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1960年代初頭の外国車初体験「フォード・タウヌス」:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#14

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輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し“の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。

盛んになるいっぽうのヒストリックカー・イベントでも、なかなか遭遇できないクルマの一台に「フォード・タウヌス」がある。

現在の目で見ても、ドイツ・フォードが1960年1月に放ったタウヌスP3は、当時の乗用車としては群を抜いて斬新なスタイリングであったと思う。タウヌスとはフランクフルトの北に広がる山地の名前に由来し、ドイツ・フォードのブランドとして長く使用されていた。

P3以前のドイツ・フォード各車はアメリカ車を縮小したかのようなデザインが特徴であったが、新型では一転して曲面豊かな欧州的スタイリングに変身し、“宇宙船のよう”とまで評された。

私がはじめてタウヌスに遭遇したのは、小学校低学年のころに自宅前の路地であった。街では“どんよりとした”スタイリングの日本車か、ドーンと巨大なアメリカ車しか見たことがなかった私にとって、突如としてわが家の前に出現した真っ赤なボディカラーに白いルーフのタウヌスは衝撃であった。だいたい車名もわからなかった。

そもそも赤色のクルマなど、消防自動車を除けば市中で見かけることのない1960年代初期のことでもあり、赤に白のルーフのクルマは、別世界から迷い込んだかのようであり、郊外の地味な住宅地には場違いな配色だった。それが停まっていた道路は舗装される以前で、まだ砂利混じりの土の路面だった。

外国車であってさえ、赤いクルマは横浜市内の米軍住宅の近くに行かなければ遭遇することが希有な、そんな昭和半ばのクルマ環境であったのだ。事実、1960年代にある時期まで、消防車と混同するからと赤い塗色が制限されていたほど、日本はクルマ後進国であった。これについてはさらに話しておきたので、後述することにしよう。

赤いクルマは花の香りだったが?

赤いタウヌスをさまざまな角度から観察したあと、門前の石段に座ってクルマの持ち主が現れるのを待ち続けた。別に特別な行動ではなく、暇な自動車小僧の日常行動であった。

しばらくすると、子供の目に見ても眩しいほど都会的な身なりの若い女性が、わが家の門の中から現れ、左側のドアを開けると運転席にさっと座ったのには、わが目を疑った。

この眩しいほどの女性が遠縁の方だということはあとで知るのだが、なんと私に向かって、「ぼーや、自動車が好きなの」と上品な声で聞いてきたのには心底おどろいた。シャイなガキであった私が無言で頷くと、「前の道は一方通行なのよ。(ウチに帰るには)遠回りしなければならないので、ひとまわり一緒に乗ってみない?」と誘ってくれた。今でもその情景は克明に覚えている。

断る理由などあるものか。どうせ、まだ家には帰っていないのだから母に伝える必要もない。おずおずと車内に入ると、見たこともないほど鮮やかな赤と白の配色に驚かされた。黒やグレー、あるいは白いカバーを掛けた座席しか知らなかった私にとって、この室内の明るさ、華やかさは初めて見るものだった。

私にとっての外国車乗車体験はこの時のタウヌスであった。もうひとつの重要な体験は、はじめて女性が運転するクルマに乗ったことだ。

当然ながら車名は知らず、アルファベットも読めなかったので、フォード・タウヌスという名前のドイツ製のガイシャであること、ドイツ車なのでハンドルが左についていることを教えてもらった、おぼろげな記憶がある。もっとも説明を聞いても、なにも理解できなかったはずだが。

私鉄の隣駅に行き、ひとまわり戻ってくるという程度のドライブは、アッという間に終わり、路肩でクルマから降ろされた。その後もタウヌスはわが家にやってきたが、私は玄関横で待ち続けてドライブに誘われるのを待ち続けた。2、3度ドライブをしたあと、タウヌスもオーナーも姿を見せなくなり、とても寂しい思いをしたことを覚えている。

だいぶあとになって、タウヌスの車内が花のような香りだったとクルマ好きの叔父に話したところ、それは女性がつけている香水の香りだろうと一笑された。香水の存在さえ知らなかった私は、それまでクルマとはガソリンとタバコの臭気が入り交じったものだと思っていたからだ。

私がカメラを使える以前のタウヌス体験であったから、この連載のために入手した赤いタウヌスの画像。2ドアだったか4ドアだったか、まったく記憶には残っていないが、ルーフが白色だったこと、内装が赤と白の2色だったことは覚えている。(Ford Motor Archives)

ホンダが突破した”赤い乗用車”の壁

まだ、カメラも持つ以前のできごとだから写真はない。どうしても赤と白のタウヌスのイメージを残しておきたくて、カタログの画像を入手したのは、最近のことである。

前述したように1960年代にある時期までの日本では、クルマの塗色として赤色が制限されていた。その前時代的な制限を打破したのは本田宗一郎氏であった。ホンダの50年社史である『語り継ぎたいこと〜チャレンジの50年〜』の中にその顛末が記されているので、要約しておこう。

本田技研工業が四輪生産に乗り出すにあたって、軽自動車規格の「T360トラック」のほかに、2座席オープンの「スポーツ360」を開発していたことはよく知られているが、宗一郎社長はスポーツ360の車体を赤色にすることを決めていたという。だが、そこには自動車の車体色に赤や白を使うことを規制する法律が障害となって立ちはだかっていた。

消防車や救急車などの緊急自動車と紛らわしいからというのが理由だ。さすがに真っ赤なオープンスポーツを消防自動車と間違えるわけはないが、そうしたクルマを想定していなかったのだろう。

事実、赤色の輸入スポーツカーを車検の度に塗り替えたという、ジョークのような本当の話を、ベテランの整備士から聞いたことがあった。

この“非関税障壁”を取り除こうと、ホンダの担当者が運輸省(当時)へ通い、本田宗一郎社長自身も「世界の一流国で国家が色を独占している例など聞いたことがない」などと訴え、この悪法は撤廃された。スポーツ360の発展系であるS500は晴れて赤いボディカラーが象徴となって発売されたのであった。余談ながら、スポーツ360をS360と表記するのは正しくない。試作車は“スポーツ”を冠し、市販型されると“S”を冠するようになる。

晴れて赤い塗色をまとって発売されたホンダS500。これはカタログの画像だが、S800がほしいと話した親戚のクルマ好きが、せめてカタログでもと譲ってくれたっけ。

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