴い小学校へ入学しました。
・明治2年 松江横浜町の教導所、沢野修輔塾に学ぶ
・4年 松本宗四郎塾等に学ぶ
・6年 第一番小学 (松江市立雑賀小学校の前身)入学
・7年 第一番小学下等教科を卒業
・8年 小学校規則改正により下等小学を卒業、小学教員伝習所付属小学校に入学
この間、7年6月には雑賀町大火で自宅が類焼し、転居を余儀なくされています。
西田は小学生の頃から優秀で、校長が選んだ将来有望な3人の俊才のひとりに名を挙げられていたそうです。
俊才3人とは、西田千太郎と内閣総理大臣を務めた若槻礼次郎、そして“近代スポーツの父”として慕われた弁護士・岸清一でした。
下等小学を卒業した8年9月、ご学友の役目を果たすため、西田は教員伝習所付属小学校に入学します。
当時の県令・井関盛艮(いせき もりとめ)は、以前仕えていた旧宇和島藩主・伊達宗城(だて むねなり)から第三子・隆丸の教育を任されており、学友としてふさわしい優秀な子どもとして西田が選ばれたのでした。
ご学友となった西田は、盛艮と隆丸が松江を去る明治9年6月まで、井関邸で暮らしています。
なお教員伝習所とは、教員養成を目的として開設された学校で、島根師範学校の前身にあたります。
教員伝習所付属小学校でも西田は首席でした。
中学退学と同時に授業助手に任用される
明治9年9月、15歳のとき、西田は教員伝習校変則中学科に入学します。
ここでも成績は常に首席を維持しており、周囲からは「大磐石」と称されていました。
熱心に勉学に励む西田でしたが、13年9月に突如中学を退学し、授業手伝として教壇に立つようになります。
この決断は本人の意思というよりも、当時県庁に勤めていた父・平兵衛の意向だったようです。
その後5年にわたり、西田は教員見習いとして働きました。
・明治13年9月 松江中学校授業手伝(月俸3円)
・14年1月 松江中学校教諭補助(月俸6円)、
・16年3月 月俸8円に昇給
・17年3月 学校改称によって島根県第一中学校教諭試補となる
・17年7月 島根県第一中学校雇兼島根県師範学校雇(月俸10円)
・18年4月 島根県第一中学校助教諭試補兼師範学校助教諭試補(月俸10円)
17年5月、23歳の西田は、雑賀町に住む安食善一郎の次女くらと結婚しました。
くらは彼より5歳年下の18歳で、翌年の5月には長女きんが生まれています。
妻子を残して上京 教員検定試験を受験する
明治時代、教員は安定した職業であり、社会的地位を得られる名誉職でした。
しかし、当時の教員免許は帝国大学や高等師範学校、専門学校の卒業者に限られていたため、中等学校の正規教員は大幅に不足していました。
そこで政府は、明治17年「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」(略して「文検」)を開始します。
これにより、学校に通わなくても「文検」に合格すれば教員免許を取得できるようになり、経済的な理由で学校に進学できなかった人々にも教員への道が開かれたのです。
明治18年7月、西田は「文検」受験のため第一中学校を辞職。
県から学資15円の補助を得て、当時第二中学に勤めていた本庄太一郎とともに上京を果たしました。
本庄太一郎は、ドラマ「ばけばけ」で「半分弱」と言われた庄田多吉のモデルです。
文久3年(1863)生まれの彼は、島根県松江雑賀町の「卒」の出で、明治15年、中学卒業と同時に松江中学校授業補助となり、西田とともに母校の教壇に立っていました。
上京後、西田はイギリス人モリノー、アメリカ人ガーディナーおよびストーラルらから英会話、英作文等を学び、文学士・有賀長雄の心理学とイギリス人デニングの論理学を聴講しています。
また、図書館へ通って哲学に関する諸学科を独学で研究するなど、約1年間勉強漬けの日々を送りました。
そして迎えた、明治19年5月、「文検」受験の日。
西田は、経済・心理・論理・教育・英語の5科目を受験。英語を除く4科目はすべて一位で合格しましたが、英語は不合格でした。
一方本庄は、英語・動物・植物・心理・教育学のすべてに合格しています。
ふたりの快挙は、明治19年6月21日付の「山陰新聞」に掲載され、故郷の松江でも話題になったそうです。
島根県尋常中学校に帰任する
合格後、西田は兵庫県姫路中学校教諭に、本庄は東京府尋常師範学校教諭になりました。
・19年10月 兵庫県姫路中学校二等教諭に就任(月俸45円)
・20年3月 姫路中学校廃校によって退職
・20年6月 一年契約で讃岐の坂出私立済々学館教長となる(月俸50円)
契約期間が終了し再び上京した西田は、翻訳などを行ないながら勉学を続けたいと思っていましたが、郷里からの強い要請によって、21年8月、島根県尋常中学校教諭に就任しました。
翌年には教頭心得に任じられ、明治23年、同校講師に迎えられた小泉八雲ことラフカディオ・ハーンと運命的な出会いをするのでした。
勝ち組だった西田 〜士族の明暗を分けたものとは
尋常中学校教頭時代の西田の月俸は45円。
当時35円くらいの月給取りになると妾宅をかまえられたそうなので、西田は高給取りといえるでしょう。
しかし、明治維新後、西田のように成功した下級武士がいる一方で、小泉セツの実父や養父のように没落した士族も少なくありませんでした。
士族の明暗を分けたものとは、いったい何だったのでしょうか?
歴史学者・磯田道史氏は著書『武士の家計簿』で、官職につけたか否かが士族の運命の分かれ目だったと指摘しています。
というのも、官員として出仕できた士族とできなかった士族の収入には、大きな隔たりがあったからです。
その一例として著書では、明治7年における「海軍出納課長」の年収と士族授産事業の「金沢製紙会社雑務懸り」の年収を取り上げています。
当時の1円は現在の約3万円にあたるため、「海軍出納課長」の年収1235円は、現在の感覚で約3600万円。
これに対して「雑務懸り」の年俸48円は約150万円で、同じ士族であっても官職に就けるか否かで、収入に天と地ほどの差が生じたのでした。
当然、多くの士族が政府や県庁への出仕を切望しましたが、明治14年の『帝国統計年鑑』によれば、明治国家で官職にありつけた士族は16%。狭き門だったのです。
磯田氏は、官僚や軍人になる士族の条件について、次のように述べています。
「官への強い思考をもち、近代化に有益な学識才能に恵まれ、人脈縁故があり、官途に就くための周旋力・折衝力をもつ必要があった。
このような条件で士族は、新時代の支配エリートと、そうでないものに、分別されたのである。」磯田道史著『武士の家計簿』より
西田千太郎や本庄太一郎、若槻礼次郎や岸清一など、松江士族で立身出世を遂げた人の多くが、松江大橋の南に位置する雑賀町に住んでいた下級武士の出身でした。
「橋南の二合半」と蔑まれてきた彼らのうち、特に能力に恵まれた若者にとって、明治維新は封建制度からの解放であり、立身出世のチャンスでもありました。
世襲的な特権に頼らず、わずかな俸禄を補うために額に汗して働くことを厭わなかった下層武士たちは、明治以降の政治・産業・教育の分野で重要な役割を果たしたのです。
彼らを突き動かしたのは、出世欲だけでなく、己の才覚で国を良くしたいという強い志だったのかもしれません。
参考文献
松江北高等学校百年史編集委員会編『松江北高等学校百年史』島根県立松江北高等学校,1976.12. 国立国会図書館デジタルコレクション
磯田道史『武士の家計簿』新潮社
文 / 深山みどり 校正 / 草の実堂編集部