岡山と桃の深い関係と謎に探る ~ なぜ岡山には桃太郎がいて、白桃が特産品なのか
岡山桃太郎空港、桃太郎大通り、桃太郎線(吉備線)、桃太郎ぶどう……。
「岡山といえば桃太郎」を簡単に連想できるほど、岡山県には桃太郎にまつわるものであふれています。
岡山県は桃の一大産地であり、桃太郎の必須アイテムである「きびだんご」は定番のお土産です。岡山県出身の筆者も、「岡山といえば桃太郎」と当たり前のように思い、これまで深く考えたことはありませんでした。
しかし、すべての物事には理由があるものです。
なぜ岡山県では、桃や桃太郎がこれほど日常に溶け込んでいるのでしょうか。
その謎を公益財団法人大原芸術財団 倉敷考古館 研究員の伴祐子(ばん ゆうこ)さんが教えてくれました。
日本遺産における岡山の桃
桃から生まれた桃太郎が、犬・猿・キジを連れて鬼ヶ島に鬼退治に行く。
有名な「桃太郎伝説」のストーリーです。
岡山は桃太郎伝説発祥の地とされており、日本遺産には「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま(以下、「桃太郎伝説」と記載)のストーリーが登録されています。
桃太郎伝説の話の前に、日本遺産について簡単に紹介しましょう。
日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が「日本遺産」として認定したものです。地域に点在する遺産を「面」として活用し、発信することで、地域活性化を図ることを目的としています。
つまり、個々の文化財を結び付けて、ひとつのストーリーとして魅力を発信するのが日本遺産の特徴です。
倉敷市では三つのストーリーが日本遺産に登録されています。
桃太郎伝説
倉敷市も関わりのある「桃太郎伝説」は、29の構成文化財から成り立っています。
桃太郎のモデルとされるのが、「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」です。
現在の岡山県と広島県東部にあたる吉備の国には、その昔、温羅(うら)と呼ばれる鬼がおり、山の上に城を築き村人を襲い悪事を重ねていました。国を治めるために大和政権から派遣された吉備津彦命は、温羅退治の命令を受けることに。
吉備津彦命の温羅(鬼)退治については、日本遺産ポータルサイトから引用します。
吉備津彦命は、吉備の地に降り立ち、吉備の中山に陣を構え、その西の小高い丘の頂には温羅の矢を防ぐ巨石の楯を築いた。弓の名手であった命は、岩に矢を置き温羅に向かって矢を放つ。温羅も応戦し城から矢を放つが、互いに放った矢は何度も喰い合って落ちていった。しかし、命が力を込めて放った矢は、ついに温羅の左目を射抜く。温羅の目からは血が吹き出し、川のように流れたという。たまらず雉に化けて逃げる温羅を、鷹になった命が追う。温羅は雉から鯉に化けて血の流れる川に逃げたが、命は鷹から鵜となり、鯉を喰い上げ、見事に温羅を退治し、その首を白山神社の首塚にさらした。
日本遺産ポータルサイト:「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま
〜古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語〜
この話に登場するものが、倉敷市でも日本遺産構成文化財として認定されています。
・楯築遺跡
「西の小高い丘の頂には温羅の矢を防ぐ巨石の楯を築いた」跡
・鯉喰神社
「鯉を喰い上げ」た場所
伝説と実際に存在するものが結びついている点が、桃太郎伝説の興味深いところです。
では、なぜ「桃」太郎と呼ばれているのでしょうか。
ここまで桃太郎伝説が岡山で生まれた背景について説明しましたが、そもそもなぜ桃太郎は「桃」から生まれたのでしょうか。
その謎を公益財団法人大原芸術財団 倉敷考古館 研究員の伴祐子さんが教えてくれました。
なぜ桃太郎は「桃」から生まれたのか
──桃太郎はなぜ「桃」から生まれたと言われているのでしょうか?
伴(敬称略)──
そもそもなぜ桃太郎は桃から生まれたのでしょうか。それは、中国の神仙思想とつながります。
桃は魔除けの聖なる果物として扱われていました。
中国で古くから信仰されて来た仙人の西王母(せいおうぼ)が、長寿の実として育てていたのも桃です。道教では魔除けをする時に、桃の枝の弓矢を使ったり、桃の枝で魔を祓ったりしていました。
そのため、桃が魔を祓うという思想も、桃の実とともに中国から日本に伝わってきたと考えられます。
──古事記に桃が出てきますよね。
伴──
イザナギがイザナミから逃げる時に、追っ手に向かって三つの桃を投げて追い払った話ですね。これも「魔を祓う」という考えにもとづくものと思われます。
また、桃は薬としても用いられ、さまざまな病を避ける効果があると考えられていました。
魔除けの思想や薬が鬼退治とつながったのではないでしょうか。
岡山と桃の密接な関係
「悪い鬼を退治をするのが桃太郎」となったのは、「桃が魔を祓う神聖な果物」という中国の思想と関わりがあったのあったからかもしれません。
さらに岡山が桃の一大生産地になった歴史を深掘りしましょう。
遺跡から桃の種が出土
──昔から岡山には桃があったのですか?
伴──
桃は、大昔に中国から伝わりました。
岡山では弥生時代、約2000年前の桃の種が発見されています。
ただ、当時の桃は果物として食べるには小さすぎたようです。
昔は、犬養木堂(いぬかいぼくどう)記念館の辺り(現在の岡山市北区川入)が港でした。そこから楯築遺跡へ向かうところにある「上東遺跡」から、大量の桃の種が出てきました。ここには桃の木が植えてあった可能性があります。
また、古代の遺跡からは井戸や祭祀の場所から桃の種が出土するんですね。
神聖なものとして、お供えされていたのだと思います。
昔の桃は「とんがっていた」
──昔の桃は小さかったんですね。これが今の大きな丸い桃になったのでしょうか。
伴──
実は違うんです。
桃と聞いてどのような形を思い浮かべますか?
「とんがった形」と「丸い形」の2種類を思い浮かべるかもしれません。古い時代の絵に描かれているのを見たら、だいたいとんがっています。
絵本に描かれている桃も、おそらくとんがった形をしているはずです。つまり、明治時代以前の桃は、ほとんどが「とんがった形」だったのではないかと考えられます。
偶然誕生した白桃
──とんがった桃が、今の大きな丸い桃になったのでしょうか。
伴──
今の桃とは品種が違います。
品種が大きく変わったのは、明治32年(1899年)でした。
明治時代になってそれまでの桃とは違う品種が、品種改良のために日本に入ってきたんです。明治は殖産興業(しょくさんこうぎょう)や品種改良が盛んにおこなわれた時代でした。
殖産興業とは、明治時代に日本政府が掲げた、国を豊かにし、強くするために産業を盛んにする政策のこと。
この時代は牛などの家畜に見られるように、作物も外国のものをかけ合わせて新しいものを生み出そうとしていました。
果物も同じように、国を挙げて品種改良されたんです。
品種改良を目的に、天津水蜜(てんしんすいみつ)・上海水蜜(しゃんはいすいみつ)・蟠桃(ばんとう)の3種類が日本に入ってきました。
岡山ではこの頃、現在の赤磐市、昔は熊山町だったところに小山益太(こやま ますた)という果樹栽培の研究をしていた人いました。
小山益太さんは天津水蜜・上海水蜜・蟠桃を育ててみようと思い、中国から取り寄せた3種類の桃を入手して、弟子の大久保重五郎(おおくぼ じゅうごろう)が庭に植えたんだそうです。
すると上海水蜜の実生(みしょう)から、偶然白桃が誕生しました。
実生とは、種から育った植物のこと。
この偶然できた白桃(本白桃)が、岡山や他県の品種のベースになっています。
桃の研究に情熱を注いだ人物
──品種改良はどのようにするのですか?
伴──
たとえばここに大きいけれど酸っぱい桃と、小さいけれどおいしくて甘い桃があるとします。
これらをどのように品種改良したらおいしくなるのだろうか。たとえば花粉を付たら実がなるのか、それとも接ぎ木なのか。そういった研究をします。
虫に強いとか、おいしくないけれど乾燥に強いとか、水害に強いとか。さまざまなバリエーションを持った遺伝子があるんです。
いろいろな種類から厳選して、品種を絞って、おいしくて育てやすいものは何か、と明治時代に研究していました。
小山益太さん・大久保重五郎さんをはじめ、当時の人々は桃の品種改良や栽培に非常に情熱を注いでいていました。
そしてついに、大きくて甘い桃ができたんです。
伴──
ここで倉敷の話をしますね。
倉敷には大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)が設立した「大原奨農会(おおはらしょうのうかい)農業研究所」という、農業を盛んにするための研究所がありました。
その研究所で桃の栽培の研究をしてほしいと、赤磐の小山益太さんが招かれ、教えていたんです。
その後、大原孫三郎さんや總一郎(そういちろう)さんは、果物をお中元などにしていたそうです。また、小山益太の功績を記念して、大原孫三郎は小山益太の号(別名・通称)の「楽山」から「楽山園」と名付け、果物の包み紙などは児島虎次郎がデザインしました。
このことから岡山の名産品として最初に白桃をブランディングしようとしたのは、大原家ではないかと推測されます。
ちなみに鳥取に梨や葡萄の栽培法を研究したのも小山益太さんです。その土地に合った果物の栽培に情熱を燃やしているかたでした。
他にも、笠岡の渡辺淳一郎(わたなべ じゅんいちろう)や長尾円澄(ながお えんちょう)も品種改良に熱心でした。笠岡にある長福寺のお坊さんだった円澄さんは、「桃和尚」と呼ばれたそうです。在来種系の固い桃を海外への輸出や缶詰用に作っていましたが、今も玉島は桃栽培が盛んです。
在来種を玉島で育てていたことと、品種改良する流れのふたつが岡山にあったのは面白いですね。
現在の岡山の桃
──最近は次々に新しい品種が誕生していますね。
伴──
今岡山では白桃を打ち出していますが、その背景にはさまざまな歴史がありました。現在もどんどん品種改良されていますよね。
品種改良した後、3代、4代と同じ性質の桃ができるように定着させて、固定化するんです。このため、新しい品種ができるのには何年もかかります。
時にはヨーロッパの桃をかけ合わせることもあります。ヨーロッパの桃も、もとは中国からシルクロードを渡ったものですが、白桃と比べると濃い色をしています。白桃も日に当てるとうっすらピンクになるんですが、ここまで赤くはなりません。
また、一つの品種は2週間くらいで収穫が終わります。
途切れずずっと桃を収穫できるよう、実のなる時期の異なる品種がないといけません。
岡山の桃は、枝を低くして歩きながら収穫できるように作られています。地域によっては、1本に500個までと決めて、残りはすべて摘果(間引き)するので大きく育ちます。
さらに日焼けしないように、わざわざ袋掛けをして遮光するんです。
岡山の白桃は、日照時間が日本一であるにもかかわらず、あえて豊かな光を遮るというぜいたくさがあります。
岡山では、美白のように、桃も白ければ白いほど良いと考えられているようです。
おわりに
岡山で生まれ育った筆者にとって、桃は身近なものであり、桃太郎の存在も当たり前のように感じていました。
しかし、なぜ桃が特産品なのか、なぜ岡山といえば桃太郎なのか、深く考えたことはありませんでした。
取材を通じて、桃の神仙思想や遺跡から桃の種が出土したという歴史的なつながりから、「桃から生まれた桃太郎の物語」が生まれた可能性があることを知りました。
さらに岡山が桃の一大生産地になったのは、小山益太さんをはじめ大久保重五郎さんの存在が欠かせません。
日本遺産の「桃太郎伝説」が生まれたのは、偶然だったのか、必然だったのか。歴史の面白さを実感できる取材となりました。
白くてなめらかな岡山の桃を食べながら、「桃太郎伝説」にまつわる歴史や遺跡に想いを馳せるのも良いかもしれません。
撮影協力
なんば農園